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- / ISBN・EAN: 4988102906016
感想・レビュー・書評
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内容(「Oricon」データベースより)
1999年4月20日、コロラド州リトルトンのコロンバイン高校で起きた、少年二人による銃乱射事件を機に見えたアメリカ銃社会の現状。なぜ銃を捨てる事ができないのか? そんな根本的な問いに“マイケル・ムーア”が自慢の突撃取材でタブーとされてきた銃社会アメリカの病理を暴く!
(Wikipediaより)
本作は主にコロンバイン高校銃乱射事件の被害者、犯人が心酔していた歌手のマリリン・マンソンや全米ライフル協会(NRA)会長(当時)のチャールトン・ヘストン、『サウスパーク』の制作者マット・ストーン、オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件の関係者、フリント小学校の銃撃事件の関係者、コロンバイン市民らへのインタビューなどを中心に構成されている。
作品中でムーアは、事件の被害者を伴ってアメリカ第2の大手スーパーマーケット・チェーンストアであるKマートの本社を訪れ、交渉の末全ての店舗で銃弾の販売をやめさせることに成功した。
とても興味深い内容でした。
子供の頃に植えつけられた印象って やはり根深いモノなのだろうなぁといった印象を受けました。
そして、日本のイメージって....っと思ってしまった。
Kマートの件は凄い行動力だなっと思ったのと 全米ライフル協会(NRA)会長(当時)のチャールトン・ヘストンへのインタビューのシーンは 躊躇することなく質問していて本気度がとても伝わってきた。
やはり、銃はいらないな...
自分の身は自分で守るためなんだろうけど 逆に疑心暗鬼になってしまうような...
けれどアメリカではそういう風に育ってきてしまった人が多いのだろうか?詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ノンフィクションは事実をそのまま写し取るようなイメージがあるが、編集があるので、実際は主観の嵐だ。
電波少年のような突撃取材をすることで、主観の主張をあえてグイグイしていく。これはある意味斬新。
コロバイン高校の事件が起こったその前に、アメリカはアメリカ軍がコソボへ爆撃を行っていた。
暴力的に復習をしたコロバイン高校の銃撃は事件となり、コソボへの爆撃は正義となる、おかしさ。
また、銃社会に対する色々な考え方。アメリカの成り立ち、人種差別など、池上彰の説明のように、次々に解説されていく。
悪いヤツと良いヤツも、ハッキリわかる演出に、少し違和感を感じるが、とにかく分かりやすいのですいすい観れる。
この演出を考えたことが発明。
アメリカは、様々な人種が作った新しい国であることが、良いところも悪いところも際立つのだろう。
アメリカの政治に反するような、このような映画を作って公開できることが素晴らしい。
ただ、最近の分断されてしまったアメリカは、こんな映画を笑いながら受け入れることができる度量がなくなってきている気もする。 -
1999年4月20日。トレンチコート・マフィアを名乗る2人の少年がコロラド州リトルトンのコロンバイン高校で
銃を乱射する事件が勃発。12人の生徒と1人の教師を殺害した後、自らの命を絶った。時をほぼ同じくして、ミシガン州のフリント小学校でも6歳の男児が6歳の女児を銃で撃ち殺すという悲惨な事件が発生。全米中を震撼させた。 映画やTV、ビデオゲームにおけるバイオレンスの氾濫、家庭崩壊、失業率…、原因は何なのか国中のマスコミがヒステリックに騒ぎ立てるのだが―。なぜアメリカはこれほどまでに銃犯罪に脅かされているのか?どうして国民はそれでも銃を捨てようとしないのか?米国が抱える銃問題の真相に迫る。アメリカでは簡単に銃が、手に入る。市民は、州兵に志願して射撃の訓練を受けることが出来る。ユタ州では、銃の所持を義務付ける法律が出来た。アメリカの異民族と戦いながら白人の領土を広げ銃で自衛してきた歴史の中で、銃を持ち自衛することは当たり前という伝統が根深くある。鉄鋼産業が不振で、兵器の製造に切り替えアメリカの経済を支えている。共和党の最大級な支持母体は、アメリカライフル協会。アメリカを蝕んでいる銃など武器に過剰に依存している政治経済構造についても学べる傑作ドキュメンタリー映画です。 -
ペン(口)は剣よりも強し!
