現代言語論―ソシュール フロイト ウィトゲンシュタイン (ワードマップ)

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  • Amazon.co.jp ・本 (262ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784788503724

作品紹介・あらすじ

言語とは実体でもコミュニケーションの道具でもない。生きることそのものである。ソシュール、フロイト、ウィトゲンシュタイン、バフチン、クリステヴァをその可能性の中心で読み、多方向的に交通させることで、言語の思考をわれわれの生きる時空に解き放つ。

感想・レビュー・書評

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  • 女子栄養大学図書館OPAC▼https://opac.eiyo.ac.jp/detail?bbid=2000069302

  • 入門書ではない。
    それなりに言語哲学についての知識が無いと読めない。俺は無かったからチンプンカンプンだった。返却期限が来たので途中まで。

    巻末の「現代言語論のためのブック・ガイド」から気になった本を抜粋

    ・ジュリア・クリステヴァ 『ことば、この未知なるもの―――記号論への招待』(1969)、谷口勇・枝川昌雄訳、国文社、1983年
    「一冊あげろと言われれば、この本である。古今東西の言語論の全貌をこれだけ概観できる本はほかにない。しかも、たんに網羅的ではなく、クリステヴァ独自の視点からまとめられているのがよい。」

    ・フェルディナン・ド・ソシュール 『一般言語学講義』(1916)、小林英夫訳、岩波書店、1972年
    「いろいろと問題はあっても、日本語でソシュールの思想を知るにはまずこの書物を熟読するしかない。一流の言語学者である訳者による註も便利である。」

    ・丸山圭三郎編 『ソシュール小事典』大修館書店、1985年
    「ソシュールにかんするあらゆる情報がコンパクトにまとめられており、必携の書である。」

    ・丸山圭三郎 『ソシュールを読む』岩波書店、1983年
    「丸山には 『ソシュールの思想』(岩波書店、1981年)もあるが、ソシュールの三回の講義を順番にたどっていくこの本のほうを勧める。丸山の講義をもとにしているので読みやすい。」

    ・ルイ・イェルムスレウ 『言語学入門』(1941)、下宮忠雄・家村睦夫訳、紀伊國屋書店、1968年
    「イェルムスレウを一冊読むならこの本。難解で知られるイェルムスレウが「百万人の言語学」のために書いたコンパクトな入門書だ。言語学の隠れた名著。」

    冒頭で本書の立場を明確にしている。

    「この本は、27の独立して読める項目をつうじて、現代の、とりわけ20世紀の言語論の大きな流れ、基本的な考え方、刺激的な発想を概観することを目的として書かれた。重要なキー・ワードをつうじて現代の知の一局面にせまるという「ワードマップ」シリーズの一冊として、この本もこのアブローチのしかたを積極的に採用している。」

    「したがって、この本は、いわゆる「客観的」な概説書ではいささかもなく、われわれ自身の〈視点〉、われわれ独自の〈読み〉が前面に押しだされているということを知ってもらわなければならない。また、著者たちの関心と限界によって、ヨーロッパ、とくにフランスを中心とした言語論がおもに取りあげられているということも指摘しておかなければならない。そのように限定したうえでも、この本は網羅的であろうとはしていない。たとえば、ヤーコブソン、チョムスキー、メルロ=ポンティ、リクールといった重要な言語論者、現象学や論理実証主義といった、現代言語論を語るにあたって無視できない重要なキー・ワードが取りあげられていないということがある。しかし、われわれは中途半端な網羅性よりは、一貫した視点の提出、うえに述べたようなわれわれの方法の徹底のほうを選んだ。その成果は、読者によって判断してもらうほかはない。」

  • 現代の言語論をテーマにしたキーワード集という体裁の本ですが、サブタイトルに「ソシュール フロイト ウィトゲンシュタイン」とあるように、さまざまな思想家の独創的な言語論をコンパクトに解説しています。またその解説も、著者、とくに立川の提唱する「誘惑論」という思想的立場がかなり強く押し出されており、中立的とは言い難い面がありますが、そのぶん一つの観点からソシュール以降の言語哲学のシーンを鮮明に切り取った特色ある入門書となっています。

