創価学会教学部長の「三大秘法抄に御真筆はない」発言に発狂、(かつては「三大秘法抄を最初に読まなければ大聖人の御書の真意はつかめない」と言ったものなのに。戒壇を建物のように規程しているのが余程都
合悪いのだろう)
本書は『昭和定本』から、真筆現存と真筆曽存(かつて在ったことが明かで写本が在る)を年代順に編集。
通読して従来の「全遺文」とどう印象がどう変わるか、が拝読の課題。
南部七郎御書=小松原法難抄は分断されたが現存。
佐渡御書、など佐渡期はほとんど無い。
流罪から鎌倉に帰って平左衛門と対面し、蒙古襲来について「よも今年は過ぎじ」本年中にあるだろうと断言。
翌文永十二(四月改元)建治元年五十四歳は、身延へ入山して、もっとも著作がはかどった年で、約千ページな本書のうちp362~557と2割を占める。
蒙古は再度の襲来の前提
建治二年、忘持経事、は富木常人の母の逝去に同情していて心温まる。
建治三年、崇峻天皇御書 「殿が地獄ならば、殿とともに日蓮も地獄に行く」という衝撃的な言説
立正安国論・広本(建治〜弘安改元の頃)があるのはGOOD
文永二年の初稿からかなりの増補・訂正がある。
第六段、客の「法然聖人、幼少にして天台山に昇り」は「叡山に昇り」に改められている。
第八段、「能忍の以後の教説は則ち其の施を止む」のあと「此れ又一途なり。月支国の戎日大王は聖人なり。其の上首を罰して五天の余党を誡む。尸那国の宣宗皇帝は賢王なり。道士一十二人を誅して九州の仏敵を止む。彼は外道なり、道士なり。其の罪是れ軽し。是は内道なり、仏弟子なり。其の罪最も重し。速かに重科に行え」と激烈。
予言的中の自負と、蒙古再襲来の危機感。