アポなしの突撃取材、特にマスコミを引き連れての撮影は、権力者に対して効果的だとわかる。取材から逃げれば逃げたで印象が悪いし、受ければ社会的立場から無責任な発言は許されない。また、マイケル・ムーアのストレートで核心に迫る矢継ぎ早な質問は相手の表情や話の間などからも本音を引き出すことに成功している。
米国には、黒人を悪のスケープゴートにして、社会的危機感をあおり、それによって利益を得るものが存在する。具体的には、NRAからの献金を受ける銃規制反対の共和党、視聴率欲しさに善悪2元論で複雑な問題を取捨選択して無責任かつセンセーショナルに報道するマスコミ、銃販売で儲かる企業など。
さらに銃所持率が米国同様高いカナダで銃による死者がなぜ劇的に少ないのか、マイケル・ムーアは1つの仮説を得る。それは、銃を充填しておくかどうか。人間は怒りが頂点に達してから収まるまで10秒あれば沈静化する、つまりその場に銃があっても充填していなければ使用できるまでに興奮も収まっているという理屈である。(弾が充填されていなければ6歳児の殺人もあり得なかった)
銃犯罪が世界一多い米国社会は銃所持の権利が憲法で保障されている、それは自由が命よりも重要だという本末転倒な結論にならざるを得ない宿命にある。
『ボウリング・フォー・コロンバイン』(原題: Bowling for Columbine)は、2002年の米映画。1999年4月20日に発生したコロンバイン高校銃乱射事件に題材を取った、マイケル・ムーア監督のドキュメンタリーである。デビュー作『ロジャー&ミー』(1989年)で確立したアポなし突撃取材が本作でも遺憾なく発揮されている。日本公開は2003年1月25日、キャッチフレーズは「こんなアメリカに誰がした」。
題名の『ボウリング・フォー・コロンバイン』はダブル・ミーニングである:「犯人たちがマリリン・マンソンの影響を受けた」として保守派メディアからマンソンが批判されたにもかかわらず、犯行の直前までプレイしていたボウリングの悪影響が論じられないのはおかしいという皮肉。なお、マンソンの影響は、後に否定された。また、ボウリングのピンは、人間と形が似ているので、銃の射撃練習に使われるということ。
本作は主にコロンバイン高校銃乱射事件の被害者、犯人が心酔していた歌手のマリリン・マンソンや全米ライフル協会(NRA)会長(当時)のチャールトン・ヘストン、『サウスパーク』の制作者マット・ストーン、オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件の関係者、フリント小学校の銃撃事件の関係者、コロンバイン市民らへのインタビューなどを中心に構成されている。
そして、清教徒のアメリカ大陸移住から現在までの銃社会の歴史検証や、アメリカの隣国で隠れた銃器大国のカナダ、日本、イギリスなどの他の先進国との比較や現地の国民のインタビューから、事件の背景と銃社会アメリカのいびつで異常な姿をあぶり出してゆく。本作では銃規制を訴えてはいるが、しかしカナダはアメリカ以上に銃の普及率が高いのに、銃犯罪の発生率が低いのはなぜなのかという今まであまり疑問を待たれずにいた謎についても、ある程度核心に迫る探求を試みる。アメリカ建国の経緯に大きくまつわる先住民族インディアンの迫害・黒人奴隷強制使役以来、アメリカ国民の大勢を占める白人が彼らからの復讐を未来永劫恐れ続ける一種の狂気の連鎖が銃社会容認の根源にあるという解釈を導き出す。更に本作ではそうしたアメリカ国民の恐怖や不安や特定の人種への偏見・憎悪を、TVメディアが番組を通して掻き立てている可能性についても指摘している。
作品中でムーアは、事件の被害者を伴ってアメリカ第2の大手スーパーマーケット・チェーンストアであるKマートの本社を訪れ、交渉の末全ての店舗で銃弾の販売をやめさせることに成功した。
制作費はわずか400万ドルに過ぎなかったが、公開以来全世界で4,000万ドルの興行収入を上げ、世界各国のドキュメンタリー作品の興行成績を塗り替えた。劇場公開時、米国内では「強引な撮影手法には眉をひそめる人も多いだろうが、アメリカ文化に対する洞察は鋭く、政治的立場を問わずその主張には耳を傾けざるをえない」といった論評が行われた。
一方、意図的な編集がなされていると批判される事もある。例えばコロンバイン高校での事件を受けてNRAがわざわざコロラド州で集会を開催したかのようにも見える編集がなされている。しかしこの集会は事前から予定に組み込まれていたものであり、銃乱射事件の直後に敢えてデンバーを年次集会の会場に選んだわけではない(乱射事件は年次集会予定日のわずか11日前に発生した)。全米ライフル協会のサイトを確認すると、年次集会の日程は前年の時点で既に決定済みであることが分かる。また、被害者達に配慮して通常は数日かけて行われる行事のほとんど(銃製造会社による商品の説明や講習会、バーベキューなど)を取りやめており、ニューヨーク州を本拠地とする非営利団体が法律上行わなければいけない集会しか行わなかったため1日で終了している。さらには銃乱射事件から1年後の集会でチャールトン・ヘストンが言った台詞を、彼がデンバーでの集会で言ったかのように誤認させる演出が為されている。
