これは――『学校であった怖い話』という物語の原型(プロトタイプ)。
SFC用ゲームソフトにして名作ホラー『学校であった怖い話』と同年同月に発売された同名の小説版になります。
時間軸からわかる通り、ゲーム用に原作者「飯島健男(現:飯島多紀哉)」氏自らが手掛けたシナリオ・プロットの内、版元・発売元のバンプレストからGOサインが下りなかったものを主として使用しています。
よって全体の流れとしてはノベライズらしくゲームにならったものになっていますが、内容としてはオリジナル。
すなわち新聞部の新入部員にして主人公「坂上修一」が先輩から「七不思議の集会」の進行役を仰せつかるオープニングパート、および「七人」でなく一人欠いた「六人」の語り部が一話ずつ怖い話を語ってくるパート――。
そして「学校の七不思議」が完成せずに不穏な心境を抱えたまま帰宅した主人公に満を持して襲い掛かる「七不思議の七番目」。実体験系の怖い話をもって締めくくるわけです。
上下巻に分冊されたここ上巻では四話までを収録する構成になっています。文庫本らしく約十万字、上下巻合わせて七話で二十万字と考えれば五十話で百万字のゲームソフトより単純平均で1.4倍と密度は上ですね。
さて、本題に入る前に少し長く前置きを置かせていただきますね。
まず『学校であった怖い話(略称:学怖)』なるシリーズは発売当初の売れ行きは芳しくなかったものの、口コミなどによるジワ売れやインターネットの時流に乗って長く愛されるコンテンツに育ったという事情があります。
すなわちリメイク版を除き、ゲーム本体は安価で入手こそ難しくはなかったものの攻略本をはじめとした周辺書籍は中古市場でも高騰化が避けられなかった事情があります。
出版社との兼ね合いもあって普通なら再販の機会に恵まれない以上、時間が経ってから再評価された作品(+周辺作品)のコレクターアイテム化が避けられないのは世の常でしょう。
一時期はユーザーの数に比してここ小説版の内容を知っている割合すら低かったのです。
ゲームの飾り気のないパッケージを踏襲したためかはいざ知らず、この小説版自体の売れ行きも芳しくなかったという筆者の表現も得られていますし。
次の言葉とは矛盾するようですが、ゲームとは違った癖の強い展開は人を選ぶ面もあったのかもしれません。
しかしユーザーの要望に応え、十二年後から原作者である飯島氏の手によって『アパシー』という冠題と『Visual novel version(VNV)』という形容が付く各種PC向け同人ゲームとして移植・リリースされたことを興りに本作は雄飛を見せます。
その後の多岐にわたる展開についての説明は省くとして。
ゲームとして遊べばまた違った読書感覚が味わえると思いますがそちらについては別途、当該作品のレビューで述べさせていただきました。よってこの場では省略させていただきます、ご容赦ください。
ちなみに原本となるこの小説と、その後の各種移植版は本当に微細な差ですが違いは存在します。漢字の表記や言い回しの違いを数点発見できる程度ですので流石に気にされる方はいないでしょうが一応指摘しておきます。
横書き表記になっていますが、2020年7月現在Kindleで一話ごとの単独配信もされているので内容を知るだけなら割と手軽かつ安価に入手可能になっています。
本書に関しても価格の過度の高騰は避けられた感があるので、一ファンとしては嬉しい限りです。
あと、あくまで紙の本として手元に置きたいという方向けにもうひとつ選択肢を提示するとすれば……。
原作者主導の同人サークル「七転び八転がり」から自費出版版『アパシー 学校であった怖い話1995』なるタイトルで上下合巻の同人誌が出ています。
そちらの挿画は『アパシー 鳴神学園都市伝説探偵局』でキャラクターデザインを務めた「尚親」氏が手掛けていますが、後続のイラストレーターさんのキャラクターデザインを踏襲し、場面のセレクトもキャラクターに注目したものになっているので比較して楽しむのもアリかもしれません。
あらすじや各種感想についてはKindle版などで先述させていただきました。ふたたび割愛させていただきます。
前置きはここまでとして、本作の特色をここでも軽く触れることにいたしましょう。すなわちゲームで取り扱うには過激とされた題材の数々です。
