最古の王墓・吉武高木遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」 24)

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  • 新泉社
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  • Amazon.co.jp ・本 (93ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784787706348

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  • 福岡県福岡市の西、吉武地区に青銅器を伴った金海式の甕棺墓が発掘された。弥生中期後葉の須玖岡本遺跡が奴国の王墓三雲南小路遺跡が伊都国の王墓であることは間違いは無い。弥生中期初頭のこの遺跡は、それらの国に先立つ王墓ではないかとみなされています。この時代が何世紀になるのかを書いていないのは、土器の炭素年代がまだ確定しないからですが、金海式の甕棺が出ていることが気になります。ちょうどこの頃から木棺墓から甕棺墓に移行しており、著者は遼寧青銅器文化複合から細形銅剣文化複合に移った頃だと主張しています。文化の質が変わるということは、なにかの大きな変化があったということです。

    隣の吉武大石遺跡は武士の遺跡だとみなされています。あまり副葬品が無いのです。副葬品は多紐細文鏡、細形青銅器、磨製石剣、ヒスイ勾玉、碧玉管玉が出土しています。

    北九州では前期の支石墓の時代(田村、新町)から、弥生時代前期中ごろ木棺墓(伯玄社)の時代を経て、吉武高木、中期前葉から中期中ごろの墳丘墓の吉野ヶ里をへて中期後葉の須玖岡本、三雲南小路の時代に至る。

    吉武大石では多くの体内に残った青銅器破片が出てきた。戦闘の証拠である。吉備の遺跡からはこのようなことは無い。清水遺跡は丁寧に葬られた骨に大量の矢が刺さっていたが、これはむしろ勇者を送る儀式だったという説がある。

    戦争が日常化した北九州、大きな悲劇があった山陰、戦争を回避した吉備、そしてそれを最終的に実現しようとした大和という私の仮説はまだ全然揺るがない。

    この遺跡は飯盛山の裾野に広がるのどかな田園地帯にあるそうだ。飯盛山登山を済ませた後でゆっくり遺跡めぐりもいいかもしれない。北九州はまだまだ未知の歴史が隠れていそうだ。

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