・西洋古典学…フィロソフィア(知を愛する心)から学んだこと=「魂を込めて世のため人のために尽くせ」
・回り道をして幼児教育に携わることになったからこそ「幼児教育は教育の根っこ」だと感じられた。
・幼児期の子どもにとって大切なことは何か。それを守るために大人は何ができるか。
・あえて「歩く」選択肢を選ぶ。ほんの少しの不便を取り入れることは、人生を能動的に生きる上で大事なこと。
・何かに挑戦しようとする子どもに対し、周囲の大人がどのような態度を取るのか。自信をくじくのか、自信を守るのか。これが決定的に大きな影響を与える。
★本当にわが子を愛しての親心か。それとも、ひょっとして自分自身を愛している欲ごころか。子育ての原点は、この自問自答から始めねばならない。
・子どもには、家の中にいる「私の人」という側面と「社会の人」という側面がある。幼稚園という社会は、ありのままの自分を受け入れてくれる場である必要がある。
・人間関係の軋轢は、子どもたちの大切な学びの教材。雨や嵐を経験するたびに、互いの信頼を深めていく。
その日の保育が終わった後、一人一人を思い出して少し曇った顔がなかったかをチェックして欲しい。複数の大人の目で、子どもたちの心のくすぶりを見逃さないように努める。
★子どもたちが人生初の集団生活で学ぶ大事なことは、「社会の人」として他者を信じ、他者を助け、他者とともに生きる喜びを味わうこと。
・芭蕉の心の目には「センスオブワンダー」がある。大人が自然を感じる心のゆとりを持てれば、こどもが原風景を描く目は大切に守られる。
★耳で聞いて記憶・復唱することの重要性。俳句の素読。「型」の徹底。子どもたちは型を通じて創造のエネルギーを蓄える。
・就学前の言葉の教育には「耳を頼りにした言葉との付き合い」が重要。
今の時代は早い段階から音ではなく文字に頼りすぎの傾向がある。文字を使った学びは中学生以上にふさわしい。文字に頼りすぎると、対話の力も落ちていく。
・素読・音読を通じて、集中力・記憶力・持続力を鍛えることができる。
・幼稚園と大学には共通点がある。「正解」がない世界での「遊び」が意味を持つ、という点。数字による評価が意味を持たない点も同じ。
★好奇心は遊びごころから生まれる。幼児期にどれだけ五感を使って遊び込めるかが、人間としてのポテンシャルを決定づける。
★遊びは工夫と挑戦とチームワークの原体験となる。大人が遊びに「目的意識」「有益性」を持ちすぎると逆効果になる。役に立たないことに、気づきがある。
・役に立つのか、より面白いかどうか。夢中になって遊ぶことが、聖なる好奇心を育てる。
・国語の基礎となる言葉のセンスは、家庭での会話と読み聞かせの習慣によって養われる。たくさん本を読んであげること。
・人は何かを「極端に」やれば、必ず好きになるという性質を持っている。本来の学びとは、面白くてやめられないもの。「好き」の前に行動がある。
子どもは「好きだからやる」とは考えない。面白そうだからまずやってみる。その結果、面白くなければ続けない。子どもの行動はこの連続。面白いと思ったことには時間を忘れて没入する。結果的に自分の「好き」を見つけていく。
・子どもの遊びとは、全身全霊を使った試行錯誤。遊びを通じて能動的に生きる態度を養っていく。大人にこれをやりなさい、と言われて行う受け身の行為ではない。自分でやろうと思ってやる主体的な行為。
・そんな子供達の前で大人は「黙って見守る」ことが求められる。
大人は、子どもが「極端に何かができる」環境を用意して、本人の自由な行動を保証すれば良い。子どもの自由な選択に任せる。
・遊びと学びは根本つながっている。義務として取り組む「勉強」でさえ、親が黙って見守るかぎり、子どもは自分のやり方で「遊ぶ」=工夫して学ぶことができる。
