哲学の冒険 「マトリックス」でデカルトが解る

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  • Amazon.co.jp ・本 (360ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784797671032

作品紹介・あらすじ

スター・ウォーズ、エイリアン、ブレードランナー…ハリウッド映画を素材に縦横無尽に哲学を語りつくす。

感想・レビュー・書評

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  • 第1章『フランケンシュタイン』で実存主義が解る

    「一般的な意味での不条理とは、自分の願望や感情と現実との間に産まれる顕著な矛盾のことを指す」
    「この不条理という概念は、我々が持つふたつの視点、すなわち「内」からの見解と「外」からの見解との衝突を中心に展開する。我々が取る行動が持つ、自分自身にとっての意味と他人にとっての意味との衝突が不条理である」

    「どんな人間にも「内」からの物語と、「外」からの物語が存在する」
    「問題は、このふたつの物語にどうやって折り合いを付ければいいのかということだ。
    「内」からの物語では、我々自身が主人公になっている。その物語では、我々には生きる価値があり、その存在には何かしらの意義があることになっている。
     ところが「外」からの物語はこれとは極端に違う。我々は主役どころか、ほんのちょい役にすぎなくなってしまう。宇宙全体から見れば、ちょい役どころか、あるかないかの芥子粒同然の存在にすぎない。
     しかも、さらに悪いことには我々は自分の登場する場面も自分では決定できないし、退場するタイミングも方法もコントロールする術を持っていないときている。我々の人生は遺伝子や環境やその他もろもろの要素が決めた結果にすぎず、そこでは自分の意志など無力同然に見えるし、はたして物語全体から見たとき、自分の役割に何かの意義があるのかと問われれば、答えに窮してしまうほどである。
     このふたつの話の衝突は、時に「人間的状況」と呼ばれる」
    「では、なぜ「人間的状況」というのかといえば、人間だけがこのふたつの物語とをもに理解できるし、ふたつの物語の内容の違いに葛藤することができるからである」

    「結局のところ、我々が人生に何か意味を感じることができるのは、自分の目標をいまだ達成していない時期に限られるということなのである。
     これこそが人間存在の不条理なのである」

    「私たちの人生は「内」からの物語で見るかぎりは、意味と目的で満たされていることになっている。だが、「外」からの物語は冷酷に、我々の人生はそんなもので満たされることはないと言う。
     たったひとつの出口は、死による忘却である。だからカミュは、自殺しないことは偉大なる英雄的行為であると考えたのだ。
     ずっと昔、哲学者たちは、「自分自身を外から見る」という意味の表現を作り出した。それは、「永遠の相のもとに」というものである。
     内から見ると、我々の人生は意味と目的と重要性に満ちている。しかし永遠の相のもとでは、我々の行動、我々のゴールと目的のすべては、自分自身か自分の子供たちかそのまた子供たちによって繰り返されることを目指しているだけなのだ。永遠の相のもとでは、我々はちっぽけで取るに足らない生き物であり、よって我々の行動も目的も取るに足らない的外れのものにすぎないのである。
     哲学者イマヌエル・カントは、かつてこう書いた。
    「自分を驚きで満たしてやまないものがふたつある。頭上の星空と自分の中にある道徳律である」と。
     頭上の星空を見る時、私たちはこのような壮大な宇宙を創造した神がいるかもしれないという考えに満たされる。しかし、この素晴らしい宇宙は熱力学の法則に基づいて設計されていて、死を避けることができないのである。
     もし、宇宙に意志があるとしたら、こんな物語が語られるであろう。
     何十億年にわたる努力の末、ついに宇宙は、意識そして自意識のある生物を作り出し、この生物を通じて宇宙は自分自身の存在を意識し、自分自身を理解し、自分自身に驚嘆した。しかし宇宙が最後に気付いたことは自分の運命が定められていたということだった。その運命とは熱力学的死であり、本質的に宇宙ははかないもので無益なものであるということ。宇宙がその何十億年にわたる歴史の末に何かを作り出したとしても、やがては消え去ってしまうことになるのだ。
     つまり、宇宙もまたシーシュポスの同類である、ということなのだ。
     神が宇宙を作ったとする考えは正しいのかもしれない。おそらく神のみがこのような残酷な不条理に耐え得るのだろうから」

