- Amazon.co.jp ・映画
- / ISBN・EAN: 4532640303242
感想・レビュー・書評
-
かつての連合国、とりわけアメリカをはじめ世界の多くの国々で9月2日はVJ Dayということで、今回関連作品として鑑賞してみました。
しかし、本作ではその前後の描写はあるものの、ポツダム宣言受諾(8月14日)、玉音放送(8月15日)、降伏文書調印(9月2日)の一連の出来事の描写はなく、いきなり前後比較となるので、監督の意図としては一層際立たせる目的があったのでしょうね。
2005年、ロシア・イタリア・フランス・スイス合作映画。監督はアレクサンドル・ソクーロフ。
ヒトラー、レーニンを描いた前2作に続くシリーズ第3作です。
主演は、昭和天皇役のイッセー尾形。主要な共演としては、藤田侍従長役の佐野史郎、下僕役のつじしんめい、マッカーサー元帥役のロバート・ドーソン、マッカーサー元帥の通訳役のゲオルギイ・ピツケラウリらです。
その他に、阿南陸相役に六平直政、米内海相役に西沢利明、鈴木首相役に守田比呂也、木戸内大臣役に戸沢佑介などがいます。
そして、最後の決めのシーンに登場するのが皇后役の桃井かおりです。
日本でこのような作品の製作は無理だったかもしれません。観終わって、ただただアレクサンドル・ソクーロフ監督にしてやられた感でいっぱいになりました。
まず物語の背景として、敗戦を「終戦記念」とし、戦争相手ではなく自国民に終わったよと言った日をその日とし、実際に降伏した日を無視するような毎年のイベントが繰り返されるようではこうした映画は作れません。
いつまでもわけのわからない「反省」を口にするだけでは、このようなぞくぞくするような切り口の映画を作るのは到底無理で、他国の監督に盗られる(撮られる)のも仕方がないのかもしれません。
そして何より素晴らしかったのはイッセー尾形の、おそらく多分にコミカルさを含んだ演技です。
顔面神経痛を思わせる口周辺の動き、口髭を生やし口を開けたまま周囲を見渡すペンギン風な仕草、御前会議をはじめとする的外れで婉曲なセリフやノイローゼを思わせる記憶の蒸し返し、アメリカ撮影班に「チャップリン」と呼ばれおどけてみせる卑屈さなどなど、本来こっけいな場面であるにもかかわらず日本人としては少しも笑えない、痛々し過ぎてもういい加減に勘弁してやってくれといいたくなる極端なまでの人物模写が凄かったです。
ソクーロフ監督のこの「権力の黄昏」を描いたシリーズ第3作目の主題は、「神」と祀り上げられた「普通」の「男」の苦悩です。
終戦間際の御前会議では、陸軍大臣は本心では天皇に戦争を止めて欲しいと願いつつも本土決戦を主張し、天皇も戦争終結の明言を避け抽象的な話をせざるを得ない状態になっています。天皇も戦争の契機と戦局の悪化は理解していながら、「神」という立場上、ただただ「神」の日常を費やします。
一転、敗戦後はマッカーサー元帥との会見や、アメリカ兵たちの好奇な目にさらされ最大級の屈辱を味わう日々を送ることになります。
拠り所はただひとつ、同じく「神」であり偉大な栄光であった祖父の明治天皇(これがまた重い!)。
イッセー尾形の名(迷?)演技を得て、一人の「普通」の「男」に課せられた責務としてはあまりにも重過ぎ、精神に異常をきたしてもおかしくないと思えるようなこうした数々の出来事の演出は物凄く見応えがありました。
どう見ても「神」には見えないが、皆が「神」だと言い張り、傍から見てどうにも「笑われる」存在を作ることで、「笑い」をここまで深刻で痛々しいものにしたんですね。
この映画でのマッカーサー元帥は唯一「まとも」な存在になっていて、現在のわれわれの視点的役割を果たしてくれたのと同時に、われわれ観客とともに彼の苦悩を受け止める存在でもありました。
この「マッカーサー元帥」のおかげで、「神」から「人間」になろうとする彼へのわれわれの眼差しも優しくなったのではないでしょうか。
