場所 (フィクションのエル・ドラード)

  • 水声社
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  • Amazon.co.jp ・本 (179ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784891769635

作品紹介・あらすじ

目が覚めると、そこは見知らぬ場所だった…見ず知らずの部屋で目覚めた男は、そこから脱出しようと試みるも、ドアの先にはまた見知らぬ部屋があるばかり。食事もあり、ベットもあり、ときに言葉の通じない人間とも出逢う迷宮のような"場所"を彷徨するうちに、男は悪夢のような数々の場面に立ち会ってゆく…「集合的無意識」に触発された夢幻的な世界を描き、カルト的な人気を誇るウルグアイの異才レブレーロの代表作。

感想・レビュー・書評

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  • ドアを開けると部屋が現れ、もと来たドアは閉ざされる。開けたドアの先には同じような部屋が現れ、その先のドアを開けると再び同じような部屋が現れる...。男はなぜこの場に自分が居るのかは心当たりがない。

    いわゆるカフカ的状況。
    本家カフカと本作では、銃声と爆発音の多さの点で異なるが、圧の強さ、人間存在の心もとなさが描かれる点でカフカ的である。このあたり、時代も民族の垣根も飛び越えている。

    マリオ・レブレーロという作家はまったく知らなかったが、寡作であり、存命ではないとのこと。水声社による「フィクションのエルドラード」。既知の人気作家に頼らない、ほとんど「蛮勇」と言ってよい、秀逸なシリーズ。

  • 「いったい何のために?」

    じぶんだったらどうするだろう。そんなふうに、わたしも手探りで、このわけのわからない 場所 をめぐっていた。もう、誰にも遭ってほしくないな、という願いは、まちがっていなかったようにおもう。(あとがきで作者は、「無理に続きを書いた」って。)
    孤独は、"世界に私が所有するもののすべて、決して振り払うことのできない運命のように授けられた忠実な同伴者" だから。
    どんな運命であろうと、ひとはその歩みをたどり、じぶんの人生からは逃れられやしないのに、何処にいたって満足することはない。じぶんじしんを余所者にするかぎり。そんな残酷で忠実な真実みたい。
    それでまた結局、"答えはまったく出てこない" 、な堂々巡り。遺ったのは、癒えた旧い傷痕。


    「臆病風もあり、好奇心もあり、いつももう少し生き延びる道を選択してきたのだ。」


  • ウルグアイの作家。寺尾氏曰く、オネッティ、エルナンデスと「ウルグアイの三奇人」らしい。クロスワード作成もしていたらしい。
    「都市」「パリ」「場所」の三作を「意図せぬ三部作」と作者当人が名付けている。カフカという祖から、安部公房とレブレーロが引き継いでいる、と寺尾氏。

    前に読んだヤーン「鉛の夜」に似た、普通に都市生活をしていた「私」が、なんだかわからないけれど暗い異世界にいる、という始まり。「鉛の夜」は主に外を歩くが、こちらは部屋から部屋への直接連鎖をひたすら進む屋内編。
     後戻りする気などまったくなかったが、それでも、前にしか進めないと考えると恐ろしかった。そこから先は、ドアを閉めないよう細心の注意を払った。とはいえ、すでに二つの部屋のドアを閉めてしまったことを振り返ると、重要なものを失ったような気がしてならなかった。
    (p19)
    部屋から部屋へ進むにつれ、明らかに部屋は劣化し、最後は漏れた水と瓦礫でドアが開かなくなるまでになる。そこで何か別のドアを見つけて開ける、ところで第一部が終わる。そういう流れの中、マベルという女とトンネルを通って、コンクリート壁に挟まれた海に行くところが印象的な間奏曲。