    「我々はみな本質的に「引き裂かれた」生き物なのである。我々は自分自身の人生に重要な意味や目的があると思っているが、それと同時に「永遠の相」が存在することも知っていて、そのふたつを調和させることができないでいる。そのために、我々は「生きる意味」という大問題を抱えることになる。
    「永遠の相」から見れば私たちの人生は、我々が生まれるずっと以前に始まった歴史の流れによって、また自分自身には本当にぼんやりとしか理解できない過程によってあらかじめ決定されたものにすぎない。そして、そうやって生まれたあと、私たちはささやかなゴールを目指して生きることになるが、そのゴール自体にも意味はない。なぜなら、人生の中でゴールを達成したところで、同じような人生を自分の子供や孫たちが繰り返すだけのことなのだから。
     一方、「内」から見ると、我々の人生には意味も目的も重要性もある。我々は物語の中心であり主人公である。我々がすること、そして我々に起きることは重要なことがらであり、多くの場合死活に関わる。
     人生はひとつしかないにもかかわらず、その人生を語るふたつの物語がある。その物語は両方ともに真実に思われるが、しかし両方ともが真実ではあり得ない。これが「人生の意味」の問題なのである。私たちの人生には意味があるに違いない。しかし人生にはそもそも意味があるはずがないのである」

    第2章『マトリックス」でデカルトが解る

    「どんな時でも我々は、自分が夢を見ていないと確信することはできない。したがって、我々の全人生は夢ではないと確信することもできない。その結果、我々が「現実の世界」と呼んでいるものが本当に存在しているかどうかも確信できない。そして、もしこれが確信できないのなら、「現実の世界」というものを本当に「知る」ことはできない、とデカルトは言う」

    「もちろん、デカルトが言っているのはそういうことではない。
     彼は「その可能性はゼロではない」と指摘しているのである。私はそんな可能性が気になって眠れないとしった性質の人間ではないし、デカルトもそうではないと思う。それでも、我々が世界と呼んでいるものは、邪悪な知的存在の幻想的創造物であるという可能性を排除することはできない。この邪悪な知性は我々を騙して楽しみ(デカルトが言うように)、あるいは我々を騙して何かに利用しようとしている(ウォシャウスキー兄弟が言うように)。
     これが世界の本当の姿であるという可能性は否定できない。そんなことはあり得ないと完全に確信することはできない。ゆえに、我々が世界と呼んでいるものが実際に存在することを、絶対的確信を持って「知る」ことはできないのだ」

    「デカルトは、夢と邪悪な魔物という考えを使って「懐疑主義」として知られるものに到達しようとした。
     懐疑主義とは我々の知識に関する見解であり、最も単純な形で言うとこうなう。
    「我々は何も獲得することができない」
     すなわち、我々には何も知ることができないということだ」

    「我々は「何か」を知ることができるのだろうか? 我々が本当に確信できるものがあるのだろうか?」
     デカルトは、絶対的に確信できるものがひとつだけあると考えた。彼はこれを、おそらくは哲学史上最も有名な主張となった言葉で表現した。
    「コギト、エルゴ・スム(Cogito, ergo sum)」
     このラテン語を訳すと「我思う、ゆえに我あり」となる」

    「絶対的確信が持てるもの、疑うことができないものとは、我々自身の存在である。つまり、デカルトの考えからすれば、我々は自分自身が存在することを「知る」ことができるのであり、確信を持って知ることができるのである。だから我々は、自分自身の存在について懐疑的になることはできない。
     デカルトはここから大変重要な結論を少なくとももうひとつ引き出した。
     次章で考察することになるが、それは、我々は自分の身体と同一のものにはなり得ない、というものだ。
     なぜならば、我々は自分の肉体の存在を論理的に疑うことはできる(「水槽の中の脳」を思い出していただきたい)。だが、「自分」の存在を論理的に疑うことはできない。ゆえに、我々の身体は我々自身の存在とは同一のものではあり得ない。事実、デカルトの考えでは、本当の、あるいは本質的な「自分」は、肉体とは無縁なのである」

