- Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
- / ISBN・EAN: 9784766418040
作品紹介・あらすじ
学習者が指導者から学ぶべきものとは何か。それはどのような言葉で促されるのか。第一線で活躍する指導者や実践者との対談を通して、「わざ言語」が実践の場で作用する構造を明らかにする。
感想・レビュー・書評
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別棟滞在は、正統的周辺参加や、ある種のわざ言語的なところでしかあらわしえない、微細な状態や感覚を伝達するという意味では、芸道における教育の要素も多分にあるなぁと思う。
以下引用
人間の理知性(intelligence)は、知識の所有によってのみ定義されない。
看護師は、自分の患者が何を欲しているのかのみならず、生命を保持し、健康を取り戻すために何を必要としているのかを知るために、彼の皮膚の内側に入り込む
感覚の共有がなければ、その人は何によって安寧が得られるのかという看護の手だてさえ探しえない。したがって看護のわざとは、科学的な客観的世界を含みつつ、患者との相互主観的で相互行為的な関係論的世界に生きる看護師が実現できることになる
患者と共に、存在し、そして共に行為することが必要になる。
人間的事象を対象とする看護学では、行為者である看護師が、自己を含めた人間理解を基盤にするために、一切の対象化を可能とする自然科学的な思考法とは区別された方法をとらねばならない。主客分離の思考法ではなく、看護師が観る側であると同時に見られる側の関係、すなわり看護師が観ると同時に患者からも診られており、またお互いが影響されていくという相互主観的で相互交流的な関係
技能は、行為のテクニックや手続きの知識としての技術の習得を含んではいるものの、当の技能の到達が技術の習得で保証されるわけでも、技能が技術に還元されるわけでもない。
技術、行為のテクニックや手続きの知識を負うことができても、特定の状況の中で適切な判断に基づいた表出ができなければ、また一回性の表出である限りは高次の傾向性としての技能が獲得できたとは言えない
行為のテクニックや手続きの知識といった技術の習得が含まれることは当然だが、そのような技術の習得は、技能の到達を保証するものではない
看護師は、自分の患者が何を欲しているのかのみならず、生命を保持し、健康を取り戻すために何を必要としているのかを知るために、彼の皮膚の内側に入りこまねばならない
看護実践は、患者という他者の経験世界に寄り添うこと、すなわち患者と看護師との相互主観的な関係を基盤とする、今ここにおける哀しみや辛さといった生きられる経験の共有からはじまる
感覚の共有がなければ、その人は何によって安寧が得られるのかという看護の手だてさえ探しえない。したがって、看護のわざとは、科学的な客観的世界を含みつつ、患者との相互主観的で相互作用的な関係論的世界に生きる看護師が実現できること
看護師は、共に存在し、そして共に行為することが必要になってくる。このような文脈から、看護を、「行為する芸術」と呼び、さらに「相互主観的な交流」を看護の芸術とした
(通常の)看護師は、患者がその身に被っている病苦や苦難の体験を、患者側の解決すべき問題として捉え、その問題解決を援助と考えて、努力していることを指摘した。看護の目的や動機や動機がどれだけ善であっても、しょせん患者は、問題というモノ化された実体であって、病める全体としての患者は、突き放されたままであり、看護師とは異なる世界で沈黙せざるをえない
人間的事象を対象とする看護学では、行為者である看護師が、自己を含めた人間理解を基盤にするために、一切の対象化を可能とする自然科学的な思考法とは区別された方法をとらねばならない
私離れ。一人の人間として、全体的な存在である自己のなかで、看護師として機能する私を自由に客体化できているということ。この「私を自由に客体化する」とは、「自己が全体的な存在」である限りにおいて、生きている自分を対象化して点検するということではない、看護師が相手の内に入り、その悲しみや喜びを共有したとしても、自身の価値観に支配されている場合、受け止めたはずの患者の感覚が、逆に看護師自身の感情に振り回されてその感情の渦中へと埋もれていってしまう。そのため私離れ、を可能にする力とは、看護師自身の閉ざされた世界に埋もれてしまったかもしれない患者の主体性を回復させることにある。したがって、自分自身が相手との関係の中で、その埋没した主観的世界を徹底して問い直し、自分自身に対して主体的にかかわろうということとして受け止めることができる
向き合うその人を客体視するのではなく、身勝手に看護師の主観で判断するのではなく、病んでいるその人の経験に沿うために自己を試金石にかける。それは患者を客体化しその関係に境界線を引いてその人を見ていたときには、無秩序なノイズでしかなかった情景が、そのうちに入った途端、言い換えれば患者と感覚が共有できた途端、それらが初めて相互にとって意味のあるものとして立ち現れてくるといった経験。
装置としての看護師の身体は、患者との世界を共有している自己をそこに置きながらも、あえて自己を外側に置くことを試みる
