交わらないリズム: 出会いとすれ違いの現象学

著者 :
  • 青土社
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  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784791773909

作品紹介・あらすじ

現象学者がケアの現場で聞いた人々の声と哲学の問いとの交差点――。
看取りに「だんだん」向かう患者の衰弱、無目的に存在が肯定される大阪・西成の子どもたちの居場所、芥川龍之介「藪の中」に描き出される身体の余白、「まだあったかい」母親の遺体に触れる3人の娘。長年、医療・福祉の現場で人の語りに耳を傾け続けてきた現象学者が人間のうつろいゆく生を素描する、鮮やかな生のポリリズム。

感想・レビュー・書評

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  • 以下引用


    スケーマが固定した対象の把握という意味を持つのに対し、リュトゥモスは、動くもの、うつろいゆくもの、流れるものに想定される瞬間の形、流れるものの形、常に変化する配置から帰結する、固定性も自然の必然性ももたない、配置や布置だ

    リュツゥモスは、自然の千差万化する生成の流れのなかに、かいま見られる形

    リズムについて、動きのただなかで立ち現れる形という定義

    うつろいゆく動くのなかにある形は止まったものではない。

    とどまることなく移ろいゆく動きがもつそのつどの形を捕まえる、これは私にとっての現象学の姿


    現象学は人の経験の移ろいを動きの内側から記述し、その背景で支える構造を捕まえる営み


    異質なレイヤーを平行処理しているから過去と未来のイベントがごっちゃになる

    通常は目につかないような微細な変化の兆候を感じ取る、特異な感覚

    発病と回復には固有のリズムがあり、治療者はそのリズムを尊重しなくてはならなう

    さまざまなリズムはそれをつなぎとめるテンポの場に貫かれている。これによってポリリズムは一つの経験のなかに収められるのである

    ★必要なのは絶対に加速してはならない過程と加速可能な過程とを見分けること。加速してはならない過程を加速しようとして、本人を焦らせ、家族を焦らせ、そして医師本人が焦りの中に巻き込まれて、血虚期焦りの塊が三つ渦を巻いてまわっているだけになる

    ★加速してはならない過程、つまり個々のリズムが収まるペースとなるリズムの場に同期することを中井は推奨している。治療者に役割は患者のさまざまなリズム全体のペースとなるリズムに同調するという仕方で、ポリリズムの終着点を作り出すということ

    自分の音楽行為というのは、自分もその中にあり、自分を取り巻いている音の河に対してどういう風に手を触れていくかという。つまり、音というものすべてが混沌とした状態であるみのを、僕は音の河と言っているわけです

    音の河は、武満の生活を取り囲んでいる混沌としたすべての音であるから、苦痛が生じる社会環境と同じ位相にある大きな流れ。苦痛は音に皮と同じく、人を飲み込むので、そこでの人は自己性をもっていない。つまり、一つの音を奏でるという行為は、音の河という自分もその中にあり、自分を取り巻いているカオスな状況へ応答する新たな行為。そしてこに音の河にふれるという応答する創造行為を自己と呼ぶ。

    苦痛や音の河に飲み込まれた状態においては、苦痛や音の河を受け入れる人とのあいだはかすかであいまいな差異しかない。このような状況に応答し、行為や音楽を生み出すときに自己と状況とのあいだにはじめて截然としたl区別が生じる

    人は苦痛の中にいる自分を見出すのだ。苦痛を感じている人は苦痛と向かい合っているのではなく、自分自身が苦痛というあり方において苦痛の中に入り込んでいる

    ★状況に応答するなかで自己と世界は区別され、自己は自己として成立する、行為とは苦痛というような仕方で人を飲み込む状況のなかで、自己を生起させつつ世界と出会う運動にこと

    行為のタイミングを逃してしまうポストフェストゥムと、あせって先走るアンテフェストゥム。

    あいだとは、病気だから作れないというものではなく、病気であろうが、なかろうが、タイミングを合わせて作り出していかなくてはならないもにであろう

    いつも怒っている患者が声をかけてくるタイミングを捕まえて、一緒にリズムを作ろうとしている

    私たちはつねにポリリズムとしての対人関係を生きている

    関わりは即興

    タイミングをとるには他者と出会うことを可能にする場が同時に生成していなくてはならない。これをベースのリズムあるいはリズムの場と呼んだ。

    理想的な段階では、それぞれに演奏者がすべて各自のパートを独自に演奏しているという確実な意識を持っているだけではなく、まるでそれが自分自身のノエシス的自発性により生み出された音楽であるかのように、一種の自己帰属感をもって各自の場所で経験している。