    「内政、つまり自分自身を観察し自分が何を考え感じているかに焦点を合わせた時、みなさんは何を見出すだろうか? たとえば「自分」が見えるだろうか? 自分だと思う人を発見できるだろうか?
     ヒュームによると、いくら内省に内省を重ねたところで、そこに自分を発見することなどできない。内省して見出されるのは、思考とか信念とか欲求とか感覚とか感情など、さまざまな心的状態ばかりであって、その持ち主である自己あるいは人物が発見されることはないのである。
     我々はみな、これらの心的状態すべての根拠となる自己あるいは人物がそこにいると強く信じているが、この自己や人物は、我々が経験として見出すものではない。むしろ、ヒュームが正しければ、我々の経験の基盤となる自己や人物の存在は、その経験を基に我々が「仮定」したものなのである。
     つまり、我々はものごとを次のように考えるのだ。
     内省すると、我々はそこにいろんな思考や感覚や感情や欲求などを見出す。そして、それらのものすべてが論理的に運ばれているように感じる。たとえば、ある思考が基となってある感情が生まれ、それによって特別な欲求が生じるというようなものだ。このような首尾一貫した思考の連続性をどう説明したらいいのだろうか?
     なるほど、これらの心的状態すべてが同じものに、つまり同じ「自己」に付随あるいは属しているかもしれないと考えるのは、妥当な説明ではあるかもしれない。しかし、それはあくまでも「仮説」もしくは「理論」である。
     そのような自己は、我々が自分の経験の中で見出したものではなく、経験の中で見出した現象をうまく説明するために我々が作り上げたもので、それを信じているだけにすぎないということになる。
     我々は自分が存在していると確信しているが、ニーチェとヒュームの考えに従うと、この確信は直接の経験ではなく、仮説あるいは理論に基づいたものだ。そして仮説や理論は誤りを免れないものであり、間違いだと判明する可能性が常についてまわる」「どんなに優れた理論でも、どんなに時の試練に耐えてきた理論でも、やはり間違いである可能性はあるのだ。だから、絶対的に確信が持てる理論や仮説はないのである。
     ゆえに、もしニーチェやヒュームが正しければ、我々は自分の存在を確信できない。確かなことは思考が存在するということだけで、思考している人の存在は確信できないのである」

    「哲学において、懐疑主義は「認識論敵見解」、つまり、ものごとに対する我々の知識に関しての見解のひとつであるとされる。しかし、この外界に関する懐疑主義をもっと強力なものに、すなわち外界に関する「観念論」に変えようとする哲学者もいた。
     観念論とは、「形而上学的」あるいは「存在論的」見解である」
    「「認識論的」が「ものごとについての我々の知識に関連した」という意味であるのに対して、「存在論的」は「ものごとそのものに関連した」という意味になる」
    「要するに、存在論的あるいは形而上学的見解とは、世界について我々が「知る」ことができるかどうかという話ではなく、「世界そのもの」に関する見方を指す。一方、観念論とは、世界(現実)は究極的に我々の心が生み出すものであるという見方を指す」

    「懐疑主義から関連論に行くのは飛躍ではあるが、大飛躍というほどではない。
     外界に関する懐疑主義はふたつの考えから始まっている。
     まず第一は、「我々は知覚を通じてのみ外界を知ることができる」。この見解は「経験主義」として知られている。簡単にいってしまえば、我々の全知識は、経験を通じて得られたものであるということだ」
    「この考えを、もうひとつの主張と結び付けてみよう。すなわち「世界を知覚することが、世界を経験することである」という、知覚の性質についての主張だ。これらふたつの主張を考え合わせると、次のような結論が不可避のように思われる。
     すなわち、もし我々が世界について何かを知っているとするならば、それは自分の経験を通じて得たものである、ということだ。まず初めに我々の経験に関する知識があって、ここから世界に関する知識が築き上げられる。
     これもやはり認識論的主張、つまり世界についての我々の知識の性質に関する主張であり、世界の在り方に関する存在論的主張ではない。しかしながら、形而上学との連関があることはかなり明白である。
     自分の周囲の世界を見てみよう。
     おそらくいろんなものが見えると思う。でもいったい、あなたは「何を」見ているのだろうか? ここまで採り上げてきた見方によれば、見ることは経験、つまり視覚の経験である。だかr,あみなさんが自分の周りの世界を見回して得られるものは、世界そのものではなく、あなた自身の経験であり、思考なのである。もし、世界を認識しているとしたら、それは「媒介された」認識である。つまりまず自分の経験を認識し、そのおかげで私たちは世界を認識できるというわけである。
     もし、これが正しいとすれば、次の設問の答えはどうなるだろう。
    【質問】世界についての経験(認識)が、あるがままの世界と一致あるいは対応していることを証明せよ。
     答えは「証明できない」である。
     なぜならば、我々の認識と世界の真実の姿が一致しているかどうかを調べるためには、我々が知覚している世界の姿と、真正の世界の姿を比較対照しなければならない。しかし、我々は自分の知覚(経験)の外に出ることができない。つまり、あるがままの世界に我々が到達することは不可能なのだから、世界と自分の経験を比較したり、その類似点を見極めたりすることはできないのである」

