ヤノマミ [Kindle]

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  • NHK出版
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感想・レビュー・書評

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  •  「人間とは何か? 」考え続けるしかない。僕らも人間だし、アマゾンに暮らすヤノマミもまた人間である。
     著者は通算150日のヤノマミと同居しながらの取材の後東京に帰ると、「体調は悪化する一方だった。食欲がなかったし、食べるとすぐ吐いた。十キロ以上減った体重はなかなか元には戻らなかった。」「外に出ると、よく転んだ。まっすぐ歩いているはずなのに壁に激突することもあったし、ぼぉーとしてトイレに行ったら、そこが女子トイレだったこともあった。何かが壊れたようだった。」「なぜか夜尿症になった。週に二、三回、明け方に目が覚めると、パンツとシーツがぐっしょり濡れていた。」という状態になってしまった。僕らの価値観とはまったく異なる世界で生きているヤノマミの世界で見たもの、聞いたもの、匂いや空気感・・そういったものが、まったく消化できない。たぶん消化する必要も、理解する必要もない、というかたぶん出来ないのだろうと思う。しかし、否だから「壊れたよう」になってしまった。
     この本で僕らは追体験する。そして、「人間とは何か」を考えることになる。読む前よりもずっと、人間って複雑なものだと、それだけはわかった。

  • 「三回であれば三か月後か三か月前のはずだった。ただ、僕たちには、それが過去のことを言っているのか、未来のことを言っているのか、最後までわからなかった。
     彼らの言葉を訳してみると、今日の狩りから、数年前に死んだ両親の話、そして天地創造の神々の話までが、時制を自由に行ったり来たりしながら語られていた。今日の獲物の話をしたすぐ後で、大地や革や生き物を創造した神についての話が続き、次に自分が子どもの時の思い出話といった具合に、何の脈絡もなく時間軸が移り変わるのだ。彼らは昨日のことを一万年前のことのように話し、太古の伝説を昨日の出来事のように語った」

    「ヤノマミのしきたりでは、死者に縁のものは死者とともに燃やさねばならない。そして、死者に纏わる全てを燃やしたのち、死者に関する全てを忘れる。名前も、顔も、そんな人間がいたことも忘れる。彼らは死者の名前をけっして口にしない」

    「燃やすのは縁のものだけでない。彼が祭りでワトリキに来た時に蔓を切った場所や、野営をするために木を切り倒した場所も燃やしてきた。私たちが死者の名前を口にしないのは、思い出すと泣いてしまうからだ。その人がいなくなった淋しさに胸が壊れてしまうからだ。ヤノマミは言葉にはせず、心の奥底で想い、悲しみに暮れ、涙を流す。遠い昔、私たちを作った〈オマム(ヤノマミの創造主)〉はヤノマミに泣くことを教えた。死者の名前を忘れても、ヤノマミは泣くことを忘れない」

    「だが、同居を始めてちょうど百日目、僕たちは出産現場に初めて立ち会い、百二十日目には子どもの亡骸を白蟻に食させる儀式を目の当たりにした。そして、百三十日目、十四歳の少女が生まれたばかりの子どもを僕たちの目の前で天に送った。少女は未婚者で、子どもの父親が誰なのか、自分でもわからないようだった。少女は複数の男と情を交わしていた。懐妊から十回の満月が過ぎ陣痛が始まると、少女は痛みで泣き続けた。丸二日、泣き続けた。四十五時間後に無事出産した時、不覚にも涙が出そうになった。おめでとう、と声をかけたくもなった。だが、そうしようと思った矢先、少女は僕たちの目の前で嬰児を天に送った。自分の手と足を使って、表情を変えずに子どもを殺めた。動けなかった。心臓がバクバクした。それは思いもよらないことだったから、身体が硬直し、思考が停止した。
     その翌日、子どもの亡骸は白蟻の巣に納められた。そして、白蟻がその全てを食い尽くした後、巣とともに燃やされた」

    「緊張を強いる「文明」社会から見ると、原初の森での暮らしは、時に理想郷に見える。だが、ワトリキは甘いユートピアではなかった。文明社会によって理想化された原始共産的な共同体でもなかった。ワトリキには、ただ「生と死」だけがあった。「善悪」や「倫理」や「文明」や「法律」や「掟」を越えた、剥き出しの生と死だけがあった。一万年にわたって営々と続いてきた、生と死だけがあった」

