ディスタンクシオン〈普及版〉I 〔社会的判断力批判〕 (ブルデュー・ライブラリー)
- 藤原書店 (2020年11月27日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (528ページ)
- / ISBN・EAN: 9784865782875
作品紹介・あらすじ
名著ロングセラー、待望の普及版!
「これほど夢中で読んだ社会学は他にない」岸 政彦さん推薦!!
趣味と階級の関係を精緻に分析したブルデューの主著、待望の普及版登場!絵画、音楽、映画、読書、料理、部屋、服装、スポーツ、友人、しぐさ、意見、結婚……。毎日の暮らしの「好み」の中にある階級化のメカニズムを、独自の概念で実証し、文化・社会・経済など幅広い領域で読まれ続ける名著。
★活字を一回り大きくして読みやすくし、ソフトカバーで手に取りやすい造本になります! 〈附〉訳者による普及版序・後記
★Eテレ『100分de名著』12月特集(講師・岸 政彦 立命館大学大学院教授)
感想・レビュー・書評
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「日本における「対応分析」受容の現状を踏まえて、 EDA(探索的データ解析)の中に対応分析を位置付け、 新たなデータ解析のアプローチを実現する」
藤本一男
https://tsuda.repo.nii.ac.jp/records/345
「1.2 ブルデューの「ディスタンクシオン」の翻訳での対応分析をめぐった混乱
社会学と対応分析の関係が語られる時、ピエール・ブルデューと彼による「変数の社会学」批判が引き合いにだされる。それは、時に、次のような挑発的なフレーズとともに参照される。
「私は対応分析をよく用いますが、それは対応分析が関係論的な手続きであり、私にとっては社会的現実を構成するものを十全にあらわす哲学だからです。それは、関係論的に思考する手続きであり、私が界概念とともに試みていることです。(Lebaron 2010:102、磯 2020:130)」
ここに表現されている多重対応分析への注目 2)は、必ずしも理解されてこなかった。確かに、『ディスタンクシオン』はブルデューの基本文献なのだが、そこでの計量手法、つまり対応分析と彼の社会学概念が切断されているからである。
それは、ブルデューが用いた計量分析の手法(対応分析)が、「照応性の分析」と訳されていることに加えて、対応分析の基本的な概念、その意味では、ブルデューが「界」の概念と対応させている多重対応分析の重要概念である「慣性」「因子」の翻訳で失敗している。
対応分析において「慣性」とは伝統的統計学でいうところの「分散」であり、訳註で説明されるような「比喩」などではない 3)。
さらに原文で「factorielle」とあるものが、すべて「因子」と翻訳されているが、これは「座標軸(もしくは主軸)」と訳されるべきものである。第 5 章の注の英訳は「This means that the first factor in the factorial analysis corresponds to the second dimension of the social space and the second factor to the third dimension.」となっている(Oxford 版 p580 の(6)、Routlege 版では p574 の 8)。
日本語訳では、「(8)このことは、因子分析の第一因子が社会空間の第二次元に、第二因子が第三次元にそれぞれ対応しているということを意味している」となっている。
原文は、以下の通りである。
「8. – Cela signifie que le premier facteur de l’ analyse factorielle correspond à la
deuxième dimension de l’espace social et le second à la troisième.」
つまり、日本語で「因子分析」とされている部分は、「l’analyse factorielle」であって、社会学や心理学で多用される(探索的)因子分析ではないのである 4)。」
「4) こうした理解のねじれによって、ブルデューが用いた計量的手法が「因子分析」である、という誤解、混乱が生じた可能性もある。宮島・藤田 1991 の第 8 章は、日本での調査データに対して因子分析をおこなってブルデューの展開として展開している。その分析を結果をうけるかたちで執筆された『文化的再生産の社会学』の初版(1994)はいざしらず、2017 に刊行された増補版でも分析方法についてはそのままである(宮島・藤田 1991, 宮島 2017)。」 -
