長崎 (フィクションの楽しみ)

  • 水声社
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感想 : 8
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  • Amazon.co.jp ・本 (142ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784891769888

作品紹介・あらすじ

侵入した女は何者なのか-実際に起きた出来事を題材として、現代社会の孤独を描きだす、気鋭の著者の意欲作。

感想・レビュー・書評

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  • 実際にあった話を題材にしているらしい。全体的に映画ような雰囲気。おしゃれでアンニョイな感じが不思議。醸し出されるフランス映画感。

  • フランスの人が日本の新聞見て、興味が湧いた事件を見つけ触発され、日本を舞台とした小説書いてみました。

    駄目じゃないのよ嫌いじゃないのよ。

    でも、やっぱり不必要にオシャレアンニュイ。

    数年前に黒人歌手ジェロが演歌歌っていたが。

    やっぱり日本のオサーンオバハーンとしては吉幾三に癒される訳でして、ジェロに出雲崎来られても(歌詞より)バチャーン達は「ひい聖書買わないわよ!」となる訳で。

    あのー、本はとても面白いので、他に出てる作品も読んでみたいと思います。

  • 【2017年度前期月曜4限「文学入門」のレポート課題として】
    エリック・ファーユ『長崎』(水声社、2013)における出島としての冷蔵庫についての考察

     訳者あとがきでも言及されているように、この小説には多くの「開口部」の比喩が散りばめられている。外に向かって開け、絶えず交流や衝突が起きている「開口部」と、その対置として内部だと我々が思い込んでいる場所が様々な形をとって存在している。そのうえ、内部「長崎」と開口部「出島」の関係と同様の関係―例えば日本と長崎、長崎と主人公の男の家、男の家と女が隠れていた押入れ、さらにはこの世界と個人、女の心情と手紙など―が次々と入れ子構造になって作品を支えている。私はこの繰り返されている関係の中で、男の家と冷蔵庫という切り口から考察してみようと思う。
     まず、冷蔵庫についてはp14に「冷蔵庫の内部は、私の未来をたえず再開しつづけるための母胎のようなものだ。そこにはナスやマンゴージュースなどといった形のもとで、来るべき日にわたしにエネルギーを与えてくれる分子が待ちうけていたのだ。わたしの微生物も、わたしの毒素も、わたしの明日のたんぱく質もすべてこの冷たい控えの間で辛抱強く待っていたのだ。」と書かれている。つまり、今は外部に存在しているが、将来的に‘わたし‘の内部に取り込まれ、‘わたし‘を構成することになる物質の一時的な保管庫が冷蔵庫だということになる。また、冷蔵庫は同時にマルチビタミン・フルーツジュースの残量を確認することで男が女の侵入を最初にみとめた場所でもある。
     次に、本文で述べられているところの「出島」について考えてみようと思う。p67に書かれた出島に対する男の考えをまとめると、以下のようになる。
     ・外国人だけが(出島に)閉じ込められていた。
     ・(家の)一番端にある押入れ
     ・技術、アイディア、知識が(日本と外国の)双方向に通過(していった場所)
     私はこれらの作品内での言及から、冷蔵庫もまた男の家という「長崎」に対する「出島」としての役割を果たしているのではないかと考えた。そのように考える根拠は2点ある。第一に、冷蔵庫はあらゆる外来物が買い物のたびに侵入してきては、料理をしたりそれらをそのまま食べたりすることで出ていく場所であるという点である。実は家の中で最も多くの来客を迎えるせわしない場所だとも言い換えることができる。そこには一時的に食材が閉じ込められ、食事という決まった時間にだけ冷蔵庫内部と外部を仕切る重たい扉が開けられる。これは江戸時代に外国商人を留め置いて監視下に置き、普段は日本の内地との交流を厳重に禁止しており、人間は互いに交流することなく物品と情報だけが日本の内部へ取り込まれたという構造によく似ている。また、この構造に則って視点を変えれば、男は江戸幕府の役人(長崎奉行など)であり、女はその厳しいはずの監視の目から漏れていた密入国者ということもできるであろう。だから、p14にあるように、「見知らぬ者の手が将来わたしがなるであろうものを無作為の天引きによって侵犯していると考えたとき、わたしの存在のもっとも深いところが混乱をきたした。」と作者は男に語らせたのではないか。さしずめフェートン号事件のような衝撃であっただろう。侵入を許されないものが勝手に我が物顔で入り込み、その場所を荒らし、食料をくすねて立ち去っていく。平素は積み荷のことに気を配り、管理下にあると確信していたものに勝手に手を付けられ、それが予期せぬ外部に流出していると知った時の不快感は男と長崎奉行松平康英とで重なり合っているだろう。第二に、冷蔵庫もまた「私」という「鎖国」の入り口であるという点である。p14で述べられているように、冷蔵庫の中には私の身体を将来的に構成するものが留め置かれている。国内にありながら海外からの荷物を揚陸し保管して、流通させていた出島と同様にして。そして、私は私の身体を内部だと思い込み、(消化・発声器官としての)口を外部すなわち対物質・対人間双方との交流機関だとみなしている。また冷蔵庫を物質の入り口とみなすと同時に、家の内部に設置された家電製品だとみなしている。しかし、私の身体も家も江戸時代の日本も、本当に「内部」などと呼ぶことのできるものであったのだろうか。口、冷蔵庫、出島を「入り口」という言葉を用いて表現してやることでさえも気休めであったのではないだろうか。それらはすべて「外部」であったのだ。閉ざしていると妄信して安心していただけであったのだ。私の身体は、福岡伸一『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』(木楽舎、2009、p232)によれば「「通り過ぎつつある」分子が、一時的に形作っているにすぎない」ものであり、家も女の闖入を許可し、物質・空気・様々な情報が絶え間なく流れ込む場所という外部同然の存在であり、江戸時代の日本は「鎖国」という表現がなされていても、実際は限られた入り口からではあるが外部との交渉は盛んにおこなわれており、海という帳をひとたび上げてしまえばどんな異物の闖入も完全に防ぐことはできないという脆弱性を孕んだ場所であった。また、その三か所には自分が忘れて思い出せなくなっているもの、前の所有者、歴史という異物の記憶の堆積物が累々と積み重なっている。
    だから、男はp105「もう自分の家にいる気がしない」のではないか。どこにも明確な根拠をもって内部と呼ぶことのできるものは存在しないのだという焦燥感、内部だと思い込み、そこにいることで安心していたものが実は外部であったことに気づいてしまったときの気持ち悪さ、不安感、孤独感を抱え込むことしかできない。そして静かに退居していく。
    以上のように考察を行い、私は本文では言及されていないものの冷蔵庫もこの作品において「出島」の役割を果たしているのではないかと考えた。巧妙な作為、「長崎―出島」構造の繰り返しが冷蔵庫という何気ない日常物にまで仕込まれていくことで、一見わかりにくくなりながら美しく流れ、紡がれ、作品が織り合わされている。