看護師自身の価値観に支配されず、自己の感情に拘泥せずに、患者と向き合っているのか、という自己言及的な視点。わたしが感じていることは、わたしの身勝手な解釈や判断ではないのか。このような私離れと言う省察がなければ、患者は看護師を目の前にしながら、まずます孤立してしまう。
患者の生活を支えることで生きる営みを助ける看護実践において、看護師は、患者と日常を共にしながら、相互の行為的連関の内にその人を了解していく
看護-その時、その場における体験していることのニーズを満たすこと、そのために、看護師自身の完成を有効に活用することが必要
★★わざの伝承-伝えられないことを伝えようとすること
ここには、◎◎ができるといったできる項目のリストは意味をなさない。ここでの達成は、特定の学習者自身のわざというよりも、周辺との関係のあるよう全体が、独特のありように代わっている。ではなく、そのとき、当人の主人公性も消滅している。場の中に消えている
場の中に消えているというのは、なにものではない状態になるという達成。
→それは徹底して、他を生かすという技。他によって生かされることにすべて委ね切る、
★お母さんがおなかの赤ちゃんと対話し、いま赤ちゃんがどうしたがっているかを感じ取る感覚を鋭敏にする。それにこたえようとする。そのうえで、お母さんはどうしたいか、どういう身体の姿勢、動きで答えるのがよいのかを、専門家として、一緒に考え、工夫する
★この場合の専門知識は、妊婦の感覚と分娩経過を的確に把握した上で、赤ちゃんと母がどのように協力しあっていけるかについての知恵
★★そのような知恵(わざ)はますます「その人らしく」「その人の潜在能力がフルに発揮されるように」見えない働きをする。
★このように見れば、助産院でのわざは、特定の個人の個人としてのそれではなく、助産師、お母さん、赤ちゃんによる共同の達成。みごとな達成を支え、産出を促し、結果的にその場が他では考えられない、高度の達成をうみだす
★★あかちゃんは引き出すのではなく、決然と身をよじって、苦しいもがきを通して、出てくるのだ。それをようこそいらっしゃいと歓迎するとき、自然に赤ちゃんと母体を支えているのが、助産であり、それこそが教育の本質
→あわ居でやっているのも、この意味では「助産」なんだな。
道徳教育における徳目主義批判。(風邪菌)
→教育目漂を、目標行動のリストで表現し、それを順次獲得することを教育とみなすことへのひはん詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「わざ」をいかに言葉で伝えるか。
不立文字の世界をこれだけアカデミックに追及した内容は非常に素晴らしい。
後半にある各分野のトップレベルの人たちの「わざ」の学習体験や指導論は非常に面白かった。
内容を全部を理解するのは難しいですが、非常に勉強になる内容で大変おすすめです。 -
こちらのブログで知りました。言語以前の感覚やコツの共有、またはその言語化等々。
http://akyoshi.cocolog-nifty.com/knowledge_design/2011/04/post-c169.html -
以下twitterより転載。
本書で用いる「わざ言語」という用語は、大枠では、様々な「わざ」の世界でその伝承の折に頻用されている、科学言語や記述言語とは異なる独特な言語表現を指示している。
…それは科学言語のようにある事柄を正確に記述、説明することを目的とするのではなく、相手に関連ある感覚や行動を生じさせたり、現に行われている活動の改善を促したりするときに用いられる言語である。(はじめに より)
どの分野にも必ずある「言語化できない知識やわざ」をどのように伝えていくかという点で、とても参考になります。「デザイン」も身体知や経験知を多く含む分野ですので、教育・伝達の場面で「わざ言語」が多用されています。
理論編を後回しにして第二部の実践編を読んでる。歌舞伎役者、アスリート、助産師などの言語化できない「わざ」が伝えられ学ばれていく様子は圧巻。単に手法として「デザイン思考」を学んでも直ちに創造的にはなれない理由がここに書かれている。デザイン教育の核心もたぶんこれ。
暗黙知の伝達における受け手の役割:「私たちのメッセージは、言葉で伝えることのできないものを、あとに残す。そしてそれがきちんと伝わるかどうかは、受け手が、言葉として伝え得なかった内容を発見できるかにかかっている。」(ポランニー「暗黙知の次元」) (「わざ言語」p69)
暗黙知は、「教師の説明を理解しようとする生徒らの知的な協力が期待できて初めて言葉で伝えることができる」(ポランニー「暗黙知の次元」) ものなのである。(「わざ言語」p69)
第4章 「文字知」と「わざ言語」…自分がデザインの教育の中でやってきた/やっていることの意味や理由が、明確に説明されててスッキリしました(^^) ,
第7章 人が「わざキン」に感染するとき…佐伯先生深すぎます。参りましたと言うしかありません。
…これでやっと読了。
【無断転載を禁じます】 -
あとがき
北村勝朗
(東北大学大学院教育情報学研究部教授)
本書は,わざ研究の先駆者である生田を中心とし,わざの伝承に関心をよせる7名の研究者が,それぞれの専門領域から「わざ言語」という切り口によって執筆した,新たな学びを問うものである。