    さて、最後のドアを開けて、何かの「中庭」に出る。ここで様々な人達が、「私」と同じように穴などから出てきて一種の共同生活をするのが第二部。「デカメロン」のように何かから避難(第三部の都市の騒擾から、とも思えてくる)してきた人々が集うヴィラのようにも、またコルタサル「南部高速道路」のような束の間形成された原始共同体のようにも思える。
     俺の見るところ、雲か何か、よくわからないけど、そんな特別な物質があって、俺たちはそれに触れられたか包まれたかしているんだと思う。その物質が俺たちの望みや恐怖を形にするんだ。面白いのは、みんなそれぞれ、ここの到着の仕方は様々なのに、それが一人ひとりの人格に対応しているように思えることさ
    (p106)
    この小説を形作る原動力が、パスカルのいう(って、本当にそんな言葉あるのか)「この世の悲劇は、常に自分の部屋から出たいというところから始まる」というところにあるとすれば、上の文の「物質」は変革欲求とでもいえるものなのか。小説内によく出てくる「閉所恐怖症」というのもその文脈で説明できる。
     この場所、君の言う中庭が、実は集団的創造物かもしれない。みんなで集まらねばならないという必要から生まれたのかもしれない
    (p120)
    「みんなで集まらねばならない必要」とは何なのだろうか。解説ではユングを挙げていたけれど。
    結局「私」は、この原始共同体を離れ去ることにする。それにアリシアと子供(何処かからついてきた子供という)がついてくる。やがて農村の一軒にたどり着き、そこで三人の生活が始まるが、「私」には、この生活も、第一部のドアからドアへの連鎖が家から家への連鎖になっているだけと思えてくる。
     実際には、頭が真っ白になっているか、あるいは、自分の意識と関係なく勝手に動いているだけで、どちらにしても私自身は蚊帳の外だった。
    (p141-142)
    自分とは何なのか。ここでは、とにかくここから出たいという欲求(パスカルのいう「悲劇の始まり」)そのものでしかない、と考えておこう。
    アリシアが連れてきた子供は、最初は全く別の言語を話していたが、この生活が進むにつれ、アリシアと子供はこの未知言語で話し始め、この言葉が終始わからなかった「私」は、この生活とも別れることにする。

    そして第三部。農村はやがて都市になり、ほとんど言語がわからないまま都市の騒擾に巻き込まれる(この辺「エペペ」を連想する)、「モンゴロイド」五人組にリンチを受けたり(ひょっとしたら何かの手術が幻想的体験として描かれているのかも)、巨体の娼婦にがんじがらめにされたり。
    最後は瓦礫に捨てられ、何とか出口にたどり着く(ここ第一部冒頭と呼応している)と、元々生活していた都市に戻っていた。自分の部屋に戻って(荒らされていたり、水が漏っていたりと、なんと第一部の「部屋」に相似していることか)、これまでもずっと書き続けていたこの記録をまた書き続ける、そして、書くのが止まらなくなるという。
     どうしたことか、私の記憶はあの場所で強いられた冒険へ何度も執拗に戻っていく。
     通らなかったトンネル、開けなかったドア、覚えなかった言葉、友情を結ぶには至らなかった人々、愛することも知り合うこともなかった女たち。
    (p166)
    自分としては特に、第一部の海辺にあった他のトンネルがとても気になる…
     実は私にとって、私は余所者なのだ。この街、この家、あの場所、あの密林やトンネルと同じく、他人なのだ。余所者は私だったのだ。
    (p167)
    自分も含め、これに首肯する人は多いのではないだろうか。

  • 前に進んでいるのか、逃げているだけなのか。
    誰も自分の部屋にずっと籠ってはいられない、という部分が印象に残った。選択が正しいのか間違いなのか、後からしか考えられないから、人生は難しい。

  • フィクションのエルドラドと言われると、たくましい想像力、豊かな表現を連想するが、どちらかというと、人工的な感じの作品だ。
    パズルの制作も手がけるという作者は、創造においても辻褄を合わせてしまうのか?
    目覚めると見知らぬ場所にいて、行っても行っても部屋ばかりという、不条理小説に向かって、辻褄があっているというのは、おかしな言い掛かりと言われそうだ。しかし、この作品の世界は、不条理の在り方が整然としていて、驚くべきことは起こらない。
    多分、この人の他の作品を読むことは無さそう。

  • 面白かった

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