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- / ISBN・EAN: 4571211608560
感想・レビュー・書評
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昭和41年6月 30日未明、静岡県清水市で味噌製造会社専務の自宅が放火され、一家四人が殺害されたという事件。日本でとても有名な事件のひとつである、この事件に関する作品です。
自分の知らないところで冤罪で悩んでいる人がいるはずである現実。そして他人事ではなく、自分にも降りかかってくるかもしれないという気持ちになりました。裁判は裁判官という仕事ができる資格をもった人間が、事件にかかわったであろう人間を裁きます。当たり前のことですが、人間が人間を裁くのですから、簡単なことではありません。無実の人に対して、裁く人、疑いをかけた人が精神的に追い詰めていったら無実だということとは反対のことを言ってしまうかもしれません。辛いことからは逃げたくなる気持ちは普通のことです。
ただ、一番難しいのは人権という言葉。社会の秩序を保つための法律が人権という言葉ひとつで揺らぎ始めます。冤罪はあってはならないことですが、この事件をとおしてみる法律でも人権という言葉でもまとめられない命の重さ、人が人を裁くという社会の責任を重く重く考えさせられました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
『BOX〜袴田事件 命とは〜』(高橋伴明)
当たり前のような平和な日常を送っていられる法治国家の日本。しかし、法治国家としての成熟度はまだまだ低いもので、私たちが思っている以上に(表面的に使われている言葉ほどには)‘人の命’は重くないことが伝わってくる。
この映画に描かれているように、司法行政に携わっている人たちがこのような人々たちであることことを考えると、私たちの日常は実は薄氷の正義の上に存在しているに過ぎないのかもしれない。
裁判官の熊本典道は自らが書いた判決文が、袴田巌を死刑囚と宣してしまった。そのことが彼の人生を大きく変えていく。
自らが目指していた司法の姿、それを志した彼の中に宿っていた思いが、死刑囚袴田巌の無罪を勝ち取ることに向けられる。だが、そこには分厚い壁が立ちはだかる。それにもがき苦しむ熊本典道の姿も、無辜の民袴田巌の茫然自失の人生と並行して描いている。
2017/06/14 -
制作年:2010年
監 督:高橋伴明
主 演:萩原聖人、新井浩文、葉月里緒奈、石橋凌
時 間:117分
音 声:日:ドルビーステレオ
昭和41年6月30日未明、清水市の橋口味噌工場が放火される。
その焼け跡から、一家4人が刺殺された焼死体が出てくる。
立松刑事は、元プロボクサーで味噌工場従業員の袴田巌に犯人の目星をつける。
理由は、工場の従業員のほとんどが親戚や友達なのに袴田だけよそ者であること、殺された専務は柔道2段だったのでそれと渡り合える格闘技経験者であること、袴田は妻に逃げられ借金があると噂されていたことである。
警察は袴田を逮捕するが、証拠不十分で釈放する。
しかし袴田は、再び逮捕される。
当初、袴田は犯行を否認するが、勾留期限3日前に自白し、起訴される。
袴田と同じ昭和11年生まれの裁判官・熊本典道は、主任判事としてこの事件を担当する。
袴田は第1回公判で起訴事実を全面否認し、一貫して無実を主張する。
熊本は警察の取り調べに疑問を持ち、供述調書を調べる。
すると、袴田と肉体関係を持った橋口の妻に頼まれて犯行に及んだという自白が、幼い子供と老母と一緒に暮らす金欲しさからと、犯行動機が日替わりで変わっていた。
立松刑事ら関係者が幾人も証言するが、決め手を欠いた裁判は長期化する。
事件から1年以上経った昭和42年9月13日、法廷に新証拠が提出される。
工場を再度捜査して見つけた、血染めの犯行着衣だった。裁判は袴田有罪に傾くが、熊本は新証拠にも意図的なものを感じ、有罪判決に反対する。
しかし3人の裁判官のうち反対は熊本だけで、袴田は有罪となる。
慣例により、主任判事である熊本が死刑判決を言い渡す判決文を書くことになる。
裁判後、熊本は裁判官を辞職する。
大学で刑事訴訟法の講義をしながら、警察による証拠を実証し、袴田を無罪にするのに有効な実験の報告を弁護士に送る。
しかし熊本の苦しみは消えなかった。
昭和55年11月19日、最高裁で上告が棄却され、12月12日、袴田の死刑が確定する。 -
「かごめかごめ かごのなかのとりは いついつでやる よあけのばんに つるとかめがすべった うしろのしょうめんだあれ」
