ぼくらは無罪だ!―サッコとヴァンゼッティの受難 (1955年) (文芸新書)

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  • (読んだのは、この版の改訳と思われる『死刑台のメロディ─サッコとバンゼッティの受難』ハワード・ファスト作、藤川健夫訳、角川文庫、1972年だが、amazonに登録がないため、この旧版につけておく)

    この古い本を思い出したのは、『女たちの死刑廃止「論」』で、サッコとバンゼッティ事件のことがチラと出てきたから。

    むかしむかし実家の本棚にあったなと思うが、それが見つかる可能性は低く、ヨソの図書館からの相貸で古い文庫を借りてきた。カバー写真やカバー袖の写真は、映画の「死刑台のメロディ」(原題 Sacco e Vanzetti、1970年制作、イタリア)のものが使われているらしい(むかし私が見たことのあるカバーは違う柄だった気がする)。

    本のなかみは読んだことがないし、映画も見てない私が「サッコとバンゼッティ」と『死刑台のメロディ』というタイトルを知っているのは、何かのときにこの本のことを(たぶん親から)聞いたのだったかなと思う。

    サッコとバンゼッティは、1920年にUSAのマサチューセッツで起こった強盗殺人の犯人として逮捕され、陪審で有罪と評決され、裁判官に死刑を宣告された。裁判の中ではさまざまな証拠が提出され、二人が無実だということは明らかだと、USA国内のみならず海外からも多くの非難と抗議が寄せられたという。だが、サッコとバンゼッティは電気椅子によって処刑された。強盗殺人の真の従犯の一人とともに。

    小説は、サッコとバンゼッティが処刑される真夜中までの一日を、1927年8月22日の夜明けから描く。二人の死刑は、7月10日までに執行されるはずだったが、さまざまな抗議の影響もあってか、なんどか"延期"されて、8月を迎えていたのである。

    マサチューセッツの州知事が「8月22日の執行」という最終決断を下した頃から、事件に関心を持つ人たちは至るところから州都のボストンへやってきていた。執行の"延期"をめざして、知事の決断を変える可能性を信じて、ピケが張られ、デモがおこなわれ、抗議の署名が集められ、おびただいい電報や手紙が大統領にあてて、マサチューセッツの州会議事堂にあてて送られていた。仕事を休んで、あるいは仕事を終わらせたあとにボストンへ向かう人も多かった。

    生まれて初めてピケに参加する人もいた。そして「他の人といっしょに使える立派な強力な武器」を発見したのである。

    ▼ 彼らは見ず知らずの人たちと肩をふれあった。すると、力強さが肩から肩へと流れるように伝わっていった。こういう人たちのうちには、若い人も中年の人も老人もいた。しかし彼らは、今まで全然やったこともないことをしているので、今まで持ったこともないような力を見いだしたという点では、みんな同じであった。彼らはたいてい羊みたいにピケに加わった。そして初めはおずおずと、それから少し自信を持ち、さらに誇りと決心を示すような態度になって行進した。彼らは肩を怒らせ、顔をあげ、姿勢を正した。彼らは誇りと怒りを全身で感じるようになった。そして初めは機械的に署名を手渡していた人たちも、何時間も前から署名を集めている他の人たちから、いつの間にかそれを熱心に受け取るようになっていた。署名は武器となった。彼らは武装した。そして、仲間の男女といっしょに抗議するために堂々と歩くというこの単純な別に珍しくもない行為をすることによって、自分たちは世界中にひろがった強力な運動とつながっているのだという気持を、はっきり意識はしていなくても暗黙のうちにいだいた。彼らの頭には新しい思想が生まれ、彼らの胸には新しい感情がわき立ち、彼らの心臓は高鳴った。彼らは今まで知らなかったふうに悲しみを知った。そして彼らの胸の奥底からの怒りは、抗議となって現われた。(pp.112-113)

    訳者の「あとがき」にはこうある。
    ▼ サッコ・ヴァンゼッティ事件が起こったのは第一次世界大戦後、アメリカでは復員軍人の失業者がふえ、盛んになった労働運動を弾圧するため、至る所で「赤狩り」が行なわれ、国民の90パーセントまでが赤恐怖症にとりつかれたと言われる時期ですが、それは第二次大戦後のアメリカでマッカーシー旋風による「赤狩り」が盛んに行なわれて、世界的にセンセーションを巻き起こしたローゼンバーグ事件が起こった時期とよく似ており、この二つの事件は同様に反動的支配階級によってデッチ上げられた事件なのです。(p.287)

    サッコとバンゼッティは、どちらも「普通の労働者」だった。イタリア系の移民で、無政府主義者、平和主義者だった。二人は、「赤の野郎」「イタ公」という赤恐怖症と差別のために殺されたともいえる。

    日本の刑法もそうだが、死刑という刑罰は、根本的には「現体制への反逆を処罰する」ものなのだと、あらためて思った。

    小説の終盤、ボストンでの死刑執行が近づく時刻の、世界各地での抗議運動のもようが描かれる。
    ▼ 東京では、警官が乱暴にサーベルを振りまわして、アメリカ大使館前の彼らの警戒線から労働者たちを追い返した。東京ではちょうど真昼であった。働く人々のじめじめした居住地域のいたるところで、この問題が口から口へと伝えられた。そして多勢の人が見栄も外聞もなく泣いた。もし泣き声が捉えられていたならば、それは全世界を取り巻いた音響のかすかな織物のように、確かめることができたであろう。この地球上に人間が存在して以来、かつてこのようなことは一度もなかった――多くの人種を包含している点で、これほど広範で、徹底したことは一度もなかったということは、否定できない厳とした事実であった。(p.272)

    1927年、昭和でいえば2年は、昭和金融恐慌で記憶される年である。まったく根拠なくこうした記述がされるとも思えないので、実際になにかあったのかどうか、あるいはこのサッコとバンゼッティの事件は日本で誰からどのように(文化人から?あるいは主義者から?)伝わっていたのか、そしてどんな行動があったのか…というようなことがわかるでしょうか?と返すときに図書館でレファレンスを依頼。

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