全体性と内蔵秩序 新装版

  • 青土社
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  • Amazon.co.jp ・本 (367ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784791754731

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  • 〇以下引用


    およそ何ごとかを思考するとき、そのものは静止したものとして、あるいは一連の静的心象として把握されるように思われる。しかし運動をじっさい体験するさい、われわれは分断も分割も出来ぬひとつの流動過程を感覚するのである。そしてその過程にたいし思考中の一連の静的心象がもつ関係は、車が疾走している現実にたいしその一連の「静止」写真がもつ関係と同じなのではんかろうか


    さらに、思考と実在の関係は何かという問題がある。注意して見ればわかるように、思考はそれ自身現実の運動過程の一つである。つまりひとは、「意識の流れ」中に、物質一般の運動において感覚するのとよく似た一つの流動感を感じられるのである。それならば、実在を一つの全体として見る時、思考それ自身はその一部分であるとして良いのではなかろうか。だがそうすると、実在の一部が、他の部分を「知る」とはどのようなことなのだろうか。

    広く生き渡った粒子概念を基礎とする世界観を使おうとすると(電子のような)「粒子」が波としても現れうること、それらが非連続的に運動できること、そして個々の粒子のじっさいの運動全てを予測する法則は存在しえず、そのような粒子の大きな集団について統計的予測をするのがせいぜいだという事が見いだされるのである。


    本質的に安定でばらばらな諸事物から構成されるものとして観察事実を論じることはできない。流態は、ある一種の一般的世界観を含意している。

    すべてのものは分裂のない分割不可能な全体的運動であり、「事物」はそうした全体的運動の相対的に不変な側面に過ぎないとされる。

    過程という考え方の本質は「万物は変化しつつあるのみならず、一切は流動そのものである」という言明によって与えられていると見る、すなわち、有るものとは成りつつあることそれ自身の過程であり、それに対してすべての対象、出来事、存在、状態、構造その他は、この過程からの抽象されうる諸形態である

    ★★過程をもっともよく表すイメ―ジは、おそらく、その実態がけっして同一ではない水の流れのイメージであろう。この流れの上には、渦巻きやさざ波、うねる波、じぶきなどのたえず変化する模様がみられるが、それらは、明白になんらそれ自身で独立した存在性をもってはいない。むしろ、それらは、流れる運動から抽象されたものであり、流れの全体的過程のうちで出現したり消失したりしているものである。これらの抽象された諸形態もそれなりの存立性をもつといっていいかもしれないが、そのように移ろいやすい存立性は、それらの振舞が、たんに相対的な独立性や自律性しかもたず、究極的な諸実体としての絶対的に独立する存在性というわけにはいかないことを含意している

    明らかに首尾一貫するためには、知識もまたあるひとつの過程、つまり唯一つの全体的流動からの抽象という過程で有ると言わねばならない。そしてこの後者は、したがって実在の根拠であると同時に、この実在の知識の根拠である。

    ★思考は成りつつあるという運動のうちで考えられるとき(そしてただたんに相対的な意味でうまく定義されたイメージや観念というそれの内容においてだけ考えられるのでないとき)、たしかに過程そのものである。そして、この過程のうちでは知識はその現実的で具体的な存在性をもっている。


    (知性は)新しい既に知られていたり、現に記憶のうちにあったりするものを単に修正するだけではないのである。例えば、ひとが長い間かかって難問に取り組んでいるとする。突然、悟りがひらいて、その問題についての自分の思考法全体が的外れだったことわかり、それと同時に、別の接近方法、すなわちそこでは全要素が新しい構造に適合するような方法が浮かんでくる。本質的にはそれは看取のわざであり、思考の過程とはいえない。


    知性の現実の働きは、したがって、なにか可知的な法則のなかに含められうる因子によって決定されたり条件づけられたりする可能性を越えている


    知性の思考に対する関係は何であろうか。手短にはこう言えるだろう。思考がそれだけで機能するとき、それは機械論的であって、知性的はない

    もの-ある特定の時にある特定の諸条件のもとで、生起しつつあるなにか

    全体性をその内容とする思考は、そのような、芸術的形態として考えられねばならない。詩の機能は、第一に、新しい看取、またこの看取に内包されている活動を生起させることであり、「あらゆるものがどのようにあるか」という反映的知識を伝達することではない。このことは、

    思考自身も、成りつつあるという現実流動のうちで思考に注目し、醒めた意識でとらえられるならば、そのとき、思考の内容を、暗黙に、思考とは独立であるような、最終的かつ本質的には静的な実在として、取り扱う習慣に陥ることはない

    全体的な過程の流動の全体に不可欠な部分としての知識を見る見方だけが、一般的に言って、全体としての人生をめざす、よりいっそう調和がとて、秩序だったアプローチへと導く

    知識の運動について、まるで外側からそれを眺めているかのように喋っているのではない。われわれは現実にこの運動に参加しているのであり、これこそ、たしかに、いま生起しつつあることだということ

  • 分類=未定。96年6月。

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