    「しかし、あるがままの世界、物質界に到達することもできず、その世界について何も知ることができないのなら、どうして我々はその世界のことを有意義に、あるいは論理的に語ったりできるのだろうか? 知ることができないものについて、何か話ができるのだろうか?
     かつてルトヴィヒ・ウィトゲンシュタインは言った。
    「語ることが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない」
     どうやら結論はひとつしかないようだ。我々が知ることができるのは、そして意味のあることとして真面目に語ることができるのは、「心的」現実のことだけである。経験や考えや思考など、心的なものに関することがらしか語れないのである。
     ここまで述べてきた思考の道筋は、アイルランドの哲学者であり聖職者だったジョージ・バークリーのものに基づいている。彼の考え、つまり「我々が現実と呼ぶものは心的なものである」という見解は、観念論として呼ばれている。観念論は、『マトリックス』に見るような懐疑主義がそのまま拡張されたものなのである」

    「色は物質界のものではない。色とはまったくの心的存在であり、ある種の経験である。それは物質的ではなく心的な現実の一部なのだ。
     そして彼ら(=バークリーのような観念論者)は、他のすべてのものも同然だと考える。我々には物質的現実という考えを理解することはできない。すべての現実は心的なもの、つまり脳の中で生み出されたものなのである」
    「我々が「現実」だと思っているものは、すべてこれらの経験によって得られるものであり、これらの経験を離れて、実在するはずの物質界に直接アクセスすることはできない。「経験の外に出た」という確信できるような経験をすることなど、あり得ないのだ。我々の知識ーーすなわち経験から得られる知識だけでは、観念論が間違っていると確信することはできないのである」

    「本章で扱った知識に関する問題、つまり「我々は何かを知ることが可能か否か」という問題は、前章で見た生の意味に関する問題とかけ離れているようにみえるかもしれない。しかし実際は、このふたつの問題はお互いに似かよっている。それどころか、異なった方向に展開してはいるが、本来は同じ問題なのである。
     というのも、ともに、我々に関する「内」からの見解と「外」からの見解との間で起こる不協和音を中心とした問題だからである。
     内側から見ると、我々の人生には意味も目的もあるが、外側から見るとそうではない。だから我々は、生の意味という問題を抱え、不条理に悩むことになる。
     一方、内側から見ると、我々は認識する生き物、自分自身や自分を取り巻く世界についてさまざまなことを知る能力を備えた生き物である。だが、外側から見ると、我々はそんな生き物ではない。世界のことはもちろん、自分自身についても何ら知ることが不可能なのである。
     そこで我々は知識に関する問題を抱えることになる。内側から見れば、我々は意味や知識を見出す能力を持っているように見えるが、外側から、つまり「永遠の相のもと」から見れば、意味も知識も見つかる可能性がない。
     すなわち、ふたつの問題は根本的に同じものである」

  • 哲学について書かれた本なんぞを読んで何の益があるのか、と考える人がいるかもしれない。たしかに金儲けにはあまり役に立つとは思えない。しかしまあ、ものは考えようである。世の中に役に立たないことは多いが、それでもけっこう多くの人が関わっている。他人には理解できなくても、当事者にとっては意味を持つことはあるものだ。

    現実の世の中には立場によって様々な利害関係が存在するから、自分自身の行動も思うようにはとれない。自分の人生なのにどうしてと思ったりすることが多いものだ。そんな時、哲学はけっこう役に立つ。この世のしがらみに雁字搦めになって息苦しくなったり、重い気分になったりしている自分を現象学的括弧に入れて、一度突き放してみるのだ。すると、意外に悩んでいたことがすっきり見えてきて、自分の悩みが自分固有のものではなく、普遍的なものに感じられてくる。

    自分が自分だと思っているものがそれほど確固としたものではないことが分かればしめたものだ。悩んでいる自分に別れを告げて、新しい自分をリセットすればいい。人が変節をなじろうと構うことはない。古い細胞が垢になって剥離しても見かけが変わらなければ貴方であるのと同じように、記憶が持続している限り貴方は貴方なのだから。

    映画で哲学を語るというのは、それほど突飛なアイデアではない。事実映画の中には哲学的命題が溢れている。古今東西の人間の営みで哲学の材料にならないものはないからだ。ではなぜSFなのか。SF映画にはエイリアンとかモンスターとか人間とは異質の「他者」が登場する。著者の言うところによれば「他者を通すことで、自分自身がよりいっそうはっきり見えるようになる」。つまり、我々はモンスターを見ているつもりだが、モンスターに反映されているのが私たち人間の姿なのだ。

