世界の名著〈第40〉キルケゴール (1966年)哲学的断片 不安の概念 現代の批判 死にいたる病

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  • 2016.10.29
    解説と「哲学的断片」まで読了。解説における「ギーレライエの手記」には本当に感動した。この問いを持った哲学者がいたのだと、またこの問いを大真面目に考えてもいいのだと、この問いを考えることは一種の中二病というか、ダメなことだと思っていたから、こういう形で歴史的にも存在した問いであることを知れたことは、自己肯定できたというか、大きな救いになった。「真理とは、イデーのために生きること以外の何であろう」。
    哲学的断片について。ソクラテスの哲学を下敷きに、人と人の関係と、人と神戸の関係の差異を浮き彫りにし、信仰とは何かを突き詰めた本である。考えたいのは、信仰について、愛について、認識について。
    信仰とは、理性の外側、非合理を非合理のまま肯定するという情熱である。よって、神は存在するか否かとかを、論理的に説明したり、もしくは歴史的に材料を集めて研究したりすることは、無意味どころかむしろ、信仰の態度とはより隔たっていく。永遠の存在である神が、この歴史において、イエスとして歴史的事実として存在したという矛盾、事実としては歴史に相対的であるのに対し、神という点では永遠であるという存在、この矛盾を、理性に照らして理解しようとするのではなく、これをこのまま受け止めることが信仰である。また故に信仰とは、このような不合理を理性のつまづきとして、それをきっかけに与えられるものでなければならず、この逆説というきっかけと、それによる理性のつまづきとの間を埋めてくれるものが、情熱に他ならない。
    私はこれを、私の神なき人生において考えてみたのだが、経験は、生活は時に理性を超越していることがままある。そしてそれに対して何で?という疑問を与え、考えに考えそれでもわからなかった時、私の理性を現実が超越する。理性的存在として私は一切を合理的に理解したくなるし、そうできないものは肯定することができない。しかしその肯定できない事実が確かにこの私の経験として、実感としてありありと刻まれている以上、それを否定することができない。こうして私の理性は敗北を喫し、そこで初めて、何もかもこの頭で説明できるわけではない、世界には理性を超えたものが存在すると思えるのである。こう考えると、超越への信仰としての条件は、まず超越的経験、そしてその経験に対する理性の情熱的敗北、ということになるだろうか。この経験こそ神の歴史的事実であり、またこの敗北こそ、それに対する情熱的な関わり合いということになる。おそらく、その対象に対する情熱的な関わりそのものが、信仰を用意するのだろう。「信仰」というと日本人には馴染み薄いが、これを人生における信念、まさに「真理とはイデーのために生きること以外の何であろう」という時の「イデー」であると考えれば、強く生きるための信念を生み出す条件と読み取ることもできる。事実、我々が自分が生きる拠り所とする信念とは、実際合理的でも何でもなく、まさに非合理のまま信じるというところにあるものではないだろうか。
    そこで本著にあった信仰と懐疑の違いについて。認識、特に直接的認識及び知覚は、欺かない、私を欺くのは、その認識の後の判断・断定であるという。目の前のコップ、中には茶色の液体、ここまでは認識であり、欺かれていない。これに、「これは麦茶である」という判断・断定を加えることで私は欺かれるのである(実際はコーヒーなのに)。懐疑論とは、知覚的認識を疑う(この茶色い液体は果たして茶色か、いやむしろ液体か、いやむしろこの認識は現実かetc)のではなく、その後の判断を抑圧(エポケー)する、すなわち欺かれないために一切の判断を中止することである。これは意志の問題であり、一切の判断をしないようにしようという決意がないとできない。古代ギリシャの懐疑論として紹介されていたが、これは現象学にも通じる思想である。
    対して信仰とは、あえて判断することを意味する。認識は欺かないが、認識は今ここにあるものしか知覚できない。しかし今ここにあるものは、それが生まれた歴史を持つ。この歴史は、目には見えない、過去に属するものである。この目には見えないものを、欺かれると知りつつ、信じることが信仰である。この目に見え、この耳に聞こえることだけが本来は根拠ある真実なのだ。その外側の無根拠な領域を意志によって抑圧するのが懐疑、意志によって無根拠のまま信じることが信仰である。
