- Amazon.co.jp ・本 (211ページ)
- / ISBN・EAN: 9784806722403
作品紹介・あらすじ
強い人口圧力と膨大な木材需要にもかかわらず、日本列島に森林が残ったのはなぜか。古代から徳川末期までの森林利用をめぐる村びと、商人、支配層の役割と、略奪林業から育成林業への転換過程をていねいに描く。日本人・日本社会と森との1200年におよぶ関係を明らかにした名著。
感想・レビュー・書評
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森林破壊は、日本の歴史上古くから行われていたことがよく分かる書。欧米人の著者がここまで日本の森林に関してまとめてくれたことに感謝。また、欧米人だからこそ、こういった書が作れたのかもしれない。
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TC1a
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200年頃には製鉄が行われるようになり、カシ、クリ、その他の広葉樹が木炭の原木として使われた。300〜600年の間は、武器の需要が製鉄用の木炭の需要を増やし、古墳の周りに置く土器や埴輪の製造にも大量の燃料が必要になったと考えられる。
600〜850年は、宮廷や支配層の豪邸、寺院や神社の建築のために森林が略奪された。655年頃までに飛鳥周辺のヒノキ林は伐りつくされ、宮殿にはサワラを使い始めた。藤原京の造営のために田上山から木材が運ばれ、平城京の建設には加えて甲賀や伊賀の山々から木材が伐り出された。長岡京や平安京には、山城と丹波の国境の山林が利用された。9世紀には、製炭用の大型の窯が中国から導入された。9〜10世紀には、大堰川(保津川支流)の奥地、紀伊、吉野川流域、木曽川水系の美濃、飛騨、信濃が伐採された。11世紀頃には、広島産の木材が利用されるようになった。
中世には森林開発が安定した。13世紀以降、共同体の土地は入会として区別されるようになった。畿内の木材需要は、紀伊南部から伊勢、美作、因幡、安芸、阿波や土佐の内陸部から供給された。1180年に焼失した東大寺の再建に必要な大木は、佐波川の上流から伐り出された。
1570〜1670年の建設ブームによって、国内のほとんどの高木林が裸になった。材質によって用途を使い分けたため、樹木の選別が不要になり、皆伐を広めることになった。秀吉は吉野や木曽のいくつかの森林を直轄領とし、重要な森林地帯の天竜川流域や秋田には、忠誠を誓う小領主を据えた。秀吉が建てた方広寺の棟木は富士の裾野から、伏見城には米代川の支流沿いから伐り出された。家康も実権を握ると、秀吉の吉野や木曽谷の土地と天竜川流域を支配した。江戸城、名古屋城、駿府城には莫大な上質材が消費された。
1630〜1720年には、森林の利用を制限したり変更したりする消極的管理が行われるようになった。上流部の過剰利用による下流域の農業への被害に対処しなければならなくなったため、17世紀中ごろまでに保安林が広く拡散した。生産林業への関心は、17世紀末までに浸透した。18世紀、特に1760年頃から人工林が造成されるようになり、京都に近い山国、吉野、青梅と西川、尾鷲と天竜川の下流域で盛んになった。 -
今の日本の森がいかに貴重な森かと、いうことがわかる参考書。
森は個人のものではなく、すべての生き物にとっての財産。
大和政権がいかに森を浪費してきたかが分かる。木材が手に入りやすいところに朝廷をつくり、なくなったら移転する。こうして畿内地方から森が消えたという説。
細部に渡って厳しい禁令などがあったというのも、すごい。
ただこんなに分厚いハードカバーではなく、新書でもよいのではと思う。もっと噛み砕いてわかりやすくして、読みやすくしたら、いろんな人に読んでもらえるのでは、と思う一冊。