    「ワトリキには身体障害者が一人もいない。障害を持って産まれる確率は僕たちの社会と変わらないはずだから、何らかの「選別」が行われているのだろう。障害を持った人間が一人で森を生き抜くことはできない。おそらく、精霊のまま天に返していると思われた。
     以前、別のヤノマミの集落(ワトリキより「文明」との接触頻度の高いスルクク)を訪ねた時、FUNASA(ブラジル国立保健財団)の現地職員が、てんかんのために森に捨てられたヤノマミの子どもを助け、保健所の中で育てていた。子どもはジョイナスという名前で呼ばれていた。ジョイナスはシャボノではなく保健所で暮らし、FUNASAの職員と同じものを食べていた。そのせいか、同世代のヤノマミに比べ、身体が大きかった。ただ、持病は治ってはおらず、僕たちが滞在した数日の間でも、何度か発作に襲われた。その度に、ジョイナスは涙を流しながらガタガタと震えていた。
     僕にはわからなかった。FUNASAのしたことは、僕らの社会であれば誰もが当然のことだと言うだろう。だが、ジョイナスと会った時、我が子を捨てた親が「悪」で、FUNASAの職員の行為が「善」だとは単純に言えないような気がした。かと言って、「文明」に生きる者が「文明」の力によってヤノマミの運命を変えた、と安易に批判することも躊躇われた。職員は敬虔なカトリックの信者で、心からジョイナスのことを考え、「命」を救ったように思えたからだった。
     唯一確かなことは、森から救い出された瞬間にジョイナスはヤノマミではなくなったということだ。彼は「森の摂理」外の行為によって「命」を救われた。おそらく、ジョイナスは森の暮らしに二度と戻ることはできないはずだった。だから、ジョイナスがヤノマミの世界に戻りたいと思わないことだけを願った」

    「子どもを送るモシーニャを遠くから見ていて、精霊のまま天に送る場合と人間として迎え入れた場合の儀式の違いについて思った。人間として迎え入れた子どもの胎盤は森に吊るされ、白蟻に食べさせる。精霊のまま天に送る場合は子どもと胎盤もろとも白蟻の巣に入れ、白蟻に食べさせたのち、巣ごと焼き払う。どちらも蟻だ。似ていると言えば似ているが、明らかに手間と時間が違う。精霊のまま天に送る場合は、出産直後に白蟻の巣を探し亡骸を納めるという手間もあれば、長い時間をかけて巣を燃やす手間もある。この違いは何なのだろう。
     僕には「儀式」という言葉しか浮かんでこなかった。手間をかけて少しずつ燃やす儀式。子どもを天に送った母親に課せられた儀式。森の摂理の中で生きることを確認する儀式。
     白蟻の巣がすっかり灰となった時、モシーニャは僕たちに近づき、〈マッパライオーマ(終わった)〉とだけ言うと、シャノボに戻っていった。
     数日後、夜中に女の泣き声で起こされた。僕たちの囲炉裏の向かい側、ペデリーニョとモシーニャの囲炉裏のある方向だった。泣き声は余りに鋭くて、近づいて確かめることなど、とてもできなかった。闇夜に女の泣き声が何時間も続いた。
     翌朝、ペデリーニョが僕らの囲炉裏に遊びに来た。ペデリーニョが言った。
    「妻がずっと泣いていたから眠れなかった」
     どんな表情をしていいのか、分からなかった。だから、言葉が分からないフリをした。ペデリーニョはそんなことを全く気にせず、何度も目を擦って〈マリシ、マリシ(眠たい、眠たい)〉と言った。
     モシーニャの嗚咽は、その後幾夜か続いた。」