    合奏においいぇは一人一人の奏者が流れに乗りつつ、自発的に創造的に音を奏でるが、それが自然と合い、大きな流れをつくる

    1人の人の経験もまが、ポリフォニーかつポリリズムとしてできている

    深層のポリリズムを、行為と語りへと変化しうる場が、表層のポリリズムとしてのあいだなのだ


    ★かつてのぎくしゃくしたリズム。この深層の今に至るまで繰り返される対人関係の悲しみを、グループのなかで表層のポリリズムとして定着させるためには語り直しが必要

    あいだとは、状況を行為や語りへと変換しうるための、リズムの場のこと。つまり他社との語り合いの場という表層のポリリズムにおいて、状況をそれとして受け止めて人生を意味づけすることができる。あいだとは過去、現在、未来のさまざまな異質な声が響き渡るポリフォニーの場であり、場合によっては、外傷というきしみとも直面することを可能にするような語り合いの場

    外傷とは、あいだのなかに入ることのできない、表層のポリリズムに浮上することはできないままの深層のポリリズムとして存在し続けること

    音の河を音楽に変容する、それはポリフォニーとしての複数の声の場面

    精神科の医療においては、いかにあいだを作り出すのか、いかにして音楽を生み出すのかという発生

    この表層のポリリズムとしてのあいだとじゃ、深層のポリリズムがl内包する軋みを調整し、共生の力を作り出す場

    対話の場という表層のポリリズムを媒介に、その外側に広がる社会関係をも変容してゆく道筋を示す

    I居場所では、行為が必要とされない。あるいは、むしろ状況を変化させようとする行為は禁じられているのだ。

    遊びは他に目的をもたない行為。ただそのことが面白い、ということである。そして、それが面白いかどうかは、その子にしか決められない。決めるというか、感じるしかない

    居場所でに遊びは創造的な自発性に恵まれるが、それ自体は社会情勢を変化させることも家族関係を変化させるためのものではない。学問も含めて文化的営みはすべて遊びの派生形。中略、生活の場からは切り離された中間領域でメンバーと共同で創造性が発揮された結果生まれる、社会へと介入する行為とは別の活動である遊びは、居場所という社会からの退却を前提とする

    居場所は独特の時間と空間を持っている。

    緊張に対する弛緩が居場所の特徴

    日常の生活がもつリズムが解放されて緩むのが居場所

    円環的時間とは、現在が次の現在へと展開していかないということ。現在=現前しか存在しない時間。リズムのゆるみ

    社会生活においては、社会の規範や状況から要請されるテンポがあり、強いられるテンポに乗りながら、緊張感のある行為の自発的なリズムを作っている。このような規範のリズムと行為のリズムが必要とされないことは、この居場所のゆるみの大きな特徴

    リズムは、行為の生成の内的な分節。状況へと応答する活動である行為は固有の内的なリズムに従って、分節する。家族関係、生育歴、身体の調子といった複数のポリリズムの総合である。ところが居場所とは、行為の緊張と社会の文脈から解放されて、ゆるむことができる場所。その意味で、反行為であえい、世界に対抗する強度としての自我とは逆向きのゆるむ自己


    遊びとは、社会的行為のリズムでもなければ、居場所におけるリズムのゆるみでもない。第三のリズムをもつ。居場所で展開される遊びは、社会状況とテンポに応答する社会的行為のリズムとは区別される固有のリズムをもつが、これは無為というリズムのゆるみからの湧出であるはううえに自由と創造性をもつ。この居場所のゆるみをウィニコット形がない状態と呼んだ。遊びのリズムとは、新たな形を生み出す運動である。リズムのゆるみ、形にない状態は遊びや芸術の創造性のベースとなる。


    カオスとなった世界と、避難場所としての居場所のゆるみが対比され、架橋される

    居場所は、外界の出来事を、遊びの表現へと変換するころをゆるす。外界にノイズ、カオスを、表現のリズムへと変換する、みんなのなかで1人になれる場所は、ことばが生まれるゆりかご

