- Amazon.co.jp ・本 (253ページ)
- / ISBN・EAN: 9784877581930
感想・レビュー・書評
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今回のシリーズでは、通常スポットが当たるほうとは逆の立場からみたケース(忠臣蔵、慶喜)について取り組まれており、興味深く読ませていただきました。歴史は基本的には勝者からの立場で書かれているので、言論の自由が確保されている現代においては、多くの角度から歴史の事件を見ることができ幸せな時代に生きることができていることを感謝しています。
男たちよ、立て!/尼将軍・北条政子の演説
・平安時代末の武士は、未開地を切り開いて農地を作っており、その農地を守るために一族郎党が結束して武士になった。武士は土地の権利を認めてもらうために、京都の朝廷や貴族に服従して、年貢・労力を提供する必要があった(p28)
・男女共同で働くという労働形態から見ると、家の中の男女の関係もかなり対等であった(p33)
・当時の武士階級の女性は、夫が死んだ後、家の中で非常に大きな権限を握った、後家は家父長権を代行することを認められていた(p50)
・北条政子の演説(承久3年5月)は、女性が演説をして男性武士が聞く、というはじめてのものであった(p57)
「脱盟者」たちの忠臣蔵/忠義か人情か、人生の選択の時
・大石内蔵助のもとに、お家再興のために働きたいという元赤穂浪士は120人に上った(p80)
・浅野内匠頭の弟の大学が広島藩にお預けと幕府の決定がくだり、浅野家再興の夢は絶たれたため、その4日後に討ち入り実行を決めた(p82)
・内蔵助に次ぐ奥野将監と同様の考え方を持っていた新藤源四郎、小山源五右衛門等の多くの承久武士が同盟を抜けていった(p85)
・百石扶持の中流家臣だった小山田症左衛門は、3両(30万円)の盗みを働いて逃亡して、同盟から脱退した(p92)
・内蔵助が最も信頼していた毛利小平太は、吉良邸の情報収集の役目をしていたが、直前になって脱退した(p96)
・浅野家の菩提寺である泉岳寺には、討ち入りに加わった47士及び、盟約の秘密を守るために自殺した萱野三平の合計48の墓がある(p105)
サムライ・福沢諭吉 アメリカに立つ!/咸臨丸サンフランシスコ入港の時
・幕府はアメリカと条約を結ぶために、首都ワシントンへ向かうときに、護衛として幕府の軍艦・咸臨丸をサンフランシスコへ派遣した、日本の侍が初めて正式に外国を訪れることを意味した(p123)
・咸臨丸の艦長である勝海舟以下、96人の日本人乗組員の他に、日本近海で遭難したブルック大尉率いる11名のアメリカ人水兵も乗り込んでいた(p131)
・嵐を乗り切ったブルック大尉の申し出により、勝艦長は、アメリカ人と協力して咸臨丸を動かすことを決断した(p134)
・同乗していた福沢諭吉は、アメリカ人は身分や階級によって職業が差別されないことを目の当たりにした(p139)
・初代大統領ワシントンの子孫が一市民として暮らしているアメリカをみて、諭吉は衝撃を受けた(p146)
将軍慶喜、最後の決断/幕末を動かした大阪城脱出
・慶応3年、歴史の火花が散った現場は、江戸ではなく関西(幕府が政権を朝廷に返上した京都、列強に貿易港を開いた兵庫、幕府がクーデター対応した大阪)であった(p161)
・慶喜は孝明天皇からの宣下を受ける形で、慶応2年(1866年)12月に将軍の座についた(p166)
・幕府は新潟と兵庫の開港も約束していたが、兵庫は京都に近いために天皇の強い反対を受けて開港できないままであった(p171)
・慶喜は大政奉還で政権を返上する姿勢を装う一方で、近代的な政治制度を取りいれて、実質的に自分の権力を維持する国家プランを練っていた(p178)
・兵庫開港金札により、兵庫港開港(慶応3年12月7日)による貿易で得られる利益を、幕府で独占しようとしていた(p183)
・岩倉具視たちは、12月9日にクーデターを断行、倒幕派が御所に突入、天皇の面前にでて王政復古の断行を奏上した(p184)
・同日の夜に、慶喜不在のままの小御所会議において、将軍慶喜の官位を奪い、領地200万石を取り上げて新政府の財源とすることを決定した(p185)
・クーデターから1週間後の12月16日に慶喜は大阪城に欧米6カ国の公使を招いて、クーデターの無効性を説き、国の代表は慶喜であることを説明、各公使も同意した(p189)
大衆の夢を形に/起業家・小林一三の挑戦
・一三は百貨店を家族で楽しめる娯楽の場所にすべく、食堂を(当時は社長室に使われていた)最上階である、最も見晴らしの良い場所に設置した(p234)
・昭和4年(1929)4月に大阪梅田に日本初のターミナルデパートが誕生した(p237)詳細をみるコメント0件をすべて表示