太陽よ,汝は動かず―コペルニクスの世界 (1962年) (岩波新書)

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感想・レビュー・書評

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  • 古い本(1962年訳、原著1947年)だが、なかなかいい本だと思う。コペルニクスはポーランドの北の外れ、トルンの生まれで、姉が二人、兄が一人いた。父親は商人だが治世官にもなった人、コペルニクスが10歳の時に世を去った。以後、母方の叔父、ルカス・ワッツェンローデに養育される。この人は教会法の権威でエルムランド(バルチック海沿岸ダンチッヒの東、ケーニヒスベルグの西、ドイツ騎士団に囲まれた小国)の司祭だった。司祭というのはカソリックの高位聖職者で半ば領主である。18歳のとき、ポーランドのクラカウ大学で基礎過程を学び、イタリアへ留学、ボローニャ、パドヴァでギリシア語、医学なども学び、ローマに滞在、フェラーラで法学の学位をとった。1506年、33歳のとき、エルムランドに帰った。帰国後は聖堂参事会員となり、叔父をたすけ教区を経営する。天体観測は学生時代からすこしずつやっていたが、フラウエンブルグで本格的に行った。1510年ごろ『コメンタリオルス』(短い解説)で太陽中心説(地動説)の基本的構想を書き、少数の仲間に送っている。1514年、のちのグレゴリオ暦につながる改暦の会議が開かれるが、コペルニクスも招聘されている。1520年にはドイツ騎士団(チュートン騎士団)とポーランドが衝突、エルムランドが戦場になった。このとき、コペルニクスはポーランド側にたち、二人の聖堂参事会員とともにアレンスタインで籠城、銃をとった。1521年に休戦となるが、戦後会議に損害一覧を作成して提出している。インフレが起こると、1522年「通貨の病気」に関する覚え書きをプロシア議会に提出、通貨統合の必要性を論じた。のちに「悪貨が良貨を駆逐する」というグリシャムの法則に相当する認識も述べている。また、コペルニクスには人文主義者の一面があり、ギリシア詩(テオフィラクトス・シモカッタ)のラテン語訳もしている。晩年は『天球回転論』(地動説)の完成に集中する。ルターが「95ヶ条の論題」をローマ教会に打ちつけたのが1517年で、以後、宗教改革がはじまるが、コペルニクスが地動説を完成させていく時期はカソリック教会が聖書の権威をゆるがす言説に敏感だったころで、著作の出版は危険だった。しかし、彼の地動説は出版もしていないのに1531年にはプロシアで道化芝居にされるほど流布していたそうだ。コペルニクスはカソリックにも危険視されたが、彼ををよりつよく攻撃したのはルターで、「この馬鹿者は全天文学を転倒しようとしている」と書いている(フロムによれば、ルターのパーソナリティーは異常な権威主義者)。かといって、プロテスタントをすべて敵に回していたのではなく、初期のコペルニクスのシンパはほとんどがプロテスタントである。『天球回転論』の出版ができたのは、ウィッテンベルク大学の若き数学教授レティクスによる。ウィッテンベルグといえばプロテスタントの総本山、コペルニクスも晩年仲間の聖堂参事員が反プロテスタントに過激化していたので、両者が会うのは大変危険だったが、1539年にレティクスはたくさんの科学書を携えて、いきなりエルムランドにやってきた。二人は友情を深めていき、レティクスはまずコペルニクス体系の摘要を『ナラティオ・プリマ』(1540年、「最初の解説」の意)として出版した。また、レティクスはルター派の聖職者オジアンダーに任せ、ニュルンベルクのヨハネス・ペトレエスに『天球回転論』を印刷させた。オジアンダーは地動説について「計算上の便法である」という旨の無記名の序を『天球回転論』にすべりこませた。これはコペルニクスの意に反するものであったが、カソリックの追及をおよそ100年おくらせた。また、『天球回転論』は当時の最新数学だった三角関数の表ものっており、球面三角形にまで及んでいるそうである(清の戴震が球面三角形を議論していたといって、中国数学の優秀性をほこるわけにはいかないことが分かる。天文学は球面上の図形を処理するので、球面三角形は通らねばならない)。コペルニクスは脳溢血と卒中をくりかえして、1542年末から麻痺状態、1543年5月24日、その日に届いた『天球回転論』を受けとって死んだ。ちょっとできすぎのようだが,当時、看護をしていた親友ギーゼの手紙が残っているから事実だろう。コペルニクスは孤独を愛し、友人も多くない。自分の仕事をポーランドの北辺でやっていた人である。しかし、よく中心・周辺論でいわれるように、田舎から改革を起したわけではない。彼はイタリアで学んだエリートであり、文学・経済学・医学・天文学に通じ、政治もできた人である。すこし地味だが、まぎれもなくルネッサンス人である。彼の死後、エルムランドの司教に医学書が贈られたそうである。コペルニクスは教区の人を治療し、プロシア大公の命で廷臣の治療にもあたった。贈られた医学書にはよく使う処方に印がつけてあったそうだ。コペルニクスの蔵書は30年戦争でグスタフ・アドルフがスエーデンに運び去ったので、ストックホルムのウプサラ大学にあるそうである。和訳『天球回転論』は一巻だけである。本当は全6巻である。この書物の欠点としては古代の観測結果を正確な値として処理してしまったこと、アリストテレスの円軌道からは抜けられなかったことだが、後年のティコとケプラーによって、補正されていく。中世の大学や改暦、ギリシア・ローマの天文学にもくわしい。

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