    「スザナは七年前に結婚し子どもが三人いた。今回、スザナが妊娠した時、夫は嬉しそうではなかった。ヤノマミの男は妊娠・出産には関心を示さないから、深い意味はないのだろうと思っていた。だが、夫はポルトガル語で「子どもが増えると狩りが大変になる。もう子どもは欲しくない。でもスザナは喜んでいる。困っているが仕方ない」と言った。
     ワトリキにおける出産のルールを聞いたのは、その夫からだった。精霊として産まれてくる子どもを人間として迎え入れるのか、天に返すのか、その決定権は母親にあること。母親の決定は絶対で、周りの者たちは理由も聞かずただ受け入れること。「仕方ない」という夫の言葉には、自分は欲しくないけど仕方ない、どうしようもない、というニュアンスが込められていた」

    「そして、陣痛から四十五時間後の午後四時過ぎ、七か所目の森にいた女たちから大声で呼ばれた。「こっちへ来い」というのだ。その方向を見ると、森の中で女たちが笑っていた。ついに産まれたのだ。四十五時間眠らず、痛みで泣き続けた末に、ローリは子どもを産み落としたのだ。僕は心の中で「よく頑張った」と言いながら、女たちに近づいていった。不覚にも涙が零れてきた。十四歳の少女が長い時間苦しんで、命を産み落としたのだ。「おめでとう」と言いたかった。一刻も早くローリの顔を見て、よく頑張ったね、と祝福してあげたかった。
     だが、それは、僕の尺度で推し量った勝手な思い込みに過ぎなかった。僕は「森の摂理」を忘れていただけだったのだ。女たちに呼ばれてから一分後、僕は生涯を通じてもこれほどのショックを受けたことはないと思われる、衝撃的な光景を目の当たりにすることになった。
     ローリはすっかりやつれていた。暗い表情のまま俯いていた。その傍に子どもが転がっていた。女の子だった。子どもは手足をばたつかせていた。ローリの母親が来て、産まれたばかりの子どもをうつぶせにした。そして、すぐにローリから離れた。子どもの前にローリだけが残された。女たちの視線がローリに集まった。
     一瞬嫌な予感がしたが、それはすぐに現実となった。暗い顔をしたローリは子どもの背中に右足を乗せ、両手で首を絞め始めた。とっさに目を背けてしまった。すると、僕の仕草を見て、遠巻きに囲んでいた二十人ほどの女たちが笑い出した。女たちからすると、僕の仕草は異質なものだったのだ。失笑のような笑いだった。僕はその場を穢してしまったと思った。僕のせいで、笑いなど起きるはずのない空間に笑いを起こしてしまった。僕は意を決してローリの方に振り返った。視界に菅井カメラマンが入った。物凄い形相で撮影を続けていた。
     僕たちは見なければならない。そう思った。そもそも、僕たちから頼んだことなのだ。出産に立ち会わせてくれと頼んだのは、ナプである僕たちなのだ。僕たちは見届けねばならない。僕は何度も自分にそう言い聞かせた。
     自分の髪が逆立っているように感じられた。心臓が口からせり出しそうになるほど、激しい動悸も襲ってきた。そして、足が震えて、うまく歩くことができなかった。だが、僕たちは見なければならない。ここで見なければならない。僕は、それだけを唱え続けながら、震える足で森の中に立っていた。
     たぶん、僕はローリだけを見ていたのだと思う。彼女は表情を殆ど変えなかった。憔悴しきっていたのかもしれない。暗い瞳を子どもの方に向けながら子どもを絞め続けていた。時おり、女たちがローリの方を指さして何やら言った。小さな子どもたちも集まって来て、親の影に隠れるようにして、ローリの行為をずっと見つめていた。
     その時、ローリの周りには二十人以上の女たちが集まっていた。女の子どもたちもいた。これも儀式なのかもしれないと思った。みんなで送る儀式。精霊のまま天に返し、みんなで見届ける儀式。なぜその子は天に返され、自分は人間として迎え入れられたのか、それぞれが自問する儀式。女だけが背負わねばならない業のようなものを女だけで共有する儀式……。
     その長い長い儀式は、天に返された子どもの亡骸がバナナの葉に包まれた時、終わった。森に集まっていた女たちが一斉に踵を返し、シャボノに戻り始めた。瞬く間に森から誰もいなくなった。バナナの葉に包まれた子どもの亡骸だけが残された」

