- Amazon.co.jp ・本 (220ページ)
- / ISBN・EAN: 9784794802927
作品紹介・あらすじ
本書は、世界の文化教育史の流れの中で日本の新しい教育文化のあり方を問いかけている。著者は「生」に光を当て、「人を自己表現」の存在としてとらえ、時代を見つめる新鮮な視点を様々な角度から提起している。
感想・レビュー・書評
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弱さの思想から ベルリン・天使の詩を引用している
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持続可能性よりも、共生する環境を作りたい。
共生の基礎には、詩的交感がある。
●以下引用
疎外とは生産物が自己の所有にならないことではなく、自分の自由な表現が「義務」や「強制」になり、しかもそれを切り売りしなければならないこと
グルントヴィの提唱する「生きた言葉」による「対話」「相互作用」
近代社会では人間が二つの領域に分裂して生きてきた。公的には、機能主義や効率・利害が支配する客観主義の世界に棲みながら、私的にには、こうした主観的ロマン主義、表現的人間観を大事にしてきたのである
身体は主体でもなく、客体でもない両義的なものとして、私と言う現象と世界と言う現象の交流する根源
その子にとって、踏切の遮断機と言う事物が発見され、その子の世界に誕生したわけだ
こどもには、創造や発見の歓びがなくなり、ある規範に近いかというテクニックの基準で判断されるために、絵を描くことが苦痛になる
子どもにとって、絵を描くことは世界の発見であり、創造そのものだ。
人は空間的に限定され、互いに隔てられている状態にある。つまり、身体をまとった人間であるからこそ、言葉であれ、しぐさであれ、手で絵を描くのであれ歌を歌うのであれ、自分の内にわき起こる表現の衝動を身体を通して表さざるをえない
生の自覚
自然であれ、技術による作品であれ、それ自体が生きてあたかも自己の内に意志をもつかのように現象するとき、それは美しくあらわれる
道徳的であろうとして、教条的な生活を送るなどして自己の自然・感性を抑圧することも、自分の自然をゆがめてしまうことだ。教条的な人間は、たとえその行いや言い分がどんなに正しかろうとも、どこかしら無理があり、他者の心からの共感を得ることは少ない。
ある固定した決まりに従うまじめさはすごいと驚嘆しても、逆にそれが自分の意志ではないものだから、融通がきかず人間として非情でぎこちなさを感じさせることが多い
自然が我々人間の生活に役立つ材料ではなく、それ自体あたかも意志をもち、自由にのびのびと自己の本質を表し表現するものとしてわれわれに映るとき、その表現こそが美であると考えられないだろうか
人間の用を足すとか人間に依存的で実利的な機能だけしか表さないときにはさほど美しいものではない
社会が脱身体化しつつある
デンマークにおいて、ホイスコーレやエフタ―スクールで全寮制で教師も学生もともに暮らし、教育と生活のまじりあった領域をまずつくりだし、そこで「生きた言葉」を語っている。生きた形での言葉や身体の表現能力、あるいは詩的な力は、そうした共生の環境がないと身につかない