アーティストになれる人、なれない人 (magazinehouse pocket 10)
- マガジンハウス (2013年9月24日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
- / ISBN・EAN: 9784838726127
作品紹介・あらすじ
世界的にその名を知られる現代美術家・宮島達男がホスト役となり、7名の豪華ゲストと繰り広げた、楽しくも深遠なトークをまとめた1冊。
いずれも日本を代表する現代美術家、デザイナー、建築家、脳科学者と、多彩なジャンルのトップランナーとの対話は、それぞれの生い立ちや青春時代の挫折や葛藤、創作をめぐる秘話などを交えながら和やかに進行していく。彼らは、どのように選択し、挑戦し、チャンスをつかみ、なぜ超一流になり得たのか。
「芸術や美術という専門性の枠を外しても、とりわけ若い人たちが人生を考えていく上で、大いに刺激となりヒントを得られる対話になったのでは」と宮島は綴っている。
<ゲスト>
大竹伸朗(画家)
佐藤卓(グラフィックデザイナー)
杉本博司(現代美術家)
名和晃平(現代美術家)
西沢立衛(建築家)
茂木健一郎(脳科学者)
やなぎみわ(現代美術家)
感想・レビュー・書評
-
学びがとても多い本だった。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
大竹伸朗さんの対談がとても良かったです。
-
【資料ID: 1117000831】 702.16-Mi 75
http://opac.lib.saga-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BB13666804 -
この手の本は避けてきたけれど、読んでみるとかなり納得される部分が多かった。
総じて思うのは、別に「全員に」普遍的なもの、「全員」に納得されるようなものを、「全員」にとって良い人になる必要はないということ。それはおそらく、反発や批判をかうことを同時に意味してもいる。何か誰にとっても普遍的で、間違いのないもの、間違いのない素晴らしい人間、そういうものを目指していても仕方がない気がする。
円滑さばかり発展させて、どこか摩擦がない。そういう仕事は空虚さしかない。今わかってもらえなくても、いつかその人が分かる日がくるかもしれない。
気に入られること、良い人でいることと、自分を表明すること、自分自身の意見を持つことは、おそらく完全には両立しない。自分がしたいのは、全員にではなく、誰かにとっての痕跡を、しっかりと自分を打ち出すことで残していくことだ。それは数じゃない。媚びて、嫌われないようにしよう、変な風に思われようとやっていても仕方がない。
もう会いたくない、変なやつだったと思われるくらいで良い。そうまでしないと、人に何か印象を残すことは出来ない。そのリスクを背負わないと、僕は何も出来ない。
自分を打ち出して、それで気に入られない、相性が悪い、必要とされない、それならそれでいい。でも、自分を打ち出すことで、得られた出会いを見れない、打ち出すことで発生させられたかもしれない他人への内面変化を、消失させることがあってはならない。自分の人生が、あまりに勿体ないことになる。
僕は1000000000人に受け容れられることを、果たして求めているだろうか。そうではなくて、もう磁石のように、そこに自分を必要としてくれる、自分の奥底でつながっている、そのことだけ、それだけを求めているんじゃないか。それは人数ではない。10000000人いたら、1人でも良い。それで良い。近寄られないのならそれでも良い。自分をまげているのが一番よくない。
僕が自分のいのちが生きていると思う時はいつだ。それはたった一人であれ、そのままの自分で、そのままの他人とつながりを感じていられる時だろう、何か共鳴する時がある時だろう。その時だけだろう。
●以下引用
いい人だなって思われたらアーティストはダメなんですよ
だから落ちまくったときに、君は違うんだって言われたような気がしました。でも、散々やってすっきりしたんですよね。自分はデザインなんだ、デザインで行こうっていうふうに。30歳を過ぎた頃ですね。
こんな変なものを作って、それを高く売ってるわけですからね。だから、変わった人間だったらこっちの方がいいなって思って。
momaに持っていったときもそうなんですけど、まず売り出し方のポリシーを考えたんですよ。どうやって無名の私がニューヨークに出て行くかというね。
私は逆で、一番上から行って、ダメだったら下りてこようと思ったんですよ
全く無名の作家が有名画廊でやるってことで周囲は驚いたみたいですけどね
そのときに展覧会が決まったんですよ。だから、上から下りて行くって言ったけど、下に行くことは今までの人生でなかったわけだよ
国立美術館の学芸員とかは国の金とかで買っているわりには全然甘いわけですよ。自分が傷つかないからね
相手の波に乗るわけですね。まず土俵を同じにして、そこから次のステップへ進む
イラストレーターとかデザイナーを目指すというのならば、世の中にニーズはあるわけですよ。もちろん、それも大変な道なんだけれど。だけど、芸術家を目指しちゃうと、大海原に放り込まれたようなもので、どっちに岸があるのかわからない状況になるわけじゃないですか。「明日はどっちだ?」といった。
「岸が見えないときにどうするのか。それは自分で決めていくしかないわけですよ」
客観的に大人から見れば、「子どもが何を考えてるの」っていう世界には変わりないんだけど、そういうところで自分の思いににじり寄るしか方法がないわけよ
絵をガシガシ描いていればいいのかっていうと、それだけだとドツボにはまっちゃう場合がある。中身が何にもないうちからそうやって描きまくってると。技術ばっかり長けちゃったてね。そういう人間的な経験と言うか、そういうことを意識的にやっていた