    『フランケンシュタイン』で実存主義を、『マトリックス』でデカルトをと言われたら、少々哲学をかじったことがあれば、にやりとするだろう。なるほどうまいところに目をつけたものだ。映画を材料に、時にはジョークも交えながら手際よく哲学的主題を語ってゆく、その語り口は大学の哲学概論を思わせるが、もし、これが大学の講義なら、かなりの人気が予想されるだろう。実際、映像という具体的なものをもとにしているだけに、抽象論である哲学が分かりやすく頭に入ってくる。

    なかでも、世界で最も哲学的な俳優と著者が呼ぶシュワルツェネッガーと監督のポ-ル・バーホーベンはお気に入りらしく、この二人の映画の引用は他を圧している。『ターミネーター』では心身二元論を語り、『トータル・リコール』、『シックス・デイ』ではアイデンティティ論を語り尽くす。自我とは何か、「私」とは詰まるところ脳なのか、といったよくある疑問を極端な論法で解いてみせる手際はなかなか水際立っている。

    『スター・ウォーズ』では、ニーチェの超人論を引きながら、せっかく暗黒面のフォースを自分のものにしながら「昇華」させることのできなかったダース・ベイダーの生き方を批判し、『ブレードランナー』では、死の意味を問う。「なぜ人を殺してはいけないのか」という子どもの問いに、大人が窮したことがあった。それをもとに書かれた哲学者の本も何冊かあったように記憶する。その答えもカントの「定言命法」を用いて至極あっさりと解決されている。

    ただ、著者も言っているが、哲学とは「知る」ものではない。ビデオで映画を見直したり、記憶にある映画と比べたりしながら著者の哲学講義を聞くことで、自分の抱えた問題を自分で考え直してみる、つまり「する」ものだ。しかつめらしい講義はご免だという人でも、チップス片手にビールでも飲みながらの哲学ならやってみる気になるかもしれない。そんな哲学初心者にうってつけの一冊である。もちろんSF映画ファンにもお薦め。

  • 映画をもとに哲学思想を解説するというより、哲学を用いて映画を分析した本。分かりやすいし、中身がなさそうなシュワちゃんの映画にも深い意味を見いだせる。

  • 「オオカミ」を読んでから、これも読んでみたけどおもしろい!西洋哲学初心者向き。ハリウッド映画を題材に、多少強引ですが、哲学の講義が展開。題材となった映画を見ていないとおもしろみに欠け、見ていたとしても、もう一度見たくなります。歴史上の哲学者たちの注釈にくすっとさせられます。

  • フランケンシュタインで実存主義、マトリックスでデカルト、ターミネーターで心身問題、トータルリコール&シックスデイでアイデンティティ論、マイノリティリポートで自由意思、インビジブルでカント、インデペンデンスデイ&エイリアンで黄金律、スターウォーズでニーチェ、ブレードランナーで死の意味、がそれぞれわかるという本。
    それぞれの映画を何回も見てから読めばいいかなと思った。

    買ったけど結局何年も読んでいないから、売った。川口図書館で見かけたことあるから、借りて読んでもよいだろう。

  • 哲学に興味はあるけど,本を読むと眠くなるという人にお勧め。この本ではSF映画を素材にして哲学上のさまざまな問題について解説している。目次を紹介すると,『フランケンシュタイン』で実存主義がわかる,『マトリックス』でデカルトがわかる,『ターミネーター』で心身問題がわかるなどなど,言われてみるとSF映画の物語は,私たちが普段漠然と疑問に思っていること,巧妙に視覚化してストーリー展開している。「私たちが見ているのは本当の現実なのか,それを信じる根拠はあるのか?」という問いは,『マトリックス』を見た人の多くが感じただろう。まさにこれは哲学的な問いである。この本を読むと,これらの映画ももう一度見たくなる。(菅)

  • 高校生の頃から哲学書をかなり読んでることは有名で、そういった事を告白しつつ、入門書として薦めていた1冊。

  • 君はマトリックスの中にいる!
    本文より

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著者プロフィール

1962年ウェールズ生まれ。哲学者。著書に「哲学者とオオカミ」など。

「2013年 『哲学者が走る』 で使われていた紹介文から引用しています。」

マーク・ローランズの作品

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