    【参考文献】
    片桐一男『開かれた鎖国 長崎出島の人・物・情報』(講談社、1997)
    同『それでも江戸は鎖国だったのか オランダ宿 日本橋長崎屋』(吉川弘文館、2008)

  • 自分の家に、誰かいる。
    最初、単なる男の幻想かと思っていたんだけど、え、本当にいたよ…。ということが明らかになります。男の設置した監視カメラのおかげで。

    知らぬ間に女が自分の家の押し入れに住んでいた。しかも一年近く知らずにいた。
    本当にあった事件をもとにしているらしい。

    不在、見る・見られる、見ている現実とは異なるもうひとつの現実。

    スリリングな内容もそうだが、この作品で面白いのは、なぜ長崎?ってことと、フランス人が書いているってこと、そして語りの視点がころころ変わること。静かな、抑制した声で語りつづられる映画みたいなイメージ。

    古本屋さんで昔見つけて、高かったので買わずにいたのをようやく図書館で借りてきて読みました。

  • あんなにミステリアスで興味深い話も、フランス人が書くとこうなっちゃうんだ…残念

  • 自分の留守中に、家の中のものがほんの少し変わっている。冷蔵庫の中の飲み物が、ほんの少し2cmくらい減っている。不安を感じ、カメラをセットし職場のPCで仕事の合間に観察していると、知らない女がカメラをよぎる。
    なかなかの発想、と思いきや新聞に掲載されていた本当にあった記事にインスパオアされた小説。
    知らない間に家に住みつかれていた主人公に、住みついていた女から手紙が届く。

    なかなか面白かった。

  • 11月1日(金) エリック・ファーユさんトークイベント 『長崎』(水声社)刊行記念

    実際に起きた出来事を題材とし、長崎を舞台とする異色の現代フランス文学が、9月下旬に水声社より刊行されました。その名も『長崎』。原書は2010年にアカデミー・フランセーズ小説大賞を受賞し、フランスでは30万部をこえるベストセラーとなった作品です。作者のエリック・ファーユさんは日本ではまだほとんど知られていませんが、大の日本びいき。『長崎』でも、有明海の風景や、市街を走る路面電車、番茶からコンビニ弁当まで、さまざまなギミックが駆使され、記者出身の小説家ならではの綿密な取材にもとづく、リアルだけれどちょっと奇妙な小説世界が展開されています。今回は訳者の松田浩則さんに聞き手と通訳をつとめていただき、『長崎』誕生の舞台裏、フランス人にとっての日本のイメージ、これからの文学のありかたなどについて、フランスの小説家としての視点から語っていただきます。トークイベント参加チケットご希望の方はリブロ池袋本店書籍館地下1階リファレンスカウンターにてお求め下さい。

    日時:11月1日(金) 午後7時~
    会場:西武池袋本店別館9階池袋コミュニティ・カレッジ28番教室
    参加チケット:1000円(税込)
    チケット販売場所:西武池袋本店書籍館地下1階リブロリファレンスカウンター
    お問合せ:リブロ池袋本店 03-5949-2910

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著者プロフィール

1963年、リモージュ(フランス)に生まれる。エコール・シュペリユール・ド・ジュルナリスム(リール)に学ぶ。ロイター通信の記者として勤務しながら、1990年より創作活動に入る。主な著書に、『わたしは灯台守』(Je suis le gardien du phare,1997. 邦訳、水声社、2014年)、『痕跡のない男』(L’Homme sans empreintes,2008)、『長崎』(Nagasaki,2010. 邦訳、水声社、2013年)、『不滅になって、そして死ぬ』(Devenir immortel,et puis mourir,2012)、『みどりの国 滞在日記』(Malgré Fukushima,2014. 邦訳、水声社、2014年)、『エクリプス』(Éclipses japonaises, 2016. 邦訳、水声社、2016年)などがある。

「2022年 『プラハのショパン』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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