    安心して静寂を保つこととしての沈黙

    語らなくてもいいという居場所は、言葉が生まれるための条件

    安心の確保によりリズムはゆるむ場所は沈黙から出発して、静けさのなかに外界での喧騒を遊びや作品へよ集めることができる場所

    外傷体験を持つ人は、ノイズ=トラウマを、語り(リズム)へと変換できるようにする

    安心できる居場所を持たない人は言葉を持てなくなる

    ある場所を支配する力学は、患者1人が背負うものではなくて、スタッフにも浸透している

    実際には入院時にも人格的な交流があり、ホールディングが成立していたのだと思われるが、それが顕在化するのは退院した後

    気の休まることは、世界への関わり方としてのリズムがゆるんだということ

    Bさんは親との関係においても自分自身の願いを出せなかった。本人の主観においては、幼少期から入院時まで自分の願いを外に出すチャンスとそれを聞き届けてもrうことがなかった

    病棟でくつろぐことができる居場所を見出したからこそ、子どものころの小さな願いが表面化している、日常の中の小さな欲望の回復、人との競争やねやみではない、自分のなかに満足に関わる欲望が回復した

    小さな願い事が主体の核をつくる

    遊びの空間は移行領域。移行領域は自分の自発性が出会う場所

    リズムはずれたりあったりする中で他の人のリズムを感じて合わせるということが生じる

    フラットにしたから移行対象と遊びの場が生まれたのではなく、移行対象が出現し遊びの場が開かれたことで、自然とヒエラルキーが消えていく

    バンドの対人関係が、病棟の対人関係へと拡張している。つまり遊びにおいて開かれた新しい生活様式が、リアルな日常へと拡張している

    遊びにおける新しい生活様式の生成は、日常生活を変容し、退院後の社会関係を準備する。移行領域において開かれた世界の再編成はリアルな世界の再編成へとつながる。そして移行領域が人との遊びの編成である以上、移行対象の発見は対人関係の世界の再編成を帰結する

    ★人間の変化はここでのピアノのような移行対象の発見(そして発見のタイミングとそこという場所)をきっかけとして始まるのかもしれない。そして移行対象が開く遊びの場合=コンタクトの場においてリズムの再編が始まるのではないか

    Bさんは、しかし退院後はピアノは意味を失う。移行対象が世界のなかに登場する出来事はm一過的な転換点であり、変化の触媒がそのつどのタイミングで見つかるということなのだろう。移行対象にじゃ、運命とリズムがあり、浮かび上がってはm消えていく
    →よくわかる。それでいい。本や創作も同じだ。

    ポリリズムの再編を促す変化の触媒として対人援助職を描きながら

    時間的な蓄積をもつ対人関係が調和的につくりかわる変化を触媒する。このように状況のリズムが再構成されてゆく変化を下支えし促す働き、これを変化の触媒と呼ぶ

    まじかに迫った母の死は、身体の余白となっている。経験に取り込むことができない外部なのだ

    様々なリズムが交錯する中で、今のタイミングがつかめない。膠着しや状況のなかでの変化の触媒の行動は、さまざまなリズムのなかから今というタイミングをつかむ時間制をもつ

    母の温かい体が冷たくなっていくのを手で感じることで、ようやく泣くのである。看護師による働きかけを媒介として親子の関係が組み変わる。先ほどまですれ違っていた場のポリリズムが調和的なものへと整っていく

    遺体に手が触れるそこを支点として関係と状況が組み変わる。遺体とこともの手の接点は、そこにおいて変化の可能性が裂開する点であり、変化の支点である

    変化の触媒とは、ある状況が根本的に変化するときにその変化を促す証人

    変化の触媒が関係の変化を促す作用であるなら、必ずしも一対一である必要がない

    距離をおいて、この場面に対応するのは不可能。巻き込まれる実践。

    看護現場をフィールドワークする限り、巻き込まれる実践に必然性がある

    リズムは、移ろいゆく動きのただなかにある形と定義される。リズムは形のことなのだが、それでは形を貫いて形をそのつど生み出す動きはどのようなものか

    ポリリズムに特異性はその人や対人関係の個別性そのもの、特異性の核には身体の余白という自分自身でもつかまえられない外部がある、これんj対して歌は人と時間をつないでいく役割、連続性を作る役割


    ★歌は、人の生にとっていかなる意味をもつのであろうか。歌、すなわちメロディーが、生の連続性を作るとともに、生を物質的自然から切り離すことで、人間を人間として成立させることができる