    立川は、従来のソシュール研究では、語る主体の意識という視点から共時態と通時態の区別がおこなわれていることが見落とされてきたと指摘します。すなわち、共時態と通時態はあくまでも理論によって構築された認識対象であり、実体として与えられている現実的な対象ではないとされます。その上で、共時態とは主体の意識に与えられている構造であるのに対し、通時態は主体の共時意識を逃れ去るような絶えず運動しつつある「力」の場であると主張されます。こうして立川は、ソシュールを「力の思想家」として解釈する道を開きます。

    さらに立川は、デリダやクリステヴァといった思想家たちが現前する意味の地平を脱構築した努力を一面では認めつつも、他者の言葉を「聴く」立場に立っていると指摘し、それゆえあらかじめ共通の意味を定めたコードの存在をひとまずは認めた上で、それを解体することに取りかかっていると論じます。これに対して立川は、自分のもとには意味の決定権がない、それゆえ他者を「誘惑する」ことで、他者によって意味の成立を告げ知らされることに賭ける立場を提唱しています。

    個人的に勉強になったのは、バンヴェニストの項でした。また、デリダ=サール論争におけるデリダのオースティン解釈がバンヴェニストによるそれに依拠しているという指摘も重要だと思います。

  • 【昔の感想文】
     いわゆる「言語論」。
     (体裁というか章だてから用語集かと私は勝手に予断を持っていましたが)よくある用語集のレベルではありません。そこそこ抽象度が高いので一般向けの本ではなさげ。
     一つの項目に数ページを費やした濃厚な文を楽しめます。例えば、もし「意味」の項を開けば、たちまちフランス現代思想を多めに含んだ難解な文章が……。やっぱり、言語論の本です(二回目)。

     目次は下記の通り。〈ワードマップ〉シリーズの性格からか、教科書的な説明は少なく(ついでにカバー範囲も教科書的ではなく)、前置きもそこそこに高度な内容に突入します。通読には向きません。
     そのため、本書を手に取られる学生の方にとっては(本書と自分の)レベルの差をあらかじめ見極めることは必須で、そうしないと過去の私のように撃沈します。
     もちろん本書には刺激的な議論も多く、いろんな点で勉強になります。(本書をソシュールで調べていなら蓮實重彦の知らない論文が出てきたり)。
     なお、本書と似た切り口では、加賀野井『20世紀言語学入門――現代思想の原点』 (講談社現代新書 1995)。

     ちなみに、本書のうち精神分析が絡む内容については消化不良です。読み手の知識不足が原因ですが、平成の終わりごろになってから精神分析を勉強する勇気が湧かないのは、さすがに仕方ないかと思いました。

     
    【著者】
    著者:立川健二(1958ー) たつかわ けんじ
    著者:山田広昭(1956ー) やまだ ひろあき


    【目次】
    はじめに――『現代言語論』はいかに書かれたか、あるいは『現代言語論』の読み方について(立川健二) [003ー011]
      フィロロジー、あるいは固有名詞への愛
      現代言語論の三つの視点、あるいは交通のネットワーク
    現代言語論の三つの視点 [012ー013]
    目次 [015ー018]

    I システム・構造としての言語――記号論的視点 019
    記号  記号論と生のリアリティ 
    ソシュール  《力》の思想家 
    共時態と通時態  ソシュールの《力》の言語学 
    サピア  《ドリフト》、あるいは構造主義の脱構築 
    意味  《聴く》立場のために 
    バルト  実存的構造主義、あるいはロゴスの構築主義 
    グー  言語と貨幣の生成プロセス 
    戯れ  言語の無根拠性 
    ブレンダル  論理学的構造主義者の両義性と徹底性 
    イェルムスレウ  言語としての主体、あるいは内在論的構造主義者の可能性 
    固有名詞  シニフィエなきシニフィアン、あるいは言語のなかの外部性 