    「僕はこう思うしかなかった。
     もしかすると、ローリ自身にも理由は分からないのかもしれない。彼女は僕が想像できるような小さな理由からではなく、もっと大きな理由から我が子を精霊のまま天に送ったのかもしれない。その理由とは、言葉で表すことができないぐらいの、途轍もなく大きなものなのかもしれない。それなのに、理由や基準を知りたいということは、彼女の決断を僕たちの社会の尺度から測ることなのではないか。そして、そもそも、けっして語られることのない理由を考えることに、何の意味があるというのか。
     菅井カメラマンは今を生きる子どもたちを狂ったように撮り始めた。雨が降るとパンツ一丁になってシャボノを出ていき、子どもたちと一緒に走り回りながら撮影を続けた。
     僕はヤノマミの夫たちと同様、受け入れるしかないと思うようになっていった。だが、そう思おうとしても、心の動揺は収まらなかった。なぜ、これほど心が掻き乱されるのだろう。あれこれ考えてはみたものの、考えれば考えるほど、動揺は深まっていくようにしか思えなかった。
     僕の中で何かが崩れ落ちそうだった。考えれば考えるほど、何かが壊れてしまいそうだった。だから、眠ろうと思った。眠れば救われると思った。それなのに、うまく眠ることもできず、心身は憔悴していった。そのうち、立っていることさえ辛くなり、歩けば木の根に躓いてよく転んだ」

    「途中、川べりに大きな白蟻の巣があり、菅井カメラマンが白蟻の巣を見ながら、「彼らは森を食べて、森に食べられるんだなあ」と言った。
     明日を生きるために魚を捕る場所で、子どもを納める白蟻の巣が激しく雨に打たれていた。彼らが生まれ、殺し、死に、土に還っていく円環を思った。彼らは体験的に自分がその円環の一部であることを自覚しているように感じられた。たぶん、彼らは全てを受け入れている。そう思った。森で産まれ、森を食べ、森に食べられるという摂理も、自分たちがただそれだけの存在として森に在ることも、全てを受け入れていると思った。
     もちろん、それが正しいのか、僕には分からない。僕に分かることがあるとすれば、これからも人は生まれ、猿も生まれ、ジャガーも生まれ、蟋蟀(こおろぎ)も生まれ、蟻も生まれるということだけだ。乾季と雨季が何度も繰り返すように、生も死も何度も繰り返す。生まれて、死んで、また生まれる。それだけのような気がした」

    周囲の環境と共生する、自分たちの矩をこえない知恵。エージェント・スミスは人類を際限なく増殖して周囲の環境を食い尽くすウィルスになぞらえたが、環境に対する依存度が高ければ、共同体として維持できる人数はおのずと限られる。命の選別が行われるのは、限られた食料をめぐって殺し合ったり、周囲の環境を食い尽くして共同体が全滅するのを避けるための、ルールなのだろう。

    年に1回の発情期ではなく、毎月訪れる月経周期を考えれば、人類は、順調に減ってくれなければ、維持できないほどの赤ん坊を生める仕組みを手に入れた。それは、脳が大きくなりすぎて、赤ん坊が母体から出てこれなくなるのを防ぐために、数年は自立・自活できないほどかよわい存在(つまり本来ならまだ胎内にいるべき状態)で生まれてくる人間(ネオテニー)が招いた必然なのかもしれないが、食う食われるの過酷な生存競争下ではギリギリ生き残るために不可欠だったその仕組みが、自然界に天敵がいなくなるほど知恵をつけた人類にとっては、放っておけば必要以上に人口が増える困った仕組みとして、そのまま受け継がれた。

    自然界に個体数を左右するほどの天敵がいなくなった人類の、必要以上に増えすぎないように人口を調整する機能には、おそらく「命の選別」と「戦争」という選択肢がある。前者を選べば、部族間の殺し合いを避けることができるかもしれない。それを平和と称するなら、おそらく平和なんだろう。だが、そこには、生まれてきたばかりの赤ん坊を一定の割合で殺すという、厳しい現実が待ち受ける。