    ★歌は人間にとって自然なものとは思えない。子どもは泣き叫び、涙を流すが、まったくうたうことがない。自然に由来する最初の表現は子どもにおいてはメロディなものでも響きのものでもない。子どもは話すのを学ぶように歌うことも私たちにならって学ぶ。メロディアスで心地の良い歌は、話す声あるいは情念を帯びた声の抑揚を穏やかかつ人工的に模倣するものにすぎない。泣き叫んだり嘆いたりするときには歌わない。しかし鳴き声や嘆きを歌によって模倣する。あらゆる模倣のなかで最も興味深いのは人間の情念の模倣であり、あらゆる模倣の方法のなかで最も心地よいのが歌でる

    ★鳴き声が情念を直接表出した現象であり、正確には情念と身振りとが区別されていない自然状態であるのに対し、歌は泣き声を人工的に模倣することで、情念を純粋に抽出する。
    →距離化ということかなと。

    ★音楽が自然を模倣するときには、黙想と技巧という距離を自然に対して作る。個人の心と創造性を生み出すにだ。芸術家とは、目に見えないイマージュを目に見えるイマージュへと置き換える人のことだ

    ★人間は覚醒した者として、自然から切り離され、自然を眺める。音楽は、目には見えないイマージュである自然の模倣である。音楽とは人間と自然の隔たりの痕跡であり、その隔たりによって生じた自然から人間へに触発に痕跡。元々の自然は感覚し得ない。人間不在に世界の痕跡が芸術であり、このような痕跡とともに人間の世界は生まれる

    情念は模倣の成立において生じる。歌という模倣の運動があり、次に模倣されたものが初めて生み出される。

    歌が泣き声の模倣をしたときにはじめて、情念がくくりだされる

    歌は、情念という意味、人間的世界、表現する身体といった人間固有の領域を作り出すような創造の一撃

    ポリリズムがずれと出会いをはらむ複数のリズムの絡み合いであるとすると、メロディーはポリリズムを可能にする人という次元の開かれのこと。メロディーゆえに、他のリズムと出会い、他の人と出会える

    身体は未分化な塊でも自動機械でもなくmコミュニケーションのなかで意味を産出しながら自己組織化する構造

    歌は他者の生命を感じさせるが、生命を感じさせることと、私と似た他者がいると認識することとはm同じこと

    ★それは、牢獄で書かれ、出獄すると創作力を失ったという

    ★ジュネの生涯には、創作の空白期間が幾度もあり、かつその空白期間ごとに、小説から戯曲へ、戯曲からルポへと表現形式を変えた、氷原、実在の産出をぎりぎりで成立させている脆弱な基盤のもとのジュネの創造性が成立していた


    ★ウィニコットは、母子関係の安定が遊びや学習という創造性の発現に不可欠の条件だと示した。養育者が見守るもとで、独り遊びができるようになったのち、養育者を内在化することで、本当に独りになることができる。子ども時代に安定した対人関係を内在化させることがその後の創造性の支えとなる

    実際に経験するのは、複雑に折り重なる多くにリズム。一本の直線ではないにである。過去と未来がシンメトリーになった単一の形式構造ではありえない。経験の時間は複雑なリズムが織りなす可変体。

    何かが生きているところには、どこかで時間が記入される帳簿が開かれている。


    ★変化するには状況であり、状況の受け止め方であり、状況へと応答する実践のスタイルである。これらは因果法則に支配される事物ではない。偶然の変化自体が出来事であり現象である。あるいは変化そのものこそが状況である。変化をその変化において捉えようとする動的な知。しかしその変化は目には見えない。看護実践の構えの変化、回復、状況に思いがけない変化は目に見える事物ではない。

    ★現象が変化するのはない、変化こそが現象なのだ。経験や実践はそれ自体としては目に見えない運動そのものである。言い換えると、現象は、対象を認識する知性によって掴めるようなものではない。患者がだんだん衰えるリズムやどんどん死が近づくリズムは、このような目に見えないが具体的に生きられている動きである。ベルクソンのイマージュはこうした目には見えない現象を指し示すために使う


    物質世界のものと、心的な事象とも決められない現象=イマージュ

    詩人とは、感情をイマージュへ、イマージュそれ自体を今度は言葉へ言い表す人物。詩のイマージュの多くは像を結ぶことがないあいまいな、しかしイマージュとしか言いようがないもの

