障害児の家族に関する情報は障害児本人と親(特に母親)にスポットがあてられることが多いように思う。
この本は障害児の兄弟(以下、本書にのっとり『きょうだい』とする)について詳説していることが珍しいと思ったため読んだ。
「きょうだいである故に障害児の介助、扶養に対する苦労について記されているのだろうか」と大まかに予想して読み進めたが、「きょうだい」として期待される自分の役割と、自分の気持とのせめぎあいなど自分の想像の及ばない壮絶な気持ちが描かれていて衝撃を受けた。
「私自身を見てほしいのに、『○○ちゃんのおにいちゃん』としてしか扱ってもらえないことに対するフラストレーション」
「私にだってわがままを言いたい時があるのに、『○○はおまえの助けがないと生きていけないんだぞ』と諭され、わがままを言わないことや障害児と親にとって役立つことを期待される。理解はできるが腑に落ちないとずっとわだかまりを抱えてきた」
などなど、読んでいて胸がつらくなることがたくさん書かれていた。
特に読んでいてしんどかったのは障害児ときょうだいをもつ母親に聞いた「きょうだいに期待すること」の節。
「よいこでいてくれること。障害児の世話だけでも大変なのでわがままを言わない、手のかからない子であってほしい。」
「私はきょうだいを障害児の『分身』だと思っている。障害児にはスポーツで活躍することやテストでよい成績を残すことは期待できないので、きょうだいには優秀であってほしい」
上記のことを述べたお母さん方の気持ちは分からんでもない。親は誰しも子どもに様々なことを期待するものだと思う。
しかし、きょうだい本人の気持ちが蔑にされがちではないかと心配になってしまう。
自分を自分としてでなく「きょうだい」としてしか見てもらえない、「きょうだい」としての役割ばかり(ではないのかもしれないが本人の実感として)期待されるというのは、酷なことではないだろうか。
数年前に話題になった「救世主兄弟(姉妹)」の話を思い出した。