    「多くの先住民がそうであったように、ヤノマミの場合も、最初の「文明」は宣教師によって持ち込まれることが多かった。ブラジルとベネズエラに広がる深い森は南米に残された最後の空白区とも言える場所で、宣教師にとっては一生を捧げるに相応しい「未開」の地でもあったからだ。古くはイエズス会やフランチェスコ派、近年でもサレジオ会などのカトリック教団やプロテスタントの原理主義教団が深い森の中で布教に勤しんでいる。
     歴史を振り返った時、布教活動には文化侵略の一面があることをおそらく誰も否定できない。熱心に布教すればするほど、先住民の神を否定し、精霊を否定し、結果として異文化に生きる人々の生き方を否定することになる。また、手段を選ばない強引な布教活動は、結果として領土拡大の尖兵的意味を持っていた。
     十七世紀に先住民への布教に反対したラス・カサスという聖職者がいたが、彼は王や教皇に宛てた『インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述』の中でこう述べている。
    「布教は始まりの一歩だ。我々は、十字架を先頭に、後ろには軍隊を従えて、新大陸を制圧しているのだ」
     また、レヴィ=ストロースは『悲しき熱帯』の中で十八世紀に書かれたというサレジオ派の連絡文書を紹介している。そこには布教を成功させるための、彼らなりのプラグマティックかつ冷徹な作戦が以下のように記されていた。
    「先住民を教化するには、まず、彼らの家を変えることだ。家は彼らの伝統や信仰と一体となっている。彼らの家を壊せば、信仰は失われ、伝道がやり易くなる」

    「厄災の時が来る(マプラウ 一九七〇年代前半)

    空が光った 赤い光が落ちてきて ナプが下りてきた 笑いながらシャボノの真ん中に穴を掘って何かを埋めた ナプが立ち去ると 穴が燃え始めた ヤノマミの身体にはジャガーのような斑点が現れた 呻く者 泣く者 横たわる者 シャボノから笑い声が消えた シャボリをしても 精霊は答えない 父が死んだ 母も死んだ 妻が死んだ 兄弟も死んだ 仲間も死んだ みんな死んだ

     この話には、コロンブス以降、五百年にわたって南米の先住民を苦しめてきた悲劇が語られている。長い間隔絶されて生きてきたアメリカ大陸の先住民には病原菌に対する免疫がなかった。そのため、文明側の人間が麻疹や天然痘を持ち込めば、ひとたまりもなかったのだ。
     こんな記録も残っている。十八世紀のフランス人の一団がアマゾンの奥深くにやって来た。彼らは土産として毛布を持ってきた。その毛布とは天然痘患者が使っていたものだった。翌年、フランス人がその村を再訪すると、村には誰もいなかった。全員が死んだのだ。フランス人はその土地を国王に献上した」

    「シャボリ・バタは、長い放浪の過程で絶滅しかかった村をいくつも見たと言った。そして、その度に、生き残った者たちを仲間に加えていった。それは集団の数を守る意味もあったのだろうが、弱った者たちが肩を寄せ合い、ともに助け合っている姿に重なった。
     長老の一人が、当時を振り返って、こう話してくれた。
    「あなたたちはしっかりと広めて欲しい。自分の家に帰って家族に話して欲しい。ナプが来る前、ヤノマミは幸せだったと。ナプが病気を持ってきて、私の父も母も祖父も祖母も叔父も叔母もみんな死んでしまった。私は一人ぼっちになった。こんなことは二度と起きて欲しくない。ヤノマミがナプの病気で死ぬところを見たくない。私たちは逃げた。山の中を歩いた。その時もたくさん人が死んだ。今、ワトリキにいる者は生き残った者たちだ。とても苦しい思いをしてきた者たちだ。忘れないで欲しい。私たちはもっと大きなグループだった。とても大きなグループだった。その頃のことを思い出すと、今でも苦しくなる。思い出すだけで悲しい。どうして、私たちの祖先の土地でそんなことが起きたのか。あなたたちはしっかりと伝えて欲しい」
     ワトリキは、生き残った人々、肉親を失った人々が作った集落だった」