人は生まれながらによって不平等である、ということを統計的、社会学的に証明した本。
面白い内容なのだがとにかく文章が読みにくい。翻訳の問題かと思ったが原著も読みにくいとのこと。 -
一度は読んでみるべきものだと学生時代に刷り込まれた本をついに。
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職層と所属階級との対応、およびアンケート結果の見せ方が恣意的すぎるので、せっかく提示された概念「ハビトゥス」が胡散臭いものになってしまっている。
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【『ディスタンクシオン』の日本語訳が出たのは、一九九〇年、私が大学三回生の時です。すぐに買って読み始めると、たちまち夢中になりました。まさに自分のことが書いてある、と思ったのです。自分がどこから来てどこへ行くのか、すべて説明されているように感じました。(略)千ページほどあるこの大著を一晩でむさぼるように読みました。】(岸政彦『ブルデュー『ディスタンクシオン』』
残念ながら、鈍な僕には岸先生のようにはいかなかったが、先生の「100分de名著 ブルデュー『デイスタンクシオン』」のおかげで、なんとか第一巻を読み終えることができた。
もちろん、全てを理解することはできなかったが、刺激的ないくつかの文章は心に残った。
若き岸先生が夢中になったというのも、充分うなづける内容だ。/
【アンケート調査を見ると、あらゆる文化的慣習行動(美術館を訪れること、コンサートに通うこと、展覧会を見に行くこと、読書をすること、等々)および文学・絵画・音楽などの選好は、まず教育水準(略)に、そして二次的には出身階層に、密接に結びついているということがわかる。】(序文)
【「眼」とは歴史の産物であり、それは教育によって再生産される。今日正統的なものとして通っている芸術の知覚様式についても同様である。この知覚様式とは芸術作品をそれ自体として、それ自体にむけて、その機能においてではなく形式においてとらえる能力、しかもそうした評価方法に適した作品すなわち正統的芸術作品だけでなく、まだ正統的なものとして公認されていない文化的作品(略)をこうした見かたでとらえる能力、そうした能力としての美的性向のことだ。】(同上)
【じっさい、現実や虚構と関係をもつ多様な様式、そしてそれらが模している虚構や現実を信じる多様な様式、それらは前提となる経済的・社会的条件を介して、社会空間内におけるもろもろの可能な位置に密接に結びついており、またそれゆえにさまざまな階級および階級内集団(略)に特徴的な諸性向の体系(ハビトゥス)のなかに、密接に組みこまれている。趣味は分類し、分類する者を分類する。社会的主体は美しいものと醜いもの、上品なものと下品なもののあいだで彼らがおこなう区別だて(ディスタンクシオン)の操作によって自らを卓越化するのであり、そこで客観的分類=等級づけのなかに彼らが占めている位置が表現され現れてくるのである。】(同上)
【趣味(すなわち顕在化した選好)とは、避けることのできないひとつの差異の実際上の肯定である。趣味が自分を正当化しなけれはならないときに、まったくネガティブなしかたで、つまり他のさまざまな趣味にたいして拒否をつきつけるというかたちで自らを肯定するのは、偶然ではない。趣味に関しては、他のいかなる場合にもまして、あらゆる規定はすなわち否定である。そして趣味(略)とはおそらく、何よりもまず嫌悪(略)なのだ。】(第 Ⅰ 部 趣味判断の社会的批判)
第二巻は、いくらなんでももう少し集中的に読みたいものだ。 -
2020I108 361.5/B1
配架場所:C2 -
◆7/17オンライン企画「わたしの”好き”を見つける」で紹介されています。
https://www.youtube.com/watch?v=roZ2LviU1jQ
本の詳細
https://www.fujiwara-shoten-store.jp/SHOP/9784865782875.html -
ブルデューのアンケートは、現代的なアンケートの取り方と比べると恣意性が強いと感じたが、それでも階級社会に対する違和感のようなものをはっきりと表明していてそこは良いと思った。