その意味で、「マッカーサー元帥」は彼に救いの手を差し延べる西洋的な「神」であり、「通訳」こそは現状に留めおこうとそそのかす「堕天使」であったと言え、さらには東西の正邪対決ならぬ正正対決をあらわす寓意であったとも言えます。
ちなみに、映画では主題を明確にするために苦悩の元となる描写が限られていましたが、実際は国体の護持をはじめとして大日本帝国の行く末など、より深刻でより大きな責任と「苦悩」があったと思います。全てを描くと作品としては冗長にもなりかねないため、終戦前後の話はねらって捨象したのでしょうね。
イッセー尾形と一緒に繰り出す佐野史郎とつじしんめいの共演シーンでは、深刻さとコミカルさが適度に配分されていてなかなか面白かったです。
チョコレートの場面などは深刻な中にもクスリとくる場面でしたね。
あと、マッカーサーとの会見場面で、いきなりまともに話始めるところなんかは一服の爽快感を感じさせる場面でした。
意外にも桃井かおりのシーンは最後だけなんですが、最後の癒しとラストの顔のドアップシーンだけのために彼女の登場が必要だったんですね。
どこまで史実かはわかりませんが、監督の企図とイッセー尾形の演技を観るだけでも一見の価値がある作品です。
日本で作るにはまだタブーなんでしょうかねえ? -
あくまで一映画として。
『終戦のエンペラー』の後、同じ内容をテーマにした作品があると知って出会った。
悪化の一途をたどる戦争に終止符を打ち、自らの神格化を自ら否定して永遠の平和を約束した。
集団的自衛権だの叫ばれている今、静かに原点回帰。
封切り前後、昭和天皇を役者に演じさせることを問題視する声はやはりあったようだ。
ロシア人監督、ロシアを含めたヨーロッパ数ヶ国の合作映画、コミカルな描写。
結局立ち見客が出るほどの盛況ぶりだったみたいだけど今から考えてもやっぱり大胆。
(イッセー尾形さん演じる昭和天皇がGHQのカメラマンの前でChaplinのモノマネを始めた時は度肝を抜かれた)
一人の人間なんだけど、どこか浮世離れした存在感。
彼なりに理解した時に放たれる「あ、そう」。
冒頭では「電気、通ったね」と笑顔をチラ見せ。
相手が発言している時、何か物言いたげそうに口をパクパク。
どの言動も何故か普通に捉えられなかった。
あと日本映画ではなかなか見られない場面の描写も見どころ。 -
THE SUN
2005年 ロシア+イタリア+フランス+スイス
監督:アレクサンドル・ソクーロフ
出演:イッセー尾形/佐野史郎/桃井かおり
ソクーロフはエルミタージュ幻想ぶりなのではや3年ぶりですね。ソクーロフ映画の上手な見方としては、個人的に眠くなったら遠慮せずに序盤のうちに寝てしまって軽く仮眠をとり、後半じっくり見ればいいやという戦法で(開き直り)
ロシア人監督の撮った昭和天皇、しかもマッカーサーとの会見シーンがクライマックスとなるという意味では、日本とアメリカの歴史的瞬間をわざわざロシアの監督が映画にするというのも奇妙なもので。
日本人でありつつも、このへんの歴史に全く不勉強な自分はこの映画のどのへんまでが史実でどこからが虚構なのか詳しくはわからなかったのですが、まあ、そんなことは気にするだけ野暮というものでしょう(少なくともラストサムライよりマシなことは確か)。
そこはソクーロフですから。別に歴史大作でもドキュメンタリーでもなんでもなく、いつものように淡々と、褪色したような色彩の輪郭のぼやけた映像の中で、どこか朧な悪夢めいた光景が、延々と繰り広げられます。薔薇の咲く庭に鶴がいるっていうのも、ソクーロフらしい光景だったなあ。
出演者はほとんどが日本人、そして当然のように日本語。イッセー尾形の昭和天皇は、どこか飄々とユーモラスで、一国の命運を背おわされるにはあまりに頼りなく人間くさく、そこがむしろ常人離れしているといえばしているような不思議な存在感で、しかしだからこそ、肩に力の入った人間にはむしろこの役目(神であることを義務づけられた時代の国主)は勤まらなかったんだろうなあという哀愁を感じさせられて秀逸でした。
