- Amazon.co.jp ・本 (253ページ)
- / ISBN・EAN: 9784877582791
感想・レビュー・書評
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今回の5つのエピソードで印象に残ったのは3番目のもので、家康と同盟を組んでいた信長が、3度目に家康から要請された「長篠の戦い」にて、武田氏の息の根を事実上止めた戦いをしたケースでした。
有名な戦いで負けた側の大将は軽んじられて伝えられることが多くありますが、長篠の戦いの武田勝頼もその一人だと思います。このエピソードでは、2度目に家康が要請した「高天神城の戦い」において、武田勝頼が父親の信玄でさえ奪取することのできなかった「高天神城」を攻略した勝頼の優秀さに触れて、それからくる奢りや油断が「長篠の戦い」の敗戦に繋がったと上手に解説されていたと思いました。
源義経、大水軍を奪いとれ!/壇ノ浦の戦い、奇跡の逆転劇
・平清盛が造影した厳島神社の、その壮麗で優美な社殿は、平氏の栄華の象徴でもあった(p29)
・平氏は源氏の一族である木曽義仲が京都に迫ってきたときに、幼い安徳天皇とともに、三種の神器(鏡・剣・勾玉)である天皇の権威を携えていた(p33)
・壇ノ浦の戦いにおいて、午後3時、潮の流れが西向きに転じて源氏が有利になったときに、平氏軍の主力だった阿波水軍(300そう)が寝返った(p52)
・関門海峡は巾の狭いところは700メートルしかなく、スエズ運河に似た機能(運河としての機能)を持っている、平氏は海峡を袋小路にして屋島に仁を構えると同時に、西側の彦島に本陣を築いていた(p56)
乱世を制するリーダーの条件/湊川の戦い 足利尊氏、苦悩の決断
・1331年、後醍醐天皇は、鎌倉幕府の衰えを知って、ふたたび政治の実権を朝廷に取り戻そうとして、各地の豪族を従えて立ち上がった、この知らせに対して鎌倉幕府は、朝廷軍討伐のために近畿に20万の軍勢(大将の一人として足利高氏)を贈った(p72)
・1333年、後醍醐天皇が隠岐を脱出して、楠木正成とともに再び倒幕の兵を上げた、高氏は幕府軍として参加したが、進軍の途中で幕府を打倒することを決意し、後醍醐天皇の勅命も得た(p76)
・何事も天皇自身で決断しようとして、自ら決すべきことが膨大になり、政権は行き詰っていった(p82)
・1335年に北条高時の遺児である時行が鎌倉幕府の復興を目指して鎌倉を占拠(中先代の乱)したのに対して尊氏は討伐に向ったが、その後に、自らを征夷大将軍と名乗って、天皇の許しを得ずに、武士たちに恩賞を与え始めた(p84)
・1336年2月に足利尊氏軍を破った朝廷軍を指揮していた楠木正成は、勝ったはずの朝廷軍の武士が敗れた尊氏のもとへ流れていく不思議な光景を見た(p92)
・乱世におけるリーダーに必要な資格要件とは、その時代が何を要求しているのかを、的確に判断すること(p95)
信長と家康、そして同盟は幻と消えた?/長篠の戦い、戦国を変えた両雄の決断
・桶狭間の戦いの2年後(1562)に、信長と家康間において同盟が結ばれた、強い後ろ盾が欲しい家康と、背後の守りを固めようとする信長の思いが一致した(p119)
・1570年に朝倉氏との戦いにおいて、信長が戦線をいち早く離脱したき、家康は事態が知らされていなかったので、戦場に取り残されて命からがら家康は逃げ帰った(p121)
・姉川の戦いにおいて、浅井軍の猛攻を受けた信長軍は、家康が敵の横腹をついた奇襲によって、大勝利を納めることができた(p122)
・三方原の戦いの家康からの要請において、信長が3000を送ってきた意味は、合計8000の兵による篭城によって、武田軍(2.5万)の攻撃を防ぐことであった(p133)
・高天神城の攻防戦において信長の援軍は落城までに間に合わなかったが、信長は家康をねぎらって莫大な黄金を与えた、家康は失いかけた信長の信頼を取り戻した(p140)
・長篠の戦いにおいて、信長が援軍をよこしたところで(武田の倍である3万)勝負は決まっていた(p149)
・家康自身は織田の一員として働いたが、国づくりは信長の天下布武でなく、武田路線(家臣の登用方法、治水等)を受け継いでいる(p150)
家康・天下を制した184通の書状/関ヶ原の合戦・知られざる情報工作
真田幸村、どん底からの挑戦/家康を追い詰めた伝説の名将
・秀頼から真田幸村におくった金銀(黄金200枚、銀30貫)は、現在価値で9億円、これをもとに雪村は数千もの家臣団を形成できた(p222、225)
・大阪夏の陣において、雪村がおとりになって正面攻撃、ひきつけている間に伏兵が本陣を奇襲して家康を狙う作戦であった(p236)
・幸村隊の最後の攻撃にて本陣のすぐ手前まで迫ったとき、旗本たちは逃げ出して、家康は自害を覚悟した(p238)
2010/08/22作成詳細をみるコメント0件をすべて表示