    「治療が続いていたある日の深夜、シャボリ・バタが突然ハンモックから起き上がり、天に向かって叫び出したことがあった。何と言っているのか、その場では分からなかった。ただ、余りの突然さと声の鋭さに身体が震えた。その声は何日も寝ていた人間の声とはとても思えぬほど強く、切実に聞こえた。
     日本に帰った後、その部分を記録したテープの翻訳があがった時、僕は震えた。シャボノでその声を聞いた時以上に震えた。
     シャボリ・バタは、何度も何度もこう叫んでいた。
    「私の精霊がいなくなってしまった! 私の精霊が死んでしまった!」
     その痛々しい声は、今も耳の奥に残っている」

    担ぎ込まれた病院で急性白血病だと診断された母親があれよあれよというまに亡くなってしまったその日、「お母さんがあれで大変だろうから」といつもの病院に入院させてもらっていた父親のもとを兄弟3人で訪れた。ふだんはもう、何を言ってもほとんど反応を示さなくなっていた父親は、「みちこさんが死んでしまった。最後に会わせられなくてごめん」といった私を見て、突然大声で泣き出した。「なんで。おれのこと最期まで見てくれるんじゃなかったのかよ。なんでだよ。なんでだよ」それを見た瞬間、私の涙腺も崩壊して、もうぐちゃぐちゃになった。「ごめん、ごめん、ごめん」それしか言えなかった。いまでもそのときのことを思い出すと、涙があふれてくる。その日以来、父親は抜け殻のようになり、以前にも増して無反応になった。父親がこの世を去ったのは、それから3か月後のことだった。

  • アマゾンの奥で原初からの暮らしぶりを続けるヤノマミ族と、述べ150日間の同居生活をしたルポ。現代社会の価値観では測れない価値観(現代社会の中でも民族が違えば多かれ少なかれ、そういう所はあるけど)に驚きつつ、本書でも触れているように、一旦「文明」に触れてしまった後の変質も早そうだと感じる。描かれているのは10年前のこと。今、ヤノマミ族に何が起こっているのか、今なお持ち続けている価値観は何なのかが知りたい。

  • テレビマンらしい短い文と、客観的な情景を積み重ねる書き方に、最初どうしても淡白な印象がぬぐえなかった。

    しかし、生まれてきた子供を精霊のまま天に返すのか人間としてこの世界に受け入れるのかの選択を、その子供を産んだ女性がたった一人で決断することを描く場面では、その描写方法が非常に効果的にはたらいていた。息をつくことも忘れ、その場面に読みいってしまった。

  • アマゾンの“未確認”部族、政府機関が初公開https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20180825-00000000-jnn-int というニュースが流れてきたタイミングでちょうど読み終えていた本。ナスDの部族アースなんかもテレビで注目集めてるけど、3人の取材チームが目にしたのは、笑いなど微塵もない未開の地の暮らし。生と性と死がないまぜになっている生き方って、日本でいえば縄文時代ごろなんでしょうか?文明に接触しないまま残ることができている理由って、ナンなんだろう。

  • アハフー!

  • 産んだばかりの子供を絞め殺して精霊として天に還す母親が印象的。文明を憎みながらもその文明にじわじわと侵食されて行く原住民。真理が剥き出しのヤノマミ族の生活に向き合った筆者に、帰国後、幼児退行のような症状が出たことは、現代の私たちの生活や価値観への何らかの批判の示唆。

  • 普遍性とか、多様性とか、なんなんだろうなぁ。

  • 衝撃的だった。
    最近読んだ本で一番面白かった。

    漂白される社会もそうだけど、文明社会は俗、悪、暴を見えないようにしている。

    でもヤノマミはすべてが同居している。

    子供は出産して連れて帰るまでは精霊。

    性におおらかなのに年子がいない事実。

    障害者がいない事実。

    すべて大きな何かの中での出来事だ。

    文明社会ではありえないことも、ヤノマミではなんら特別なことじゃない。

    まるで、IQ84の二つの月のように。

  • う〜ん。こんなに心が揺さぶられる本は久しぶりに読みました。3.11 の後だけに、文明って幸せをもたらすのか考えちゃいますね。

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著者プロフィール

国分拓(こくぶん ひろむ)
1965(昭和40)年宮城県生れ。1988年早稲田大学法学部卒業。NHKディレクター。著書『ヤノマミ』で2010年石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、2011年大宅壮一ノンフィクション賞受賞。

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