    さてでは我々が普段生きる信念とはいかなるものか。どれをとってみても、ほとんどが無根拠という他はない。我々は経験、認識に、断定を加えることで、根拠を与えているという方が近いかも知れない。しかしその根拠が与えられる根拠はどこにもない、故に恣意的である。恣意的な根拠の上にさらに恣意的に根拠を与えることで組み立てられたのが我々の信念である。そして我々はそれが実は無根拠であるということすら自覚していない。無根拠の無自覚は、私の信念は客観的真理であるという高慢を生み出す。これと信仰の違いは何だろうか。信仰は、より徹底的な自覚に基づいた信念である。信仰は、合理的根拠は持たないことを知っている、しかし説明不可能な根拠によってそれが存在することを信じている。信念は、合理的根拠はないことを知らずに、それは合理的だと勘違いしている。合理的だと思っている以上は非合理に向かうこともない。徹底的に自覚された信念は、自分が絶対に正しいわけではないという謙虚さと、それでも私はこれを選んだという強さをもつ。自覚なき信念は自分の砂上の楼閣の脆さを自覚せず、故に絶対と思い込み傲慢であり、非合理にも不寛容である。こう考えると大切なことは、自分の価値観や信念がいかに危うく、私がそう思うことでどれだけ自分を騙しているかということであり、そしてそれにも関わらず、合理的に説明ができない(すなわち人にも理解はされない)にも関わらず、信じていい、信じずにはいられないものがあるということではないだろうか。
    最後に愛について。神の愛の例を王に例えて述べられた。ある王が身分の低い娘に恋をした。娘を城に呼び、盛大な祝宴をあげた。王は娘を愛した、しかしそれによって、娘はどうなるか。娘は王の「王たる部分」故に王を愛することになる。もしくは娘にとって王は救い主であり、そうである点において王を愛する。しかし王は、この「私」を愛して欲しいのである。王と娘の身分が距たるほどに、関係は対等にはなれない。
    考えたいのは、愛とはある種の属性、性質に対するものではないということであり、にも関わらず多くの人はそうだと思っていて、人を愛したい、愛されたいために様々な努力をするけどその全てがこういう属性、性質に間することで、その努力をするほどに愛から遠ざかるという現状があるということである。そういうのを愛ではない、と断定する権限は私にはないけれども、少なくともそれは好意以上のものにはならないような気もするのである。だとすれば、愛とは何に向くものであろうか。「私はあなたを愛している、なぜなら〇〇だから」という時、それは「あなた」を愛しているのではなく、「○○」を愛しているのであって。
    するとこの問題は、「あなたとは?」という、自我論になる。私とは何か。私とは、あらゆる私の性質や属性に還元されきれない存在である。私とはその全てであり、私の属性や性質は私の一部である。ではその一部のすべての統合こそが私だろうか。あなたを愛するとは、あなたに帰属するすべての性質の統合体としてあなたを愛するということだろうか。どうもこれも、ピンとこないのである。
    王が娘に過度に施したことによって、王の一部の性質が娘には大きく写った。この時点では王=〇〇であって、王そのものに愛は向かなかっただろう。例えば、初対面の人に会った時、最初はその人のことは見た目しか、喋り方くらいしかわからない。そこからその人に関する様々な情報を獲得し、私の中でその人像が確定する。加えて、このような客観的な物を知っていくようなプロセスだけではなく、その獲得は常に私との関わりを通して行われていくものであり、その獲得の中には私と彼との思い出なども含まれるわけである。そう考えると愛は一面では、相手の中に見える自分を愛しているとも言えるか?
    愛と信仰は似ているとあった。信仰が、非合理と合理を情熱が結んだ先にあるように、愛を、愛されない=罪の自覚と、愛されたという経験が結ぶなら。真理を知っていると奢る人間には信仰は生まれないし、愛されていると奢る人間は愛を知らないことになるか。それがなんなのかわからないにも関わらずそれがそれであるという、人間の能力を超えたものにこそ信仰が向かうように、自分が愛される存在ではないにも関わらず愛されているという、これまた人間の限界を超えたところに愛はある、のかもしれない。もしくは逆に、人間の限界を超えたところに人間は何か絶対的なものを感じるようにできているのかもしれない。でもなんでだろう。不思議。

  • 2016年1月9日、「現代の批判」を再読。ハイデッガーが「存在と時間」を書いたときのネタ本であることがよくわかる。しかし「水平化」はもちろん「嫉妬」の重要性は「存在と時間」では捨象されている。

  •  宗教哲学の巨匠キルケゴールの著作集。
     デリダによって他者論と結びつかされたように、彼の思想は本当に応用が効く。難解であるのは確かだけれども、倫理と宗教を絡める思想は、宗教を感情と置き換えると非常にわかりやすくなると思う。そんなことを言っていた宗教学者がいたはず……(名前を忘れてしまった)

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