欠損に代表される残虐描写をはじめ、同性愛や宗教などをゲームで取り扱うことの是非についてここで論じることはしません。ただし、CEROなどのレーティング審査機構が未整備であった当時であればなおさらなのか、発売元のバンプレストの意向に振り回された旨が最近の原作者の口から語られています。
おそらく現状であっても本作のシナリオをゲームの一般流通に乗せるとすれば「D(R指定一歩手前)」以上は避けられないでしょう。
この小説の挿絵自体はそう過激ではないのですけれどね。
それではレビューの一助を兼ねて、上巻の挿絵について軽く言及してみます。
挿画を担当されたのは『学怖』を制作したソフトハウス「パンドラボックス」にも当時籍を置いていた「南部佳江(現:南風麗魔)」氏。デジタル画が主流の現在の作風とは異なり、アナログのペン画となっています。
『高木ババア』
ボロボロの服を着て公園の方を見る高木ババアの一点。
『ゲーマーの条件』
即売会の会場で下を向いて佇む謎の男、ナイフ片手に消えていく赤川君の二点。
『あなたは幸せですか?』
シャンプー片手に踊る女生徒たち、餓鬼さながらに変わり果てた野沢さんとその手を取る医者の二点。
『かぐわしきにおひ』
大川登場、上履きを手に陶然とする大川、ステレオタイプな悪魔の手がにゅっと突き出される召喚風景の三点。
以上八点です。
印象的な情景描写が多めであまりキャラクターに注目した構図は見られません。
発売当初は怖い話を語る主体としての「語り部」のキャラクターより、語られる「怖い話」を客体として捉えてその雰囲気を盛り上げる方に注目されていたのかもしれません。
特に『かぐわしきにおひ』に関しては話の中で受難に巻き込まれる焦点として描かれる「綾小路(後の人気キャラ)」より話の中で描かれる理不尽さ、不快さの象徴である「大川」を気持ち悪くする方が重要というのもわかりますから。
ゲームではやらなかったやたら長い話を割り当てられた風間さんの手番だから、と言えるのかもしれませんが。
それと、バストアップの実写グラフィックを必要に応じて引き出せるゲームと、要所でイラストの効果を引き出す小説では媒体の違いがあっていいともいえるわけです。
キャラクターに頼らない禍々しさはゲームに続いてしっかり引き出せていると思います。
あとは文体に話を飛ばすと先に挙げた描写密度の差も挙げられるでしょう。
選択肢によって展開が変わる分岐型ゲームはテンポや執筆側の負担の問題から何十万ワードと謳ったところで、どうしても個々の展開と結末についてプレイヤーが抱く感想は分割される傾向にあります。
その点、ここ小説版は一切の分割のない通しの一本道です。
微に入り細を穿つようなえげつない描写を延々と続けて、作者の狙った反応を引き出すことができるのでしょう。
おそらく何のしがらみもなければ『学怖』は製品版と比べてえげつなさが増して、もう少し重めの作品になっていたのかもしれません。
それと上記に挙げた規制問題に加えて、ROMカセットがゲームの記録媒体だった当時は容量の問題もありました。結果として生まれた、描写を省くことでテンポよく読み進めることが出来た個々のシナリオと、ゲームプレイの履歴を積み重ねていく当時の感覚は捨てがたいと思いますが……。
一方で、昨今の原作者が世に送り出される、平易でありながら描写密度の高めな作風に関して私は大いに感嘆する次第であったりもします。
そう言った面ではゲームと小説の媒体(メディア)の違いと、その媒体の両方の良いところ取りを狙って変化していった作風の汽水域であり源流として本作を定義することが出来るかもしれません。
2020年をもって二十五周年を迎える『学怖』の流れだなどと、少々仰々しいことを言ってしまいますがお許しください。作品を取り巻く時代の感覚(時代性)というのはいささか感傷的な概念で、とても客観的とは言い難いのですが……。
簡素でそっけない、こちら側を突き放したかのようなパッケージング。
それを引き継ぎ、これからこの作品がどういった運命をたどるか知ってか知らずか素知らぬ顔で在り続けるような――この作品のことが一ファンとしていとおしく、手放しがたいものであることは確かです。
パッケージングを変えて再度、二度三度世に出る機会に恵まれたとしてもはじめて世に出たってのはやはり特別ですね。以上。
まだなんとか、いつも通りの「七不思議の集会」と言い張れるかもしれない前半部のレビューをお送りしました。
続いては「下巻」。
熱心なファンの間でも評価や見解が揺らぐ傾向にある後半部ですが、その辺をお話できればと思います。
それでは。