されどわれらが日々ー (1964年)

  • 文藝春秋新社
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  • 時代背景は、1950年代で日本の政治の大きな曲がり角であった。時代は違えど、誰もが過ごす青春の日々を切り取っている。
    2016/03/17再読
    初めて読んだのは20歳だった。
    節子と一つしか違わないのに、当時は彼女がとてもまじめで真摯で難しいことを考えていることに衝撃を受けた。
    40年近くを経て再読。
    未だに同じ思いだ。
    というよりあの頃の自分と今の自分と何も進歩がないことに愕然とする。

  • 学生運動を背景にした青春と葛藤。「教養主義の没落」を読んだでまもなく読んだので、学生運動に身を投じるものと距離をおいているものの感覚がリアルだった。

  • 六全協とかメーデー事件とか、時代を感じさせる出来事が中心となってはいるものの、若者が持つ空虚さへの戸惑いというのは現在にも通じるものがあるように感じた。

    「ぼくは一つだけ自分に課して、守ろうとしていたことがある。それは、どんなに多くの人が賛成することでも、どんなに形が整っていても、ただ、自分で考えてみて、隅から隅まで納得の行くこと以外は、何も決して信じまいということなんだ。信じることは美しいと人は言う。だけど、ぼくには、信じるということには、いつも、どこか醜さがあるとしか思えなかった。」
    周りの空気に流されずにこう考え、行動できた曽根は強い、と思った。

    それと自分の中の空虚に気づき、そこから抜け出そうと、婚約者から離れ新しい仕事へと踏み出していく節子も応援したくなる。
    佐野や優子のように、悩みを死で終わらせてしまうことはなんだかとてももったいないように思えるし、また己の空虚を認め、自分はこうなのだとあきらめてしまった文夫にもちょっとした失望を覚えた。

  • 確認したいことがあって再読。 何度読んでも優子との「白い海の記憶」は鮮烈だ。優子はこのとき21歳。言葉遣いは昔風でも、心と身体の乖離に右往左往する姿は今も昔も同じで大変共感できる。男性に触れられない女性は醜いか?欲望に対して純粋って何だ?理性を捨ててケダモノのなるのが純粋なんて、それこそいい加減だろう。と、今も思う。 セクスによって見すかされることを怖がらないほうがおかしい。好きな人・大事な人に見すかされるのが怖いのであって、どうでもいい人なら怖くもなんともないからいい加減になるんだろう。

    【抜 粋】
    「…大橋さんのセクスや遊びの相手は、それだけの相手。大学での友達、セクスや遊びの場でないところでの自分を知っている友だちは、こわくて、セクスの相手にできないの。セクスに対する冒涜よ」
     優子はいつも、セックスではなく、セクスとその音を発音した。その硬い響きは、少女の歯に噛み切られた青草のように鋭く匂った。

    「好きとか嫌いとか、そんな不安定なことを問題にしているのではないの。セクスに対して、純粋であるか、どうかよ。こわがって打算するなんて、卑怯だわ。セクスの欲望を満たす時は、その欲望に対して純粋であるべきよ。そうしたいのちそのものに純粋になれなければ、私たちは干からびてしまうわ。そこに、自分をみすかされまいとする思惑なんか持ち込むのは、汚いわ。老人みたいよ」

  • 二桁年ぶり再読
    随分違う読後感
    あの頃は青春だったのかなぁ 

  • 芥川賞 80版


  •  じ〜〜んとする、昔の青春

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