    精神、すなわり生が概念へと固まる途上にある最初の形象化のプロセスがイマージュ、イマージュは生の持続と概念のあいだにある。イマージュがリズムを通して現れる

    イマージュは、目には見えない。目に見える画像は形を固定するものであり、運動をその運動において感じ取る詩的なイマージュではない。実は私たちが経験を想起し、語ろうとするときに、語りを牽引するのは、まだ形を持たないイマージュ。状況と実践のダイナミズムは、それ自体は目に見える形を持っているわけではないし、逆に言うと、形の手前のイマージュは、実践を貫くリズムである。言い淀み、言い間違い、話題の跳躍はこうした語り手が今まで言葉にしたことのない経験と向き合い、そのイマージュを手繰る寄せて醸成している。

    内的経験にふさわしい言語などない。

    概念は対象を外から捉え、分割し固定する。イマージュに沿った言語のみが経験を記述しうる


    ★悩み事があったとき、頭をからっぽにして、体全体が感じている感覚に問いかける、その体の感じを味わうことせ、イマージュが動き、そのあいまいな感じに言葉が当てられ、悩み事に対する応答の方向性が見えてくる

    ★イマージュは直観がとらえた持続、すなわち生を来るべき形へち向けて翻訳する働きであり、持続がそのつど新たな創造的な流れである以上、イマージュはそのつどの新しい未開のものとなる

    ぐたいてきな現実的、出来事、状況、実践は目に見えないイマージュとして人間に現れる。このイマージュは、うつろいゆく経験そのものではないが、経験のあいまいな形あるいは、形の手前である。

    直観は知性によってしか伝わらない。直観は観念をこえるが、しかし伝達されるためには観念に跨らなくてはいけない。直観はできるだけ具体的なもろもろの観念を選ぶだろう。


    自然科学や社会科学は、対象を外から客観的に把握することができるという理念によって成り立ている。

    普遍が読者を刺すことはない。統計に基づく一般観念は知識をもたらすが、直接読者個人の人生を突き動かすことはない。読者が心を動かされるのは、具体的で個別的な事例だ


    個別的で具体的なものから導き出される真理は、触発する真理

    共感や、暗示、刻印、事象や他者のけいけんを、その運動の内側から自ずと感じとってしまう直観の働き


    他者に個別経験の分析がもたらす触発は、感情移入や同情を引き起こすわけではなくても、他者の経験を自分の可能性の拡張として生き直すことを可能にする


    人間の経験は、予見不可能な未知のもの。他者の実践や経験が私の可能性超え出ているのは当然。こうして、私が援助の調査をし続けているのは私の経験の範囲を超えたものと出会うため

    ★風景は、習慣に毒された視線が見た風景とは異質のもの。しかし気づいていないだけで、知覚していたとベルクソンはいう。このすでに行っていた創造的な知見は潜在的なもの、意識で気づいたものではない。

    ★私の可能性を超える他者の経験を、潜在性の地平において受容するということ。潜在的なポリリズムとして人間の経験の地平は開かれている→潜在性からの創造

    自分にとって未知の遠い経験がしかし自分のものでもありうる。障害や病気、そして私がまだけいけんしたことのないことが、私の潜在性の地平に収まる

    世界のなかで身の置どころと座標を失ったとき、私たちはカオスに飲み込まれる。

    わからない中で、私は問いかけられ、応答をせまられ、座標を失った世界に中でどのように立つのかを、考える


    世界と行為がいま新たに立ち上がる局面をリズムとよぶ

    絵画も精神病も出来事の出来事性を表現する手段。精神病とは、出来事との出会い損ねの表出のこと

    路頭に迷うことが、人間の経験の出発点になる、どこにいるのかどちらに進んだらよいのかわからなくなる状態

    ★カオスに巻き込まれて座標も自己も失った状態から自己と形を作り上げること、これが人間の営み


    カオスに対立するのが形。形の産出とは、カオスを居住可能な世界にすること


    リズムとは、カオスを出発して居住可能な世界が生成する運動、あるいは世界に居住する私がたつここと、出来事が生起するそこが定まる運動


    形のない状態が、創造性の出発点

    養育者が子どもをホールドすることで、形のない状態、統合されていない状態を受容し、不安から解放されて遊べるようになる

    支えを与えられい場合は、自己が破綻する

    ★カオスにおいて私のここは失われ、そこは切り崩されていく。こことそこで分節された光に秩序を生み出す運動がリズムだ。私がいるここと、移行対象が出現するそこを生み出すにはリズムの背景でーホールディングスがいる

