── 山崎 富栄/長篠 康一郎・編《愛は死と共に ~ 太宰 治との愛の遺稿集 19680101 虎見書房》
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/B000JA5ROK
太宰の惰財 ~ idle Money of Dazai ~
…… 102歳で没した日本初の商業誌女性編集長と、その仕事。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3fac9378c54a84ee227de5b7f1ee1fc5b33c32f4
太宰 治 入水後の《愛人手記》“主婦論争”の口火となった《第二職業論》
1960 愛読者グループのハワイ支部を訪ねた三枝さん。全国に約95、
海外にも複数の支部があったころで、「東京グループ」には30代を中心
とする約250名の会員がいたという
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%C2%C0%BA%CB+%BC%A3
太宰 治 作家 19090619 青森 東京 19480613 39 /情死/籍=津島 修治/19480619“桜桃忌”Dazai, Osamu
♀山崎 富栄 愛人 19190924 東京 玉川 19480613 28 /情死《愛は死とともに》
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19920613
♀太田 静子 愛人 19130818 滋賀 東京 19821124 69 /計良 満里子の母《斜陽》《斜陽日記》Oota, Shizuko
♀津島 美知子 妻 19120131 島根 東京 19970201 85 /旧姓=石原 初太郎の四女
♀三枝 佐枝子 評論 19201004 山梨 東京 20230112 102 /旧姓=若尾 金造の三女
Saigusa, Saeko《婦人公論》女性初の商業誌編集長
♀石垣 綾子 評論 19030921 東京 19961112 93 /《主婦という第二職業論 19550200 婦人公論》
Ishigaki, Ayako /旧姓=田中 三四郎の二女/1958 前夫=石垣 栄太郎に死別 1967 別府 貫一郎と再婚
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sstj/4/0/4_160/_pdf/-char/ja
桑原 武夫 仏文学 19040510 福井 京都 19880410 83 /《俳句第二芸術論 19461100 世界》
https://booklog.jp/users/awalibrary?keyword=%E6%A1%91%E5%8E%9F%20%E6%AD%A6%E5%A4%AB&display=front/
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%B7%AC%B8%B6+%C9%F0%C9%D7
Kuwabara, Takeo 京都大学人文研究所長
♀瀬戸内 寂聴 作家 19220515 徳島 京都 20211109 99 /旧姓=三谷 晴美
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%C0%A5%B8%CD%C6%E2+%BC%E4%C4%B0
Setochi, Jakutyou
♀佐藤 愛子 作家 19231105 大阪 /紅緑の娘/籍=1125 生
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%BA%B4%C6%A3+%B0%A6%BB%D2
Satou, Aiko
ここでは当時話題を呼んだ誌面や、瀬戸内 寂聴さん、佐藤 愛子さん
ら作家、知識人に転機をもたらした仕事などを紹介。その雑誌づくりで
目指したのは、戦後を生きる女性の背中を押すことだった。
【写真】全国主要都市で講演会も開催された
◆ 日本初の商業誌女性編集長の軌跡
「ちょっと来て見てごらん。中央公論社が『婦人公論』編集者を募集し
ている」
終戦翌年、小さな新聞広告を見た夫の一言が、主婦だった三枝さんの
心を「社会へ出て自分の力を試してみたい、という気持ちにかりたてた」
(19970900 婦人公論)。
194604‥ 本誌の戦後復刊第一号が発行された4月に中央公論社に入社。
『婦人公論』編集部に在籍したおよそ20年のうち、1958-1966 編集長を
務めて40万部近くまで発行部数を伸し、退職後は評論家として活躍した。
── 太田 静子《『斜陽』の子を抱きて 1948‥‥ 19830200 婦人公論》
入社3年目の三枝さんは連載小説の依頼のため、太宰 治が入水自殺し
た翌朝も仕事場を訪れていた。翌月、本誌は愛人・太田 静子さんの手
記を掲載。スクープとしてその号は発売1時間で売り切れた。
これは太田さん死去の折、三枝さんが本誌に寄せた追悼文である。
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…… 六月十四日の朝、私は《いつものように》荻窪の自宅を出て、会
社に行く前に三鷹の太宰氏のところへ向かった。その頃太宰氏は、駅の
近くにある千草という呑み屋の二階を仕事部屋としておられた(中略)。
店をのぞくと、顔見知りの千草のおかみさんが目を真っ赤にして現わ
れた。そしてひと言、「太宰先生が昨夜から行くえ不明なんです」と言
ったのだった(中略)。
葬儀が行われた翌日、私は編集長に呼ばれて、これからすぐに神奈川
県足柄下郡の下曽我まで行ってほしいと命令された。そこには太宰氏の
愛人で『斜陽』のモデルである太田 静子さんが、太宰氏との間に生ま
れた女の子と住んでおられる。(中略)太宰氏とのことを書いてもらう
ように、とのことであった。(中略)
一人の男性を愛し、何の疑いも抱かないでその人に身をゆだね、愛す
る人との一週間にすべてをかけた女性。(中略)私は静子さんの心境に
驚き、感動し、想像以上にすばらしい手記を得たことに興奮していた。
持ち帰った原稿を頁数の関係で数行カットしなければいけないと言う編
集長に、顔色を変えて抗議し、「切らないでほしい」と泣きながら懇願
した。(中略)
静子さんはひたすらつつましく生きて、そして静かに消えて行った。
未婚の母などという言葉もまだ生まれていなかった時代に、未婚の母と
いうきびしい道を選んだその生涯は、相手が著名な作家であっただけに、
いっそう試練の多いものであったと思う。(『婦人公論 19830200 』)
石垣 綾子《主婦という第二職業論 1955‥‥ 》
主婦である妻たちに社会に出て「第一の職業」を持つよう説いた論文。
以後、多様な主婦論がメディアを賑わせた。この企画は『暮しの手帖』
の花森 安治編集長のアイデアによるものだ
ったと三枝さんが回想する。
昭和三十年のある日、私は珍らしく花森氏の自宅へ伺って、いろいろ
話をしていた。話はたまたま京大教授・桑原 武夫氏が「中央公論」に
書かれた「俳句第二芸術」という論文に及び、花森氏がふと、「『主婦
第二職業』というのは面白いと思うが……」と洩らされた。(中略)
私は花森氏に、「ぜひその題で『婦人公論』に論文を書いて下さい」
とお願いした。しかし、氏はちょっと考えた後に、「いや、ライバル誌
に論文を書くわけにはいかないからな」と言われ(中略)「では、その
タイトルで、他の方に原稿を書いていただいてもいいですか?」との私
の言葉に、「ああいいですよ」との返事が返ってきたのである。
私はその足で評論家の石垣 綾子さんをおたずねして「主婦第二職業」
――つまり、主婦業は第一の職業とはいえない。これからの主婦は、第
二の職業である主婦業に満足していないで、社会に出て、第一の職業に
つくべきである――という趣旨の原稿をお願いした。
世に言う「主婦論争」の口火となった石垣さんの論文は、このように、
花森さんが思いついたタイトルを、石垣さんが見事に肉付けしたもので
ある。── 《暮しの手帖保存版III 20040101 臨時増刊号》
三枝 佐枝子《婦人公論》編集部
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(20230509)