ライプニッツ著作集第1期 新装版(4)認識論『人間知性新論』上

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  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784875024989

作品紹介・あらすじ

A・N・ホワイトヘッドが「天才の世紀」と呼んだ17世紀に生をうけ、
デカルトやニュートンをはじめとする同時代の偉才の思想に向き合い、
さらなる可能性を求めつづけたライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716)。
経験論の主柱J・ロックの『人間知性論』を精読し、生得観念、無意識、微小表象などをもってつぶさに反論を開始する。

感想・レビュー・書評

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  • 意識されない無数の表象
    【我々の魂の内には、意識表象も反省もされていない無数の表象と、その諸変化が絶えずある。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】

     「次のように判断させる多数の標示がある。すなわち、われわれの内には、意識表象も反省もされていない無数の表象が絶えずあり、それは、魂そのものの内にある、われわれが意識表象していない諸変化である。それらの印象があまりに微小でありしかも多数であるか、あるいはあまりに単調で、その結果、それぞれ別々に十分識別できないが、それでも他のものと結びついたときには印象の効果を発揮して、少なくとも集合的には錯然と感覚されるからである。たとえば、水車の回転や滝のすぐそばに暫くとどまっていると、慣れによってそれらの音に気をつけなくなる。それは、これらの運動がわれわれの感覚器官に印象を与えつづけていないからではないし、また、魂と身体の調和によって、これに対応する何ものもまだ魂のなかに生起していないからでもない。そうではなくて、魂や身体の受けている印象が、新鮮な魅力がなくなって、われわれの注意力や記憶力を喚起するほど十分強力ではなくなり、われわれの注意や記憶はもっと関心をよびおこす対象にだけ注がれるのである。あらゆる注意力は、いくらかの記憶を必要とし、われわれ自身の現前する諸表象のいくつかについて注意するようにと、いわば警告されないと、それらの表象を反省なしに、気づくことさえなく看過してしまうのである。けれども誰かが直ちにその表象について告げ知らせ、たとえば今聞いたばかりの音に注意を向けさせるならば、われわれはそれを思い起こし、まもなくそれについてある感覚をもっていたことに気づく。このようにそれらは、われわれがすぐには意識することのない表象であり、意識表象はこの場合、どんなに小さな間であろうと少しの間をおいた後に知らされて生じるのである。そして、密集していて区別できない微小表象をもっとよく識別するために私は、海岸で聞こえる海の轟やざわめきの例を用いることにしている。通常このざわめきを聞くには、全体のざわめきを構成している各部分、つまりひとつひとつの波のざわめきを聞いているにちがいない。これら微小なざわめきのひとつひとつは、すべてが同時に錯然と生起している集合のなかでしか知られないし、ざわめきをなしている波がたったひとつであるなら気づかれもしないであろうけれど。というのも、その波の運動によってわれわれは少しは作用を受けているはずであり、そうでなければ、十万の波の表象はもち得ないであろうから。ゼロが十万集まっても何ものもできないのである。微弱で錯然としたいかなる感覚ももたないほどに深く眠ることなど決してない。」

    • 命題集 未来のための哲学講座さん
      自由の意味
      【自由のいろいろな意味:(a)精神の不完全性からの自由、(b)必然に対立する精神の自由、(c)権利上の自由、(d)事実上の自由、...
      自由の意味
      【自由のいろいろな意味:(a)精神の不完全性からの自由、(b)必然に対立する精神の自由、(c)権利上の自由、(d)事実上の自由、(e)身体の自由(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】

      「自由という名辞は甚だ曖昧です。権利上の自由もあれば事実上の自由もあります。権利上の見地からすれば、奴隷は自由ではないし、臣下が全面的に自由であるわけではないけれども、貧しき者も富める者と同程度に自由ではあるのです。事実上の自由は、意志する[欲する]事柄を為す力能ないし然るべく意志する[欲する]力能に存します。あなたが語っているのは為す自由で、それには程度と多様性があります。一般的に言えば、より多くの手段をもつ者が、意志する[欲する]事柄をより自由に為すのです。しかし自由は個別的には、私たちの思うままにできるのが常であるような諸事物の使用、特に私たちの身体の使用について理解されています。ですから、牢獄や病気は、私たちが意志して通常与えうる運動を身体や四肢に与えるのを妨げ、私たちの自由を奪い取るのです。そういうわけで、囚人は自由でないし、麻痺患者は自分の四肢を自由に使用できないのです。意志する自由はさらに二つの異なった意味に解されています。ひとつは、精神の不完全性ないし隷属に対立させる場合の自由。この不完全性ないし隷属は強要とか強制ではあるけれども、情念に由来するものがそうであるように内的なものです。もうひとつの意味は、自由を必然に対立させる場合に生じます。第一の意味では、ストア派の人々は賢者のみが自由だと言っていました。それに実際、強烈な情念にとらわれているときには、人は自由な精神をもっていません。そういうときは、然るべく意志すること、つまり必要とされる熟考をもって意志することができないからです。かくて、神のみが完全に自由であり、被造的精神は情念を超えている程度に応じて自由であるにすぎません。したがって、この自由はまさしく私たちの知性に関わっているのです。しかし、必然に対立する精神の自由は、知性と区別される限りでの裸の意志に関わっています。これが自由意志と呼ばれ、次のことに存します。すなわち、知性が意志に提示する最も強い諸理由ないし刻印でさえ意志の働きが偶然的であるのを妨げず、絶対的でいわば形而上学的な必然性を意志の働きに与えるわけではないと認めることです。確実で間違いのない仕方であっても、強いずに傾けるという仕方で、表象と理由が優位を占めるに応じて、知性は意志を決定しうる、と私が日頃から言っているのも、今述べたような意味においてです。」
      2022/01/08
    • 命題集 未来のための哲学講座さん
      自由意志の問題
      【運動における決定の根源的完全性と、魂における自由な決定の根源的完全性とが、いかに両立し、なおかつ魂における決定に、身体が依...
      自由意志の問題
      【運動における決定の根源的完全性と、魂における自由な決定の根源的完全性とが、いかに両立し、なおかつ魂における決定に、身体が依存するのか。この依存は、形而上学的依存である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】