皇后役の桃井かおりと、ふたりの口癖は何を言われても「あ、そ」と流してしまうところ。そうやって何事も(そう例えば原爆が落とされても何百万人という国民が死んでも)「あ、そ」と流せるくらいじゃなければ、自責の念に苛まれて生きてなんていけない。それだけに、最後の最後で天皇の人間宣言を録音した青年が自決したと聞いた瞬間の、彼の表情で終わるラストは印象的でした。
(2007.01.26) -
イッセー尾形の演技は、この役はもう彼にしかできないとさえ思わせる完璧ぶりだった。
そして映像が素晴らしいのと、美術や演出がブッ飛んでるとこに衝撃を受けた。「天皇」という日本の象徴でもありタブーでもある存在をあれほど愛しく、コミカルにかつ繊細に描けるのはなぜなのか。日本人にとっての根源であり、最も重要なテーマでもあるのに不思議と日本人には絶対に描けないような気がする。
映画というのは確かに作り物だけど、時代を残す記録でもある。まさにそれが映画の映画たる由縁であり、私たちには語り続けていく義務がある。「映画を作る」とはなんなのか、改めて考えさせられた作品だ。
しかもこの監督、撮影も兼ねているのである。うーん、鬼才! -
昭和天皇は本来どんな人物であったのかはわからない。ただ尾形演じる昭和天皇は異常にリアル(多分本当の昭和天皇と違う)。この不思議が問題になったのか
-
笑えるシーンなども意外にあり。
-
2005年、ロシア。アレクサンドル・ソクーロフ監督、ユーリ・アラボフ脚本。イッセー尾形、ロバート・ドーソン、佐野史郎ら出演。予算的に日本語の脚本が用意できず、佐野史郎が作品全体のネイティヴ・チェックを行ったという。2006年のシネパトス銀座での日本公開時に見に出掛けたことはよき思い出。
歴史的な正確さではなく、「裕仁という謎」を描くことに集中した作品。晩年の裕仁の口をパクパクさせる癖を深海魚のメタファーと重ね、光の届かない深い闇の中で水圧に守られながら生きてきた存在が、突然光の中に引き出されたことで、周囲からは奇矯に見える「ずれ」が生まれてしまう。ロバート・ドーソンのマッカーサーが、彼は子供のようだ、と思わず口にしてしまうのも、そうしたありようとかかわるはずだ。
暗く、閉ざされた室内での静謐な場面が続くので、最初に見た時には拍子抜けした記憶がある。しかし、改めて天皇表象の系譜の中に置きなおしてみると、一つの解釈として興味深い裕仁像が提示されていると思う。 -
天皇。それは日本古来より現人神として崇拝されていた。だが、時代によってはその存在が軽く見られたり、利用されたりしていた。そして昭和。第二次世界大戦という、未だかつてないほどの戦いによって数多くの死者を生み出してしまった時代。その時の天皇、昭和天皇の心情を事細かに映している。ただここで誤解してはいけないのは、今作はあくまでフィクションであり、「天皇があまりに平和主義化されている!事実と違う!」などといって批判するのはまさにお門違いだろう。
それにしても、実際の天皇の仕草、癖をほぼ完ぺきにコピーし、さては風貌までもが似てしまったイッセー尾形はなかなかだった。彼の一挙一動に重みがあり、そこから緊迫した雰囲気を作り出す。
緊張が終始張りつめているが、時にユーモラスに、そして悲しげにたたずんでいる天皇にリアリティを感じた。 -
ロシアの監督アレクサンドル・ソクーロフが、昭和天皇を描いた映画。セリフは日本語と英語である。
前半は終戦直前、後半は終戦直後と、1945年日本の歴史的転換の数日間が舞台になっている。
ただ、前半と後半の切り替えが唐突で、なんの説明もないまま終戦直後になるので、観ていて戸惑う。
降伏すべきか否かの御前会議をしていたかと思えば、急に米軍が宮城(皇居)にやってくる場面に変わるのだ。
その点以外も、全体に説明不足でぶっきらぼう。若い人が観たらなんのことかわからない場面が多い映画だと思う。
前半は昭和天皇の一日をただ淡々と追うだけという感じで、退屈。
だが、後半に入り、マッカーサーと昭和天皇が対峙する場面にさしかかると、俄然面白くなる。画面に緊張感がみなぎるのだ。
