悪の華 (1961年) (岩波文庫)

  • 1961年4月5日発売
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  • 禁断詩編というわけだが、感覚としては夢野久作と同じ匂いがする。纏う腐敗臭さえ詩的な香りに変えてしまう。歴史的な経緯もあるのだろうが、かなり多岐にわたる詩を詰め込んでいる。そもそもまとまった『悪の華』などないのだから、全部を詰め込もうとすればこのような形になるのは当然か。
    ランボーの砂漠のようなあの渇きは、ボードレール譲りのものであることがよくわかる。しかし、あらゆるものを吸い取りそうなランボーの渇きと異なり、ボードレールの渇きは何もかも流れ出てしまった後の残り滓のような渇きである。彼はそれを倦怠と呼んだ。
    あらゆるものがことばとして漂っている。あらゆる悪徳や抉られた傷でさえも。ことばは悪魔。表現するということは、そういう悪魔さえも飲み下し、身体が爛れ、血を吐いても出さずにはおれない、そういうものだったに違いない。
    美しいということもまた、なんと悪魔的なものか。それもまたことばとして目の前に現存してしまっているのだから。正直、どの詩が誰のことを指しているのか、ボードレールにとっては、かなり境界の揺らいでいたのかもしれない。彼に見えていた種々の人間の姿はこの詩編通りの姿をしていたのだから。
    倦怠という感覚に貫かれているにも関わらず、絵画的でまるでことばを感じるというよりかは、ことばをみているかのような文体は、ことばという悪魔に魂を売り、アシーシュによる人工楽園まで一度辿りついて戻ってきた彼にしか書けないものである。みること、それが詩人として彼の成し得た境地である。
    こうした詩を禁ずるということは、本能的に目をつぶろうとすることなのかもしれない。考えれば考えるほど、アシーシュの働きも相まって、ボードレールには見えてきてしまう。目がより一層開かれてしまうのだ。愛や死、世界の果てまでも。
    旅の詩編において、訳者は空想の世界であると一蹴してしまっているが、ならば、なぜ彼はそれをことばにできたのか、このことを考えねばなるまい。この詩編のすべては、彼のみたものだ。みたものしかない。

  • 後で書きます。

  • 敢えて61年版。最近の新訳も手にとってはみたのですが、あの文字の大きさや軽い文体はどうも好きになれなかったのでやはり旧字体バリバリのこちらで。個人的な趣味の問題ですが、ボードレールなら絶対こちらをお奨めします……と言っても手に入れ難いですが。
    好きな作品は「ダンスマカブル(死の舞踏)」「ラルバトロス(あほうどり)」あたりです。「シジナ」も良い。あと、猫好きには「レシャ(猫)」がたまりません。

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