●内容
・昭和期の臨済僧の山田無文氏による平易な語り。
・禅とは何か?という問いを通じて、自己との向き合い方を語る。
・ 國貞文隆『社長の勉強法』にて言及。パーク・コーポレーション代表 井上英明(フラワーショップ) 愛読。
●引用
(禅)
・禅とは身体が坐ることじゃない、心が坐ることなのです。身体は入口です。施設にすぎません。
坐禅とは、
外、一切善悪の境界において、心念起こらざるを名づけて坐と為す。
内、自性を見て、動かざるを名づけて禅と為す。
と古人が定義しておられます。
客観の世界にどんな問題が起ころうが、心が乱れない、心がとらわれないことです。社会の景気がよかろうが悪かろうが、物があろうがなかろうが、しあわせになっても、不しあわせになっても、そういう境界のできごとには一切心が動じない。それが坐ということです。心が坐っておるのです。…坐と禅、いずれも身体の形をいってるんじゃない。坐禅というのは、どこまでも心の問題でなければならんと思うのです。
・悟りが開ければ、戒律などは自然に備わってくるものでなければならん。仏心がわかるならば、欲望などあっても邪魔にはならん。むしろ欲望をもつ主体の実相を自覚するなら、煩悩のあるままでよいということになるのです。無明の実相、煩悩の実態を突き詰めていけば、それがそのまま仏性だということがわかるからです。煩悩即菩提であります。
性欲があって結構。子孫を増やすための本能だ。どんな欲望であっても断ち切ることはない。ただ、その欲望に使われず、とらわれないで、欲望そのままが仏心だということを自覚せにゃならんということです。
(自己)
・自己を知るとは、自我以前、個性以前、知識以前、経験以前の純粋な人間性を自覚することであります。そして、そういう真実の自己、心の心理を発見していくことが仏道でなければならん。だから次に、「自己をならふとは、自己をわするるなり」と、道元禅師は解明しておられます。
●読書の展開
・『無門関』『碧巌録』