      「運動においてもそうですが、思考の内には秩序と連結があります。なぜなら、一方は他方に完全に対応するからです。もっとも、運動における決定はそのままです。ところが思考する存在者においては、決定は自由である、つまり選択を伴っている。善や悪は思考する存在者を強いずに傾かせるのみです。というのも、魂は身体を表現する際に自分の完全性を保存するからです。それに、魂は非意志的活動において(よく考えてみると)身体に依存しているにもかかわらず、他の活動においては独立していて、まさに身体を魂自身に依存させるのです。しかしこの依存は形而上学的でしかなく、神が一方を規制するときに他方を顧慮するところに存する。言い換えれば、各々の根源的完全性に応じて一方よりも他方を神がいっそう多く顧慮するところに存するのです。これに対して自然学的依存は、一方がそれの依存する他方から受けとる直接的影響に存するでしょう。それに、非意志的思考が私たちにやってくる場合、一部分は私たちの感覚を刺激する諸対象によって外部から、また一部分は、先行の諸表象が残した(しばしば非可感的な)刻印のゆえに内部からきます。この先行の諸表象は活動を続け、新たにやってくるものと混ざりあう。この点で私たちは受動的であって、眠らずにいるときでさえ、夢の中と同様、呼び寄せられたわけでもないのにイメージが浮かんできます。(イメージということで私は、形の表現のみならず音声や他の可感的性質の表現をも含めて考えています)。ドイツ語ではそれを fliegende Gedanken 、つまり飛びまわっている思考と呼んでいます。それは私たちの思い通りにはならないし、そこには時として善良な人々に良心のためらいを抱かせるような馬鹿げたところ、決疑論者や教導者に試練を課すような馬鹿げたところがあります。幻燈の中で何かを回すとそれに応じて壁に図形が現われる。この思考はこうした幻燈の中で起ることと同じです。しかし私たちの精神は、再び現われる何らかのイメージを意識して「止まれ」と言いうるし、いわばそれを停止させることができます。さらに精神は、自分で然りと思う通りにある思考の進行に入っていき、それによって他の思考へと導かれるのです。けれども、これが当てはまるのは内的あるいは外的な印象が優勢でないときです。その点に関して人々は、気質によっても、また自らの行なった自己統制の訓練によっても著しく異なっているのは確かです。したがって、ある人が身をゆだねてしまう印象を別の人は克服しうるのです。」

      2022/01/08
    • 命題集 未来のための哲学講座さん
      個体
      【仮に、宇宙の別の場所か別の時に、この地球と全ての人々のコピーが存在したとしても、それは別の個体であり、異なる実体である。二つの完備な...
      個体
      【仮に、宇宙の別の場所か別の時に、この地球と全ての人々のコピーが存在したとしても、それは別の個体であり、異なる実体である。二つの完備な項は、決して相似にはならない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】


       「次に挙げるのはさらにいっそうふさわしい別の仮定です。すなわち、宇宙の別の場所か別の時に、私たちが住んでいるこの地球と見た目には少しも違わない天体があり、そこに住んでいる人間の各々は、それに対応する私たちの各々と見た目には少しも違わないことがありうる、という仮定です。かくて、同時に一億組以上の似かよった人物、つまり同一の現われと意識とをもった二人の人物の組があることになります。そして神は、精神だけであれ身体を伴ってであれ、精神が気づかぬうちにそれらを一方の天体から他方の天体へ転移させることができましょう。しかし、それら精神が転移されるにせよそのまま留めおかれるにせよ、その人格ないし自我について、あなたの側の著者たちによればどんな発言がなされるでしょうか。これらの天体の人々の意識や内的・外的な現われは区別できない以上、それらは二つの人格なのでしょうか、それとも同一人格なのでしょうか。確かに、神と諸精神なら、それも時間・場所の外的な隔たりや連関のみならず、二つの天体の人々には感覚できない内的な構成にさえ気づきうる諸精神であるならば、それらも識別できようというもの。けれども、あなた方の仮説によれば、ただ意志性だけが人物を識別するのであって、実体の実在的な同一性ないし差異性とか、他の人たちに現われるものさえ気にかける必要がないということです。ですから、似てはいるが言語に絶するほど互に隔たったそれら二つの天体に同時にいる二人の人物は、唯一人の同じ人物である、となぜ言えないのでしょうか。でもそれは明白な不合理です。自然的に発生しうる事柄について付言すれば、似かよった二つの天体と、その二つの天体にいる似かよった二つの魂は、一時的に似かよっているだけでしょう。なぜなら、個体的な差異がある以上、この差異は少なくとも非可感的な構成に存するのでなければならず、そうした構成は機が熟せば姿を現わすはずだからです。」
      2022/01/08
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著者プロフィール

ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716)
生涯ドイツの宮廷顧問官として治世に携わりつつ微積分や記号論理学の創始、計算機の発明、モナドの哲学…を展開。天才の時代の最も天才的な天才と呼ばれる。

「2019年 『ライプニッツ著作集 第Ⅰ期[1]論理学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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