「はじめに」の中で生田が示しているように,本書は前半を理論編としてそれぞれの研究者の視点から「わざ言語」の意義を論じ,後半は実践編として伝統芸能,スポーツ,看護の領域のわざ実践者との対談により,「わざ言語」の現場での在り様がリアリティをもって語られている。さらに,前半の理論編では,後半で語られるわざ言語の実際を分析対象として引用しつつ論ずるというユニークな構成となっている。
生田および北村を中心とした研究グループは,平成20年4月から23年3月までの3年間に渡り,文部科学省科学研究費補助金(基盤研究(B)研究代表者 生田久美子、研究分担者 北村勝朗)の助成を受けた。本書は,この研究助成によるプロジェクトを土台にしている。このプロジェクトでは,7回に渡って研究会を開催し,「わざ」の伝承場面を目にし,聞き,語り,そして問い続けてきた。そのひとつの成果としてまとめたものが本書である。3年間の研究会を以下に記す。
花柳小春(日本舞踊)
「わざ」と「ことば」~伝統芸能の「知」を探究する~
中村時蔵(歌舞伎)
歌舞伎の「わざ」の継承とは何か~「ことば」体験に注目して~
佐藤三昭(創作和太鼓)
創作和太鼓における「わざ言語」の役割~「しむけ」に注目して~
朝原宣治(陸上競技)
己の感覚との対話
紙屋克子(看護)
看護の技と言語
村上明美(看護)
熟練助産師の「分娩介助」のわざ~その人らしく「産む」・その人らしく「誕生」する~
結城匡啓(スピードスケート)
選手と共有する「わざ」世界
本書で登場した「わざ言語」の姿は実に様々であった。今この瞬間に投げかけられた「わざ言語」を通して動きを学び感覚を共有することもあれば,わざ言語として書かれた文字を通して,師の芸や,かつての自身と対話し,時を隔てて感覚を共有することもあった。さらに,大切なレースの直前や助産の場に,共に同じ目標を目指してそこにいることで,互いの思考,情緒,意識,雰囲気,価値観,そして感覚を共有することもあった。このように「わざ言語」は,多様な文脈の中で,多様な学びの様態となって現れ,多様な作用を生み出し,その中で,教え学ぶ両者に大きな変化をもたらす,実に学びの契機を大量に含んだ「学びの触媒」のようなものなのである。
一方で,「わざ言語」は,単に言語形式によって区別されるものでもなく,文脈によって役割が変化することから,どこか捉えにくく,感覚的であいまいな印象をもたれるかもしれない。しかし,実はこのあいまいさこそが,「わざ言語」を捉える重要な視点なのであり,学びを捉える新たな視点でもある。なぜなら,あいまいさは,科学的な言語で説明することが困難でありながら,それを受けとめる文脈やひとによって,どこか気にかかる,あるもの全体を捉えさせてしまうものであり,Achievement状態に誘い,「わざ」を身にまとうに至る重要な視点と捉えられるからである。KJ法の考案者である川喜多二郎は,この「あいまいさ」を,どこか気にかかるという感覚で捉えられることの重要性に触れる中で取り上げ,次のように述べている。「ハプニング的に、しかも“気にかかる”というあいまいさで捉えられたデータを、今日の科学では全く不当にも無視し軽蔑してきた」(川喜多二郎,1970,『続・発想法』,講談社,30頁)。わざ言語を通した学びの本質も,まさにこうした「どこか気にかかる」感覚の積み重ねにあるのではないだろうか。
本書によって「わざ言語」の全てが解明され尽くしたとは思っていない。むしろ,新たな課題が見えてきたといった方が適切であろう。今後,更なる「わざ言語」そして「わざ」の研究を発展させていきたいと考えている。
「はじめに」 (生田久美子)
第 I 部 「わざ言語」の理論
第1章 「わざ」の伝承は何を目指すのか――TaskかAchievementか(生田久美子)
第2章 熟達化の視点から捉える「わざ言語」の作用
――フロー体験に至る感覚の共有を通した学び(北村勝朗)
第3章 スポーツ領域における暗黙知習得過程に対する「わざ言語」の有効性
――動作のコツ習得過程において「わざ言語」はどのように作用しているのか(永山貴洋)
第4章 「文字知」と「わざ言語」――「言葉にできない知」を伝える世界の言葉(川口陽徳)
第5章 「わざ言語」が促す看護実践の感覚的世界(前川幸子)
第6章 看護領域における「わざ言語」が機能する「感覚の共有」の実際(原田千鶴)
第7章 人が「わざキン」に感染するとき(佐伯胖)
第 II 部 「わざ言語」の実践(対談)
第1章 歌舞伎の「わざ」継承と「学び」――「役になりきる」ことに向かって
語り手:中村時蔵(歌舞伎俳優)
第2章 しむける言葉・入り込む言葉・誘い出す言葉――創作和太鼓の実践から
語り手:佐藤三昭(創作和太鼓作曲家・指導者)
第3章 感覚との対話を通した「わざ」の習得――感覚人間としての陸上体験
語り手:朝原宣治(北京オリンピック陸上競技メダリスト)
第4章 スピードスケート指導者が選手とつくりあげる「わざ」世界――積み上げ、潜入し、共有する
語り手:結城匡啓(バンクーバーオリンピック・スピードスケート・コーチ)
第5章 「生命誕生の場」における感覚の共有
語り手:村上明美(母性看護学・助産学)
「おわりに」 (北村勝朗)