零戦を製造していた中島飛行機の技師の回顧録。戦時下では工場長を務めた製造現場の人で、技術屋らしく淡々と綴った文章は信頼感を持って読めた。
戦前は欧米の会社との交流を欠かさず、技術の吸収につとめたこと、三菱と競う中島飛行機の動向、テスト飛行に同乗する仕事、工場長として精密部品の品質保持のため下請けを育てる様子……など、興味深い話が多かった。
戦時中は製造のための機械の部品がアメリカ製で、これが壊れると、飛行機が作れなくなってしまう――という話は象徴的だと思う。日本が「日本製」と誇った零戦も、そういうところで技術の差が歴然とあったのだ。戦局が悪化するにつれ動員の女子工員が作る機体は精度が下がり、エンジン製造が間に合わないため、エンジンを待つ首なし飛行機が並んでいた。
製造用工作機の代用を家内制手工業の木工機械で代用できないか検討しろと言われ、バカバカしいと思いつつ見に行ったなど戦況の悪化につれ技師としてどうしようもない話が増えていく。
空を見上げるとわが方の飛行機が高高度で息をついている、ターボが完成していればまだしも……と申し訳なく思ったりする。
デビュー時は優位だった零戦だが、アメリカはすぐに弱点補強の研究改良を進め、大量の資金をもって企業を競わせ強力なエンジンや防御のよい機体を開発していった。しかも大量生産ラインにのるものだ。アメリカの事情は当時わからなかっただろうが、日本の技術力・製造力が開戦まもなくをピークに下がっていく様子は痛いほどだったろう。
こういう記録の前に「なぜ日本は負けたのか」などという問いを発する人はいないだろう。開戦半年しか持たないという予測はこういう分野でも妥当だったのだと思う。