業界っていうのは意地悪なのよ。なんか傷つくわけ。美術の世界でおじさんとかにぐちゃぐちゃ言われるわけじゃないですか。20代の頃とかは。言いたいことを言われるわけよ。結構インテリの連中が多いからジョークもきついんだよね。平気で言われるわけじゃないですか。だからメンタル弱い奴は潰れるんだよ。
才能よりも、ねちっこいおじさんたちの嫌味に対して、いきなり回し蹴りくらわすみたいないさ。そういう精神力が大事だと思う。
絶対潰れないっていう根拠のない思いみたいなものがないと。逆に言われたことを整合性を持たせて解釈しちゃうのは、いたく傷つくわけ。
アウトプットが可能な機会も多い。だけど、その回路がないところで自分がやろうとすると、本当にそれをお前はやる気があるのかみたいな。それを越えてでもやり通すのか、やり通さないのかっていうね。そこを自分自身に突き付けられる
周りから、とりたてて何にも期待されていないのに、お前はやるのかーそれは強靭に鍛えられる環境ですよね。
どういう心理状態になるかっていうと、必要とされないから、自分が作品を作らないと、世の中からどんどんフェードアウトしていくような感覚になるわけ。何にもしないとね。自分はこういうコンセプトで作品を作ってるんですよっていうのは、それは恵まれてる話でさ。俺の場合は、もっと切実なわけよ。なんか作らないと、自分がどんどん消えていっちゃうというか。創作はこの世から消えないたけの方法に近いわけ。だからどんどん作るしかないわけね。
今でも覚えているけど、当時、俺は24歳で、ロンドンにいるものの、何もできないわけ。でもそういう自分が曲がりなりにも必要とされたってことが、どれだけ孤独のロンドンで希望を生んだか
俺が考えていたのは、本当に、本当に俺のことを必要とする人物がいるとしたら、ニューヨークから一泊で会いにくると思ってるわけ。宇和島にね。
だからそういうことが起きない限り、東京でどんなにいろんな人に会っても大した出会いではないと、どういうふうに思ってる。自分がもし本物であるのだったら、相手は地の果てからでも来るはず
そういう風に思わないと、そこで腹を括らないとやっていけない
芸術家なんていうのは、どれだけの時間に耐え得るか、でしょう。芸術家かどうかなんてことは、自分が決めることじゃない、ものすごい積み重なった時間のもとに淘汰されて、残るべき人は残るわけ
こいつおもしろいなって思う時は、絵がうまいとかじゃなくて、例えば、カラオケの選曲のセンスや、間が良いとか。そういうところの方がなんか信用しちゃうんぢょね。つまり芸術的なことの接点よりも。ヒトとして接した時の感じ
環境とか人に頼るということがない反面、自分で自分を追い込むっていう姿勢はすごくある
芸術というのは、なかなか結果に結びつくことが少ない。だからこそ、その過程が一番重要。絶対にやめないっていうこと
認められるか認められないかはってうのは、他人がジャッジすること。だから大事なことは、認められるか認められないかという尺度ではなくて、自分が作るか作らないかという問題だけ
真摯な議論をせず、意見の対立を畏れ正解を求めてしまう精神風土
アートの世界でも、「正解」を求めようとしている学生が多い。アートっていうのは、答えがないもの。成功するというのは市場で評価されることであって、私は違う目的のためにやっている
反対勢力があるということ。もう強烈に認めらてない。否定される。
先生が講評会で全員トイレに立つ。でもひとりでやってる。
現代美術は、ある一つの特異点を唐突に評価される。これをやっていればここまでというのが見えにくい -
作り続けるっていうのがすごいことだな。
アーティストはそれを自然にやっているような印象があるけれど。
いろいろあったり、なかったり、考えたり、不安に思ったりする中で作り続ける。それが出来るか出来ないか。 -
どうしてこの本を借りようと思ったのか、まったく覚えていないのだが、図書館で予約した本の中に紛れていた。
タイトルにはあまり惹かれない、というか、タイトルから連想したのは、「俺たちはこうしてアーティストになった」っていう、くだらない思想本というニュアンスだったので、あまり期待しないで読み始めたのだが、案外面白かった。
それぞれの立場から、アート、デザインというものに対して昨今の教育事情を懸念し、どうすべきかということを謳っている。
また、アート、デザインというもののクリエイティビティそのものに焦点を当てているのではなく、人がアート、デザインとどのように向き合うのか、どのように接触していくのがよいのかという部分が、世の中を生きる人達、さらには将来を担う子ども達にとって、いかに大事かということを強調していた。
それは何も、芸術の世界だけでなく、広く一般社会に生きる全ての人達に対しても、同じように大事であるということ。
というわけで、やはり、タイトルはよくないな。 -
せっかくこれだけの人の発言集なのに、あれ?という感じ。書籍化する必要があったのか。タイトルも安易。読み易いが内容に厚みがないような。
佐藤さんの縄文時代、大竹さんの理不尽さ、宇和島にいること、宮島さんの作るか作らないか、
茂木さんの批評性への言及は示唆的だが、掘り下げが欲しかった。 -
タイトルが下衆でよくないが、
内容は面白かった。
トップレベルのクリエーターや芸術家を学校で育てることができるのか、
もしくは教育はどこまでできるのか、
というテーマ。
今のような小中学校の美術教育なら、やらないほうがマシかもしれない。好きになる・興味を持つ子どもよりも、嫌いになる子どものほうが多いかもしれない。
東京芸大を頂点にした美術教育ヒエラルキーの閉鎖性と弊害。
「やっぱり一番何かが起こり得るのは“偶然”なんだよ。偶然ほど強いものはないっていう感じはある」(大竹伸朗)
「引きこもりの期間があったほうが、作家としては何か一つのものができるかもしれない」(やなぎみわ)
アートはもっと自由なものだろう。 -
大竹伸朗さんの対談がとても良かったです。
全アーティストに共通する「壁抜け」の恐怖と、
その大事な部分を実体験から語ってくれています。