・子どもの自信に満ちた行動の鍵を握るのが、親の「黙って見守る」姿勢。遊びに没入する姿を見て「この経験は人生の中でも最も貴重」と思って口を出さない態度。親にこういう気持ちで見守ってもらえた子どもは、生涯「遊び」の魂を輝かせることができる。
・反復は学習の母。毎日繰り返す作業を、継続することが大切。
・子どもが先生から何をどう学んだか?を自分の言葉で語らせ、生徒になったつもりで授業を聞き、相づちを打つ。これが最良の「反復」になる。
・子どもの取り組みを大人が上手に「見守る」時に、子どもは最高の集中力を発揮する。
・本の音読は、家庭での最高の学習になる。
・大人はどのようにして子供たちの探究心、好奇心を守れば良いか。(伸ばす)のではなく(守る)。
・見守ることと野放しは大違い。子どもはその違いを敏感に嗅ぎ分ける。子どもは、親や先生が自分の共感者であるかどうかをすぐに察知する。共感者だと察知すれば、子どもも大人に強力する。
・子どもの絵画指導にも「守破離」がある。ああなりたいという憧れや尊敬から模倣は生まれる。模倣の先にその子ならではの何かが必ずある、と信じる。ただし無理強いした行為には模倣も創造も期待できない。
★インプレッションとエクスプレッション。内向きのエネルギーが限界迄蓄えられると、必ず外に向かう。エクスプレッションは「魂のほとばしり」
子どもが何かに憧れて模倣を繰り返していたら、「表現」に向けての大切な準備段階。そっと見守るのが良い。
・幼児期に1番大事なのは、表現よりも印象。印象がいつか、魂ほとばしりとなって現れる。子どもを囲む環境が、模倣に値する手本を含むかどうか、常に注意を払う。
・子どもは真似を通して学ぶ、ということに大人は襟を正して受け止める必要がある。
・子どもたちは、当事者以外も先生のことばをよく聞いている。その言葉が、他の子供達にとっても共感できるものなら、一つの事例を通じてクラスの子ども全員が一段成長する。先生への信頼感も生まれる。
・他との競争に一喜一憂する生き方だと「上には上がある」、「常に自分は劣っている」という意識を抱かざるを得ない。こういう意識では協調は難しい。本当に自信があれば、マウンティングしない。
・競争自体には問題が無い。他人と比べることで、自慢したり安心したり卑下したりする態度に問題がある。
「人間の可能性」「運命の計らい」「社会は信じるに値する」
・競争社会は学校教育にも影響与える競争にさらされる大人が多いと子供もその影響受ける。学校の勉強は教育の手段になってしまう。しかしそれは本来の学びではない。
なぜ学校で勉強するのかと言えば、それは人間を作り、市民を作るためだと言うのが民主主義の前提である。決して立身出世に役立てるため、といった個人的な理由で公教育が用意されているのではない。
・社会が目に見えない絆でしっかり結ばれていると信じる大人は、子供を教育で追い詰める事はしない。一人ひとりの役割が違い、物差しに測ればでこぼこしているけども、誰もが自分のできることを精一杯やって、世の中と言う社会に貢献している。
他者は競争相手じゃなく協力者であると言う事実をまず大人から進んで信じること。
・過保護が良くないと分かっていても、子どもを持つとつい「過保護」になってしまう親は少ない。
自信がないまま大人になったため、自分信じる気持ちが弱く、子どもを信じることができず、つい守りに入ってしまう。
親が「失敗してはいけない」という価値観を捨てないかぎり、子育ては苦しい。
・「過保護」と「愛情に満ちた教育」の違いは、子育ての目的が「親本位」か「子ども本位」かの違い。子ども本位であれば、子どもの「自立」を第一に考える。親本位の場合、監視しコントロール下に置こうとする。
・子どもの自立とは経済的自立だけでなく「社会の人」として子どもの活躍を応援すること。社会に貢献する喜びを学ぶことを助ける。経済的自立よりも、「自分は他者と力を合わせてうまくやっていけると思う」と感じる心理面での自立の方が重要。