    II 無意識としての言語――精神分析的視点 109
    フロイトと言語  言語行為論と象徴理論の狭間に 
    無意識  無意識の中の言語、言語の中の無意識
    アナグラム  ふたりのソシュール、その断絶と連続 
    クリステヴァ  《名づけえぬもの》の理論、あるいは《女》のエクリチュール 
    セミオティックとサンボリック  恋愛、あるいはカオスとしての言語 
    精神分析と言語使用論  欲動の力と発話の力 

    III 行為・コミュニケーションとしての言語――言語使用論的視点 155
    ウィトゲンシュタイン  言語ゲーム論の射程 
    交通  マルクスとソシュール、あるいは外部の力 
    オースティン  パフォーマンスとしての言語 
    対話  ミハイル・バフチンとともに 
    ヴァレリー  「考えるためには、ふたりでなければならない」 
    バンヴェニスト  発話行為の言語学――「主体」とは「語る主体」である 
    デリダ/サール論争  言語行為をめぐるディスコミュニケーション 
    手紙  愛のメタファーとしての 
    約束  この恐ろしげな言語行為 
    誘惑  他者とのコミュニケーション、あるいは迂回されたナルシシズム 

    おわりに――言語論のあらたなる転回へ向けて(1990年3月18日 山田広昭) [239ー243]
    現代言語論のためのブックガイド [244ー258]
    人名索引 [259ー262]



    【抜き書き】
    ・「記号」の項から、人がレトリックを使うことの自然な動機(原因?)を著者が説明している部分を抜き出します。引用箇所は27頁。

    ――――――――――
     われわれ人間は、記号の世界のなかでしか生きていけないのだが、かといって、そんな記号世界がずっと長いあいだ固定して動かないでいると、また退屈してしまうという、なかなか厄介な性格をもっている。だから、たまには、いままで自分が築いてきた記号・意味秩序を壊したり、新しい記号を作りだしたりしたい衝動にかられることがある[4]。〔……〕この記号破壊(セミオクラスム)の衝動をさらに推しすすめていけば、それはいわゆる「革命」の希求にまでいたることだろう。
     いずれにしても、記号世界の崩壊と生成というのは、われわれにとって、一方では恐怖・不安・嫌悪感(クリステヴァのいうアブジェクシオン)をひきおこすとともに、他方ではまた強烈な歓びと快楽をもたらす出来事でもある。われわれにとって、「生きる」ということは、この両義的な出来事を生きることにほかならない。

    [4] 瀬戸賢一は、こういっている。「私たちには心理的・意味論的に相反する二つの傾向がある(…)。ひとつは、意味(または社会)を流動させたくないという気持ちであり、もうひとつはちょうど反対であり、意味(または社会)を固定し安定させたくない、流動させたいという気持ちである」(『レトリックの知』新曜社、1988年、120頁)
     重要なのは、それを心理学のタームではなく、意味論あるいは記号論のタームで語ることである。
    ――――――――――――――

  • 広い現代言語学をおおまかに網羅した本。なので言語学の入門になりえるが、ラングやパロール、コンテクストといった入門中の入門用語は特に解説されていないので注意が必要。
    これだけあれば、どれかの言説には興味が持て、深く入るきっかけになるだろう。
    私はヴァレリーの論が面白いと思った。
    おおまかになのでそれぞれに論に深く突っ込んではいないが、立川健二と山田広昭がそれぞれの持論を積極的に展開したりと、単なる入門的概説書には終わっていない。