    リズムとは、原的な自己あるいは、ここが生み出される運動であり、原的なリズムとは原的な私が居ることの誕生そのものなのだ。

    予測不可能だが、そうでしかありえないという必然性生成が形の産出


    形の産出とは、世界の開示であり、世界の全体的な秩序に発生

    受け止めることが難しい状況、判断が難しい状況からの脱却は、状況全体に再編成として起きる。つまり実践とは、形、世界秩序の再編成のこと

    ことばにすることが難しくかつ固定した形を持たない流動的な状況において実践を行い、状況全体が変容していくこと

    ある状況のなかで実践はそのつど固有の、多層なリズムをもつ。実践はポリフォニーであるだけではなく。ポリリズムである

    さまざまなリズムが、異質なリズムが絡み合いひとつの原的なリズムができていく

    形の生成のためには巻き込まれ状況に対して距離をとる視点が必要。形を捉える視点は、カントの構想力。状況全体に構成をつかむ第三の視点


    ★単に細かく事物を見ているのではなく、状況交差するさまざまな文脈の力線から状況全体に形をつかみとる視線をもっている

    道に迷っ人は空虚な空間の中で、呼び声を発し、そこからある現前へ向けて呼びかける。この現前か出発してそこに新たな空間が開かれ、この空間が彼に場を与える。

    ★真の叫びはあいだの空間を満たすことはない。叫びは空虚をつくる。声は空虚が場を整えるようにと呼びかける

    患者が周囲の人とコンタクトを取り、出会いの場が開かれるような世界。このような出会いの場を超受容性と呼ぶ。他者がそこから到来する場所。統合失調症を、超受容性喪失として定義した。

    ★鹿の出現は、今までの風景の配置に書き込まれるのではなく、むしろそれを消去する。鹿は出来事の場あるいは受容の場の炸裂の点、時空の原的な点あるいはむしろ鹿がそこに立つ開かれ中で空と地とその間隔とは出現する瞬間=場原的な点。この出来事の到来はそこで自らにおいて受容された世界を開く

    ★遺体にふれることで、そこ が世界変容の基点となる。そこという変化の視点を介して死者との出会いが可能になる。世界の開かれ基点となる。そこにおいて、出来事の受容が可能になる。そことは、身体の余白にかかわらず複数のリズムが出会うタイミングのことであり、この出会いタイミングと、そこという時空間の特異点において状況全体が組み変わる
    →詩の話。

    リズムは常にポリリズムである。個人の生を貫く複数のリズムと、複数の人が出会って生まれるポリリズムだ

    リズムがポリリズムになるのは、身体が不可避的に余白をはらみ、そして対人間のずれは解消できないから。それぞれの異なるリズムは、歌ゆえに出会い、身体に余白ゆえにずれ、ポリリズムが推移する。この複数のリズムの出会いが変化するとき、状況が組み変わる。この展開点こそ、出会いのタイミング


    ★ケアは、ポリリズム失調に戸惑いつつ、ぎくしゃくした中でポリリズムが整うタイミングをはかる営み

    ★余白、死角に飲み込まれてしまうことを押しとどめ、人との出会いが可能になる世界を確保するのが、ケアの姿


    ★変化の触媒として支援者は、ポリリズムも組み替えに関わるサポーター、さらにはリズムの誕生の証人

    タイミングという、時空感上の変化の特異点の発生

  • ケアの現場はポリリズムと出会い、ポリリズムに介入する。本書も、ケアの現場を題材として用いながら、行為と出会い、出会い損ねを主軸として論を展開する。その論を展開するために哲学的考察を行なっていく最後の章にかけて、ベルクソンを参照しつつ、論を展開していくが、そこでついていくのに難を覚えた。

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著者プロフィール

1970年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程満期退学。基礎精神病理学・精神分析学博士(パリ第7大学)。現在は、大阪大学人間科学研究科教授。専門は現象学、精神医学。著書に『治癒の現象学』(講談社メチエ)『レヴィナス』(河出ブックス)『摘便とお花見-看護の語りの現象学』『在宅無限大』(医学書院)『仙人と妄想デートする 看護の現象学と自由の哲学』(人文書院)などがある。

「2023年 『客観性の落とし穴』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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