昭和天皇がポツダム宣言を受け入れ、「現人神」たることをやめる決断をするまでを描いているのだから、もっと悲壮感あふれる映画にしようと思えばできただろう。
だが、ソクーロフはそうしない。むしろ映画全体の主調音となるのは、不思議なユーモアとペーソスである。
現実の昭和天皇の口癖でもあった「あー、そう」が、くり返し登場する。天皇役のイッセー尾形が「あー、そう」と口にするとき、画面に漂う緊張感は一瞬で脱力し、奇妙な滑稽味が漂う。
そして、ここに描かれた昭和天皇の人物像は、よい意味でも悪い意味でも「まるで子どものよう」である。
日本の監督が作ったら、けっしてこういう映画にはならなかっただろう(それ以前に、そもそも日本では作れなかった映画だと思うが)。 -
レンタルで観ました。
とても面白かったです。
昭和天皇の記憶は、昭和が終わったときにまだ一桁の年齢だったので正直あまり無いのですが、それでも天皇の苦悩や人となりが伝わってきた気がします。
そうか、昭和天皇は現人神だったんだよな…と、途中のアメリカの通訳さんの挙動で改めて思いました。
ラストの、天皇が人間宣言をしたことで消えた命…皇后役の桃井かおりさんの視線が痛かったです。
イッセー尾形さんの演技に惹きこまれました。静かに丁寧に、愛すべき人物に昭和天皇をしていました。わたしと同じく昭和天皇の記憶があまり無い妹と観たので、年上の人と観たらまた違った印象を持たれるのかな。
外国の監督さんにしか撮れない映画だと思いました。公開が危ぶまれたらしいですが、観られて良かった。
映像の落ち着いた色彩も好きでした。
以前に観たはずですが思い出せないので、もう一度見てコメントしています。
エンタテイメント性は無...
以前に観たはずですが思い出せないので、もう一度見てコメントしています。
エンタテイメント性は無いですが、良く出来た映画でしたね。
日本では・・無理じゃないでしょうか。。
右だの左だのが姦しくて(笑)。
この映画も結構物議をかもし出したようですし。
お話は予備知識がじゅうぶんないと理解できないくらいの前後関係の割愛ですが、それも無理難題なので、天皇陛下に焦点を絞ったのでしょうね。
自分の考えや思いを一切言うことが出来ない立場なのに、責任だけは山のごとく。
国体維持のためとはいえ、よくぞ考え付いた策だと思います。
イッセーさんの演技は「さすが!」でした。(チョコレートの場面は爆笑!)
ただ見ているこちらも辛くて辛くて。何度も目を背けました。
マッカーサーとの会見の場面こそ、一番知りたかったんですけどね。
微かに日本を揶揄するものを感じたのですが、私の穿ちすぎでしょうか?
コメントいただきありがとうございます!(^o^)/
nejidonさんも観られましたか!(^o^)...
コメントいただきありがとうございます!(^o^)/
nejidonさんも観られましたか!(^o^)
イッセー尾形、迫力の熱演が凄かったですね~。
イッセー尾形がここまでやれたのも、たぶん監督がアレクサンドル・ソクーロフだったからこそで、やっぱり日本での製作は無理だったでしょうね。(^_^;
物議を醸したということですが、やはりイッセー尾形の演技はかなりやり過ぎで度を超えているようだったし、無理からぬところかな・・・。(^_^;
まあこれも監督のねらいなんですよね。
私は観ていて、何度ももう勘弁してやってくれと思ってしまいました。(^_^)
nejidonさんの仰られる通り、この映画の力点はやはりマッカーサー元帥との会見の場面にあったと思います。
レビューに追記しまいたが、これは東西の「神」対決でもあり、nejidonさんの言われる通り、西洋的視点でみた日本への揶揄が込められていたのだと思います。
いまこの映画を観てわれわれが、「マッカーサー元帥」の方をまともだと思えるということは、「われわれ」もいよいよ西洋ナイズされてしまったということですかね!?(^_^;
まあしかし、あのように重~い責任だけを背負わされる制度はやはりみていて哀しいものがあります・・・。