もっとも、コロンバイン高校で起きた事件直後にNRAがデンバー市長の中止要請を押し切って集会を開催し、それに対する市民の大規模な抗議活動が行われたことは事実である。NRA側は上記のとおり「事件に配慮して集会の規模を縮小した」「会場はすでに決定済みだった」などと主張したが、主要メディアでは「無神経かつ傲慢であることに何ら変わりはない」とする強い批判が行われた。またチャールトン・ヘストンは映画の末尾でマイケル・ムーアによるインタビューの中で「会場に行くまで事件のことは知らなかった」などと釈明している。
また作中で「暴力的ゲームの多くは日本製だ(Most of the violent video games are from Japan)」とナレーションされるシーンにおいて、初めの映像はセガの『バーチャファイター』であり日本製だが、続いて映される『モータルコンバット』はアメリカ製である。ただし、映画公開当時に流行していた人気ゲームの多くが日本産だったこと自体は事実である。
アメリカを中心に各国ではきわめて高い評価を受けている。2003年にはフランスのセザール賞(最優秀外国映画賞)・アメリカのアカデミー賞(長編ドキュメンタリー映画賞)を受賞したほか、カンヌ映画祭においても55周年を記念した特別賞を授与されている。(Wikipedia) -
マリリン・マンソンがすげえまともにものを考えているのがわかる(逆にヘストンの言葉は建前にしか聞こえない)。「メディアは俺を恐怖のシンボルにしたがってる。そのほうが簡単だからな」だとか「恐怖と消費の一大キャンペーンをやって消費者を煽ってるんだ。米国経済の基盤はそれだと思うぜ」だとかの彼の発言はなかなか鋭い。銃の所持数は多いのに銃殺事件はほとんど起こっていないカナダと比較することで、単に「銃が手に入りやすい」からだけではなく、アメリカ人(白人マジョリティ)が持つ過剰な不安だとか恐怖心だとかに銃殺事件の原因があるのではないかと問題提起するムーアの試みには説得力がある。と同時にムーアの逆側から撮られたドキュメンタリーも見てみたいなと思ったり(そんなものがあればの話だが)。
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1999年4月20日にコロラド州コロンバイン高校で発生した【コロンバイン高校銃乱射事件】を題材にしたマイケル・ムーア監督・主演のドキュメンタリー映画です。マイケル・ムーア監督が終始主張している事は「銃規制」。私も数年間ですがアメリカの片田舎に住んでいた経験からすると、「自衛の為に銃を持つ事は仕方が無い」という考えです。というのは、合衆国憲法で武器を持つ権利が保障されており、他、アメリカの国土は広く、その全てを警察官が効率的にカバーするとなると莫大なコストが掛かってしまう為なんですが、この映画は「銃規制」ありきで上記の様な「銃を持つ理由」や銃を持つ権利を主張する人の意見には全く耳を貸していない様に感じられました。20年前の映画ではありますが、色々と考えさせられる映画です。
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枕の下に44マグナムを仕込まな安眠できないくらいの銃社会ぶりは前々から気になってはいた。
大好きな西部劇には必ずリボルバーやらショットガンやらが嫌というほど飛び出す。
これがなきゃ話にならないと言わんばかりに。
映画ではお決まりのように出てくる郊外の白人住宅地があんな恐怖を秘めていたとはまさに目からウロコ。米国史は「不安」で出来上がったものなんやね。
冒頭で”Little Government”には任せられないと銃による自己防衛に走っていたくせに最終的にその政府に心をかき乱されているとは、あら不思議。
目からウロコと言えばColumbine事件の犯人がMarilyn Manson信者で乱射事件の一因としてMansonが睨まれとったこともその一つ。当時一番糾弾を受けていた彼が、一番大人な発言をしていたように思う。笑
Michael Moore氏は本作を機に全米ライフル協会の生涯会員になったという。
彼がどんな思いでその決断をしたのかまでは知りえない。 -
マイケル・ムーア監督がアメリカの銃社会について切り込んでいくドキュメンタリータッチの映画です。
結局は映画として編集されているので、ある種一方的な主観で見える世界ではありますが、それでも尚、一度は見ておくべき作品だと思います。
湖を隔てた先のカナダは銃の所持者が非常に多い国なのに、銃による殺人事件はアメリカに比べて極端に少ない。外出や寝る時でも玄関に鍵を掛けないほど安心できる社会が営まれている。
だとすると、やはりアメリカ社会そのもの、ライフル業界の主張に問題があるのではないか?アメリカでも銃は本当は不要なのではないか?という問いを、悲惨な事件の現場・関係者、銃の被害者、銃愛好家、販売店、そしてライフル協会に突撃取材を敢行しています。
答えも出口もなく映画は終わります。もう少しだけ、観た人が考え続ける種をまく作品だったらと良かったのにと思いました。 -
シリアスでありながら、笑える。
マリリンマンソン
チャールトンヘストン
カナダとの比較
黒人への恐怖、がベースなのかな。