結局僕らにも冤罪が降りかかるという意識なしには、司法の制度の改革なんてありえないし、それは、この映画を見れば、司法制度の中で行われていることはとってもすごいことではなく、単に”普通の人間”が”不通の人間”さばいていることがよくわかるだろう。そう。裁判官の間違いや、事件の立証とは関係のない裁判官の勝手な第一印象による影響。メンツなんかによる捜査への影響。そして、無実の人でも、精神的に追い詰めれば自白でもなんでもしてしまう人間の脆さ。どんな人でも。裁判員制度が始まり”普通の人”である私たちも”普通の人”を裁くプロセスに参加せざる負えなくなった。そういう意味では、この映画の裁判官と死刑囚どちらにも私たちはなりうる。それを心に持ったうえで、社会の秩序の維持をとるのか、容疑者に対する人権をとるのかを考えねばならない。その時は、とにかく自分が被害者・課題者・警察・検察・裁判官・弁護人になって考えてみるミクロな思考が必要だ。 -
少し前に袴田さんが釈放された時のニュースを見て、この事件を知った。ただの自白が判決にこんなにも影響を与えるのかと驚いた。映画としては、どこまでがフィクションなのかが分からないので、全てを鵜呑みには出来ないと思う(家族の亀裂など)。ただ、この映画は冤罪であるという証拠、つまりいくつかの矛盾について映像で起こしてくれていたので、理解しやすかったと思う。警察にも裁判にもお世話になったことはないので分からないが、今は人を裁くことにおいて、もっとまともなシステムになっていることを願います。
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今も進行中の話なので結末もわかっているのに、こんなにも悲しいとは、、、。
取り調べの可視化は必要だと思う。あんなひどい取り調べにあったら。正しくなくても認めてしまいそう。
あとなんで日本の裁判はカメラで撮影できないのか?法定画家とかなんのためにいるのか?ほんとによく分からない。
この事件の動きが春にはあるといいなぁ。と心から思います。
裁判官にはあまりいいイメージがないけど。ほんとしっかり仕事してくれんと困りまくる。
この映画が多くの人に届くといいな。 -
こんな事件があったとは知らなかった。知らない、と言うこと自体、当事者からすれば悲しいことだ。
冤罪…かもしれない事件の話。映画は、冤罪である、とのスタンスで撮られている。
こんな風にして冤罪の犯人に仕立て上げられていくのか、と怖くなる。もし自分が陥れられたら、と想像する。
古い事件だそうだが、当時の科学なら仕方ないにしても、今なら最新の科学で証拠を再調査だって出来るだろうに。この映画が2010年作で、犯人とされた人はまだ死刑が執行されずにいるのだから、助ける会の人達もその辺は考えてるだろうに。そんな細かい事は描かれていない。
しかし、冤罪と聞くといつも思うのが、では真犯人は?と言うこと。
無実の人が犯人に仕立て上げられて苦しんでいる、と言うのは本当に辛いことだ。それは同時に、真犯人が罪を咎められずにどこかで涼しい顔して過ごしている、と言う恐怖でもある。被害者あるいは遺族からすれば、恐怖と同時に、本当の怒りをぶつける相手の顔がもしかしたら違うのかもしれない、分からない、と言うどうしようもない苛立ち、腹立たしさでもある。
それとも遺族は悲しさや怒りのあまり、世間や誤認捜査をする警察と同じように、冤罪の犯人を真犯人だと思い込もうとしているのだろうか。
誰が悪いのか、真犯人が悪いのに違いないが。誤認捜査する警察、煽るマスコミ、認める裁判官、全てが思い込みと言う波にのまれてしまう。
映画では、冤罪だと思いつつも死刑を宣告する主文を書く裁判官は、良心の呵責、自分の非力さに、自分自身の人生も狂わされていく。
冤罪は色んな人を巻き込むだけ巻き込んで、狂わせるだけ狂わせて、真犯人は見つからず、被害者は殺され損で、何ひとつ良いことがない、本当に恐ろしいものだ。
これをもっと、感情的ではなく、論理的に、現状を考えて解決策を探すアタマがあれば面白い感想文になったのに。
映画は、たんたんとしたトーンで進められていったが、とても引き込まれる内容で、全く退屈しなかった。劇的でもなんでもないのにね。秀作です。
ま、最後の方のイメージ映像は「?」だけど。 -
自分自身「袴田事件」について深くを知らない為、その真偽については触れないが、見ている間は終始引き込まれ、特に現在も拘留中の事件であることを思うと”冤罪”について考えさせられた。
映画としては、ラスト近くのイメージシーンには違和感を感じたが、事件の検証や、検事や裁判官とのやり取りなど、法廷物としても興味深かった。
とりあえず、見て損はないと思います。 -
一人でも多くの人に知って欲しい。これは事実で袴田さんの尊厳はいまだ奪われたままなのだ。