自決とは何か: ナショナリズムからエスニック粉争へ (刀水歴史全書 27)

  • 刀水書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (318ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784887080959

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  •  国際政治で取り上げられる非常に古く、そして新しい問題として民族やエスニックを巡る対立や闘争、自決などという問題がある。

     少なくとも国際政治とは、こうした国家と民族を取り巻く諸問題によって歴史を形成し、今日まで来たといって過言ではない。第一次紛争の発端となったオーストリア皇太子殺害はボスニア居住のセルビア人青年によるボスニアのオーストリア・ハンガリーからの「解放闘争」でもあり、この国家の解体と構築を巡る闘争は、1990年代に旧ユーゴの民族紛争として再び頭をもたげる事になる。

     またサラエヴォ事件の後、始まった第一次世界大戦の過程でイギリスが締結したフセイン・マクマホン協定やバルフォア宣言は、今日に至るまで民族と国家を巡る問題を残した。そして、レーニンの民族自決の概念は、ロシア帝国領土で様々な関係主体のロシア帝国及び革命政権からの離反の動きと民族独立闘争を齎したが、これを受けてソ連の民族政策を主導したスターリンは、ソ連解体に至るまで存続した多民族連邦国家の枠組みで解体後の民族問題を醸成した。これらの問題は、今日に至っても、2008年のロシア・グルジア戦争で見られたように表出している。

     そして、世界各国で広まった第二次大戦後から60年代にわたる植民地解放闘争は、民族と国家を巡る問題を、共産主義革命による階級統合や宗主国に対するナショナリズムと国民統合で改善し、アフリカやアジアなどで国家の独立を達成したかに見えたが、その後もキプロスやブーゲンヴィル、スリランカ、ソマリア、エリトリアなどと言うように民族と国家、あるいは自決という問題を表出し続けた。そして今日、中東や北部アフリカで見られる権威主義的体制の揺らぎとそれに伴って生じた強力な民族と国家の統合力のゆらぎは、下位民族や部族などという集団間の自決を求める声となり、当該国家と傍観する国際社会に新しい問題を提起している。

     このように民族やエスニシティをめぐる自決や国家形成の問題は、古くて新しい問題である。本書は、こうした問題に対し、エスニシティは、生来的なものではなく、他者の認知よって獲得及び与えられ、そして時にアイデンティティは重複し、集団を形成するという構成主義的視座に立っている。原著が書かれた頃には、こうしたエスニシティへの構成主義的、機能主義的理解は、広がりつつあったと考えられるが、本書も同時代的にこうした視点を持った論者による本である。

     本書の主張で面白かったのは、エスニックなアイデンティティとその政治的動員、あるいは運動の展開についての理解である。彼は、国家が解体、あるいは分解へと向かう、またはそうした勢力が現れるのは、多くの人々が常時あるべき物質や事由への希求に国家が応えられなくなっていると感じている時であるという。こうした状況下で国家と自らが対立している場合に、エスニックなアイデンティティが力の結集に都合良く役立つものとして認識されるという。この意味において、エスニックなアイデンティティは再生したのではなく、その政治的役割がアイデンティティの糾合に有利なものとして登場しているとしている。これによつて政治の中央への挑戦が生じているとの見方である。この見方は、例えば本質的に異なる民族やエスニック集団がこうした相違に基づく対立を形成してきたの見方、あるいは文明・宗教的の相違によって対立がずっと続いて来たという見方に否定である。

     もう一つ興味深いのは、人々はなぜ動員されるのか、または自ら運動に参加するのかという問いである。本書の著者は、これは体制内の支配者と被支配者間の差別や格差などだけではなくて、被支配者がこうした明確な理解を越えた抽象的な希求(例えば、豊かな生活とか自由な権利、より良い環境)などというものをラジオ、テレビ、その他のコミュニケーション手段等と通して獲得する事によって表出してくるという。

     例えば、人口の2割を占める民族集団Aが、人口の5割を占める民族集団Bによって運営されている国家からの独立を求める場合を想定してみよう。この場合、Aが例えBよりも経済的に豊かでも、あるいは比較的政治参加が認められていても、逆に独立する事でAが被って来た逆差別的待遇や経済的援助を失っても、独立を主張する行動が世論によって理解されている場合を想定してみる。この場合、ローネンの理解を活用すれば、もはや大衆は、体制内部の利益の分配などを問題にしているのではなく、体制外部に目を向けた時に認識される問題、つまり他国の人々が享受している抽象的な「豊かさ」や「事由」を自分たちが享受出来ていないという事を問題にしているのであり、その理由を現体制に求めている事になる。

     この理解は、大変興味深い。なぜならば、仮に体制内部である程度の利益分配を行い、少数派への配慮を見せても、これは何ら問題を解決する事にならないという状況も生じうる可能性を提示するからである。この場合、少数派及びその集団の構成員は、問題を体制内部におけるものだけではなく、体制外部に存在するように思われる抽象的な価値や希求と結合する、そして、例えそれが現実には獲得が困難なものでも、少数派は団結し、中央政府に強い抵抗力を獲得する事が出来る。しかし、ここで問題なのは、結果として生じた新たらしい国家でこうした抽象的希求が必ずしも獲得出来るという保証がないこと、さらには最悪の場合、現状よりもより一層苦難の道を歩む可能性もある事である。

     また抽象的希求が、間接的脅迫や脅威とともに結合されればどうだろうか?問題への責任転嫁を特定の民族に、あるいは特定の政治集団になどというように選定し、そこに彼らが革命を起こそうとしているとか、A民族がB民族を虐殺しているとか、レイプを行っているとかである。

     こうした戦術は、旧ユーゴのボスニア紛争やアフリカのルワンダ、ソマリア、スーダン、ダルフールなど様々なところで見られたわけだが、評者は今まである種の疑問を抱いて来た。それは、虐殺に動員された人々が、無邪気にもこうした動員の際の宣伝を信じ、進んで行動を起こしてしまったのはなぜかという疑問である。これに対する回答の一つは、戦争状態における精神的緊張や、例え最初が誤報であっても、人々がそれを信じれば事実となる事、そしてそう信じて一人でも報復をすれば、その瞬間からこれは真実として広く人々に認知される事などといった理由があるだろう。

     他方で、「こうした人々がいる」と多くの人々が認識したとしても、そうした敵対勢力を排除する為に過剰なまでの行動を膨大な数の人々が進んで行うという行為は、必ずしも上記理解では回答出来ない場合も多い。しかし、もし、こうした人々の大規模な動員の背景に、彼らの抽象的な希求が前提としてあって、その障害物として特定集団がいると動員する側に刷り込まれ、且つ彼らの脅威の誇張や恐怖心を植え付ける事で人々の残虐行為を実現足らしめたとすれば、これは恐ろしい戦術である。

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