さと子の日記 (1982年)

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感想・レビュー・書評

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  • 昭和世代の私も、いまの時代に日々出版される最新作に心が躍るのは同じ。
    だけど昭和世代の自分だからこそ、もう出版されて数十年を経て絶版などで忘れ去られようとしている名作を、微力ながらもレビューを書くことによって紹介し、再び多くの人にその良さが伝われば…と思っている。

    「さと子の日記」は昭和57(1982)年初版。
    この本では、日記や手紙を書くことが大好きだった“さと子”(鈴木聡子さん)のことをお母さんが振り返るような構成になっている。お母さんの手記の間に、小学1年生から6年生、そして中学入学の年までにさと子が自分で書いた日記がはさまれ、現代の読者であっても、さと子のリアルな“肉声”を感じることができる。

    どのくらいリアルかと言えば、たとえば小6のときの日記を読むと-
    アニメ「エースをねらえ」を見たさと子はとても気に入ったようで、岡ひろみもステキだけど、藤堂さんの方がもっとステキ!と書いている。
    日記には学校の担任の先生からコメントを書いてもらえ、「エースをねらえ」をネタに、まるで交換日記のように先生(男性です)とやり取りしているのがおもしろい。

    別の日の日記に、さと子は「なんでマンガって足が長くて顔がいいのかな」と書いた。これって、さと子が先生に、マンガの登場人物はステキなのに、先生は…(-_-)と当てこすっているようなものじゃない?すると先生は「アニメだからでしょ」とあえて素で返してきた。
    また別の日の日記には、さと子は「アニメだから、現実にないようなことがあるのですよ。だから、アニメは楽しくてゆめがあっていいんですよ。わかったかな。沢入くん!(先生の名前)」と、ナマイキ口調で書いている。

    でもこのやり取りには、さと子の特別な事情が見え隠れする。入院生活をして病院に隣接する養護学校(特別支援学校)に通うさと子にとって、若い男性と接する機会はほかの小学生と比べて少なかっただろう。さと子が「エースをねらえ」をネタに担任の先生にあれこれ書くのは、自分の身近な興味を持ち出してきて先生自身の関心を引きたいから。つまり、さと子が本当に興味をもつのは、実は藤堂さんではなくて、先生なのだ。小学生らしい淡い感情が文章にあふれているのに読者が気づいたとき、胸に温かいものが湧き上がるだろう。

    だが、どこにでもいるような明るく家族や友達思いの小学生としてのさと子が書く一日の出来事は、楽しいことばかりではない。
    日記に時々挟まれる「検査」や「熱が39度まであがった」といった記述は多くの人にとっては“非現実”であるはずなのに、余分な修飾がない等身大の小学生の文章ゆえに、読者にはより現実性を帯びて刺さるときもある。

    例えば、小学1年生のときの日記では、病室から見える天竜川の上空に虹が出ていたと書いている。通常ならば、小1にして虹に気づき文章に書けることを素直に喜ぶべきだろう。
    しかしさと子についてもう少し想像力を働かせてみれば厳しい現実がわかる。さと子は小1ながら親から離れて入院生活を送っているので、1日のほとんどを同じ窓からの景色を見て過ごしているのである。様々な景色をまだよく知らないさと子が見た虹は、ほかの小学生が見る虹とは意味合いが違う。
    さと子は書く-「にじをわたっていったら、おうちにかえれるかなあとおもいました。」
    つまりさと子は、虹を病気の自分と家族との懸け橋だと見たのである。窓からのいつもと同じ風景に非日常の虹が見えたとき、さと子は病院での単調な日常が虹によって破られ、日々変化があって楽しいであろう家族の日常に自分の日常がつながることを期待したのだ。

    このように、素朴な日記の記述ながら、まるで宝探しのように、たくさんの隠れた美しいイメージが読者の心に現われる本。だから「書くことが好きな子どもの文章」として読んでほしい。「病気の子どもの文章」として身構えてしまうとそれにばかり気が向いてしまい、感受性豊かな多くの表現の美しさが霧のように消えるので注意。

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