  • システム・構造としての言語、記号論的視点
    無意識としての言語、精神分析的視点
    行為・コミュニケーションとしての言語、言語使用論的視点
    それぞれ、ソシュール、フロイト、ヴィトゲンシュタインを出発点とするとのこと。
    関連する理論家に、
    ヴィトゲンシュタインの師匠として、フレーゲ、ラッセル
    ソシュールと同世代に、フッサール、サルトル。
    ソシュールの後継に、ヤーコブソン、チョムスキー、デリダ
    など現代言語学の構造をつかみ取ることができる。
    最後にブックガイドがあるので、さらに勉強することもできる。

  • この本には、いろいろと助けられています。立川先生の授業が思い出されて、懐かしい。

  • 6/3
    言語論の有名ドコロをさらっていく。
    立川さんの方が文章が上手くてわかりやすい。

  • ヴァレリー以降のページは退屈だった。フロイト、ラカン、ウィトゲンシュタインについてはもっと掘り下げた内容を書いて欲しかった。チョムスキーについての記述がないのが残念。<br>
    クリステヴァはとてもいい感じ。言葉と意味の対応関係を考えるのに精神分析の視点も含まれていて、私の知識や感覚と一致するものがある。クリステヴァの「セミオティックとサンボリック」が、浅田彰の言うように「禁止と侵犯」や「日常と祝祭」の交替をも意味するものではないとされるのがよくわからん。同じ「カオスと象徴秩序」を意味するものではないのか。<br>
    「サンボリックがジャック・ラカンのいう鏡像段階と去勢の発見をへたエディプス・コンプレックス期以後、すなわち主体の安定した自己同一性と言語の獲得の時期に対応するとすれば、セミオティックのほうはそれ以前の段階、すなわちメラニー・クラインのいう前エディプス期に相当するということができる。この段階において、幼児と母親は融合的な双数状態を形づくっており、母親は幼児にとっていまだ対象(objet)ではなく、それ以前のアブジェ(abjet)なのだ。両者はいまだにふたつの自己同一的主体として、あるいは主体/対象として分離・対峙することのない、見分けのつかない「分身」である。そして、幼児の言葉はいうまでもなく、母親が幼児に語りかける言葉でさえ、社会で流通している言語とはほど遠い、いわばアルカイックな「前言語」なのである。このことは、音声のレベルでも、語彙のレベルでも容易に観察されることだろう。」

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著者プロフィール

たつかわ・けんじ Kenji Tatsukawa.
1958年、埼玉県浦和市(現さいたま市)生まれ。1982年、東京外国語大学フランス語学科卒業。1989年、東京大学大学院人文科学研究科(仏語仏文学専攻)博士課程中退。その間、サンケイスカラシップ奨学生としてパリ第Ⅲ新ソルボンヌ大学(近代文学専攻)学士課程に、フランス政府給費留学生としてパリ第Ⅹナンテール大学大学院(言語科学専攻)博士課程に留学。大阪市立大学文学部助手、東北学院大学教養学部助教授、文教大学国際学部教授を経て、2000年から在野の探究者。1990-97年、現代言語論研究会代表。言語思想史、言語学、記号論専攻。
著訳書に『「力」の思想家ソシュール 叢書記号学的実践7』(書肆風の薔薇(水声社)、1986年)、『現代言語論――ソシュール フロイト ウィトゲンシュタイン』(山田広昭との共著、新曜社、1990年)、『語る身体のスキャンダル ドン・ジュアンとオースティンあるいは二言語による誘惑』(ショシャナ・フェルマン 著、立川健二 訳、勁草書房、1991年)、『誘惑論 言語と(しての)主体』(新曜社、1991年)、『ソシュール言語学入門』(フランソワーズ・ガデ 著、立川健二 訳、新曜社、1995年)、『愛の言語学』(夏目書房、1995年)、『ポストナショナリズムの精神』(現代書館、2000年)、『言語の復権のために――ソシュール、イェルムスレウ、ザメンホフ』(論創社、2020年)などがある。

「2022年 『国家と実存 「ユダヤ人国家」の彼方へ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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