吉備邪馬台国東遷説

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  • 吉備人出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (249ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784860693725

作品紹介・あらすじ

畿内か北九州かなどと学者の中でも決着のつかない邪馬台国論争。山陰や近江、丹波、阿波…など、各地にもあるご当地邪馬台国。本書が主張するのは、吉備に邪馬台国があり東遷したとする「吉備邪馬台国東遷説」。これまでの発掘調査や文献を駆使し、考古学者や文献学者の学説をはじめ、地元の研究者の説も紹介しながら、独自の視点で「吉備邪馬台国東遷説」を説く!

感想・レビュー・書評

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  • 邪馬台国は吉備であったという説。畿内説、北部九州説に対抗して、なんとなくではあるが、個人的にはそうではないか思っていたので、購入。
    すべてが納得できるものではないが。

  • 吉備に邪馬台国はあり、それが東遷して大和朝廷になったという説は、私の意見にかなり近いのであるが、やはり読んでみるとかなり私のイメージとは違った。

    そもそも、私は邪馬台国が何処にあるか、ということにはあまり関心が無い。倭国統一政権がどのようにして出来たか、ということを考えていけば必然的にそのことも考慮に入れなければならないだけであって、この著者や世の考古学ファンのように、どうにかして魏志倭人伝や記紀との整合性を持たせようとすることに労力をかけたくないのである。

    そうは言っても、やっと本格的な吉備国解説本になっており、いろいろと勉強になった。

    以下、東遷説の概略を述べ、然る後に印象に残った処をメモする。

    西暦108年、倭国王師升が後漢に使いを派遣する。その倭国は吉備であり、中心は楯築周辺と岡山市百間川沿いの農業生産地にあった。楯築遺跡で初めて葬祭儀礼専用の立坂型特殊器台が発明された。葬られたのは、初代王か二代目。王は龍の子孫という伝承があり、それを象徴する弧帯文というデザインが王家の紋章とされ、弧帯文を描いた弧帯石が存在した。西谷三号墳からも立坂型特殊器台が出ているので、早い時期にこの「投馬国」との交流があり、朝鮮半島とは投馬国経由と瀬戸内、北九州ルートをもち、近畿と四国との交通結節点を抑えたことで、倭国王として推戴された。上東波止場遺跡や王莽の新の時代の貸泉が大量に出土していて、国際貿易港があったことは確か。
    神武天皇は弁辰製鉄集団の出身。中国南部から伝わった胡沼鉄製鉄のため、少人数で鉄資源を求めて東遷した(西暦100年頃)。九州日向佐野→北九州→安芸→吉備(百間川遺跡)→奈良宇陀(水銀朱)。これと先行して大和に入った天孫族ニギハヤヒ製鉄集団を吸収して大和朝廷になった。コレが狗奴国。やがて丹波と組んで公孫氏や高句麗とも交易。
    西暦200年頃になると、吉備邪馬台国と狗奴国・丹波との経済利権対立は深刻になり、ついに狗奴国は吉備制圧に着手することになる。
    238年9月公孫氏滅びる。11月卑弥呼を親魏倭王に。12月魏の明帝死去。倭国や朝鮮は魏につくか、実力者の司馬氏につくか混乱。
    245年朝鮮の「三国史記」に高句麗に「日本の人が美女を献上した」とある。丹波が高句麗・司馬氏に工作した可能性。同年邪馬台国は魏に献上。245-247年、高句麗東川王と魏・幽州刺史との対立。
    247年、帯方郡に魏側の太守着任。卑弥呼援軍要請。張政派遣。卑弥呼の引退勧告。卑弥呼死す。戦争中なので、矢部辺りに塚。張政狗奴国との講和。いっとき狗奴国・卑弥弓呼を王に。混乱してすぐに讃岐・田村神社のトヨを指名。それには吉備津彦が活躍。トヨは纒向に移す。吉備津彦は邪馬台国に進駐。張政は帯方郡に凱旋。トヨは266年に晋へ使者派遣、天子が円丘・方丘を祀る儀式有りと聞き前方後円墳築造を決意。

    前半は勉強になったが、後半は疑問符だらけだった。あまり文献に頼るのもどうかと思った。あまりにも中国・帯方郡に「従属」しているし、問題を武力で解決しようというのは現代の発想である。弥生終末期の吉備の独自性は、自立精神と平和主義にあったのだと私は見ている。

    この本では、特殊器台復刻プロジェクトの報告がされていた。著者がプロジェクト広報だったらしい。横置きで焼き、薪と藁を使い、四時間焼いて二時間後に取り出し見事に焼けたという。

    楯築の高杯・脚付小坪の合計百数十が主要な参列者の数か?

    足守川流域の弥生遺跡群は巨大な卑弥呼の都だった。周囲10キロの可能性。(吉野ヶ里は周囲2.5キロ)

    播磨弥生墳丘墓では、揖保川水系の養久山5号墓は双方中方墳。有年原田中遺跡1号墳は双方中円。古墳時代権現山51号墳では、都月型特殊器台形埴輪と特殊壺、吉備系壺型土器、三角縁神獣鏡が出土。
    2014年4月23日読了

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著者プロフィール

1954年、岡山市生まれ。東京大学経済学部卒。文学部考古学特殊講義単位取得(甘粕健講師)。
路面電車とまちづくりの全国ネットワークを主導し、岡山城築城400年ソフト事業委員長、岡山経済同友会地域振興副委員長、国土交通省TDM実証実験懇談会委員を歴任し、『第1回新邪馬台国サミット』(2012年)コーディネーターを務める。
現在は百鬼園倶楽部(内田百閒顕彰会)会長、吉備特殊器台再現プロジェクト幹事・広報担当、宇宙神楽実行委員会事務局長、原発自主避難者の岡山移住のための「おいでんせぇ岡山」理事。
著書に『岡山の内田百閒』、共著『路面電車とまちづくり』、『バスマップの底力』、共著『脱原発の市民戦略』。

「2014年 『吉備邪馬台国東遷説』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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