NHK「100分de名著」ブックス 般若心経 [Kindle]

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感想・レビュー・書評

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  • 「般若心経」ウィークではないが、先週に引き続いての「ぎゃていぎゃてい」

    今回は仏教の歴史を俯瞰しながら「般若心経」の意味、ポジションを解説。

    玄侑宗久さんの現代語訳では、その意味、哲学を通じて、異次元の世界を感じさせてくれたが、こちらは何となく仏教のバックステージというか、仏教の伝承者の現実的な意図を感じさせてくれる本

    もちろん中身は刺激的で、「般若心経」は、開祖である仏陀の教えを否定しているということを基本としての解説なのである。そして、それは「小乗仏教」「大乗仏教」の違いであり、ようやくこの違いをスッキリ理解することが出来た。

    仏陀本来の教えが、自らのための宗教であるところは、ユダヤの「選民思想」を思い出させてくれたし、本来は理論的な教えというのも、全てのことを旧約聖書に照らして神の意志を確認しようとするユダヤと似ているように思えた。
    また大乗仏教の利他的なところは、リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」を彷彿とさせくれたし、なにより仏陀の教えではない「般若心経」が仏教の経典として存在することは、ユダヤのタルムードと似通った気がした。


    「般若心経」の力は「神秘」と作者は言うが、
    まさしく異次元であり、ユダヤの神の領域のような気がした。
    そしてそれは、おそらく言葉を生み出す以前の脳だけが反応するような何か。
    音としてしか認識できない呪文なのだろうと感じた。

  • それにしても、何も知りませんでした。お釈迦様の仏教と日本に伝わった大乗仏教の根本的な違い。何となく、日本の仏教は中国を経由して、土地土地の道教や神道といったものの影響を受けて変質していることは知っていましたが、ここまで違うとは思っていませんでした。
    お釈迦様の仏教では、「われわれが普段、そこに実在すると思っている様々な対象物は、それらを寄せ集めた架空の存在、実態のない虚像であり、真の実在は「五蘊」「十二処」「十八界」の各項目だけである。これが『ここに自分というものがあるという思いを取り除き、この世のものは空であるとみよ』の考え」と整理しているのに対し、大乗仏教では、お釈迦様が真の実在といった「五蘊」「十二処」「十八界」の基本要素に至るまで「実在しない」と述べています。お釈迦さまは「例えば『私』とか『石』とか『車』とかいった存在は、一見すると安定的に常住しているように見えるが、実際は、単にそれらを形成している基本要素の集合体に過ぎないので実態がない。そして常に変化し続けている。それが『空』である。この世に『ある』といえるのは、最小単位の基本要素(「五蘊」「十二処」「十八界」)と、その間に成り立つ法則性である」と述べている。きわめて明快。一方、般若心経では「お釈迦様のいう基本要素自体も実態を持たない架空の存在なのであり、この世を構成している基本要素などない。「五蘊」も「十二処」も「十八界」もない。したがって、その要素間に働いていると考えられている因果則も存在しない。この世はそのような理屈を超えた、もっと別の超越的な法則によって動いている。これが『空』である」と主張している。

    また、お釈迦様の仏教では「あらゆる苦しみの根源は『無明(無知=人間の煩悩のうち最大のもの)』にあり、この無明のせいで様々な良からぬことが連鎖的に起こり、最後には耐えがたい『老死』の苦悶に悶えることになると考え、完全に業を滅し、もはや二度と輪廻することのない安らかな『涅槃』に至ることを仏教の至上目的」と考えているのに対し、大乗仏教では「この世で自分がなした善行のエネルギーは、そのまま輪廻の中で使ってしまうのではなく、ぐっと溜め込んでおいて悟りをひらくエネルギーとなり、結果として二度と生まれ変わることのない涅槃に入るエネルギーになるという考え方」になるようです。俗世で行う善行が、そのままブッダになるエネルギーに使えるという考え方です。そして、般若経では「般若経を唱えること」を究極の善行とみなし、般若経を唱えることで、我々は大変なスピードでブッダになることができると考えられているようです。
    なんと、なんと、なんとです。まだ理解したわけではないけど、何となく大乗仏教のアウトラインを捉えられたような気がする。大変勉強になりました。

  • - 『般若心経』の世界観を端的に言えば「分析の否定」。目の前にある存在を区分けして解体し、その要素を知ることで、「これですべて理解できた」と納得する、そういう姿勢を否定している。「そこにあるものは、そこにあるものとしてそのまま理解せよ。しかもその理解はあくまで人の知恵による限定的なものであり、その奥には人智を越えた法則があるということを承知せよ」ということ。
    - 分析という作業には必ず、「ここで線引きができるだろう」という私たちの予断が入り込む。本当に客観的な分析などというものはなく、そこには必ず人間の先入観が含まれてくる。「空」の思想は、これを常に是正し、さらなる客観性への道を無限に示す。

  • 般若心経とは何かを解説する本。
    特に「仏陀の仏教」と大乗仏教(般若心経)の違いについて、分かりやすく解説されている。

    ほとんど知識が無かったので、自分も般若心経には、仏陀の教えが書かれているのだと思っていた。
    実は仏陀の教えとは別物であり、ともすれば仏陀を否定すらしているというのは興味深い。

    上座部仏教は「自分で自分を救う」ための宗教であり、とても門戸は狭い。
    対して大乗仏教は「神秘の力に救ってもらう」宗教であり、より多くの人を救ったのだろうという。

    このように宗教の成り立ちが分かると、その価値もわかってくる。
    実に面白い。


    またこの本の中に、

    『我々はつい権威主義的に
     「より大元である釈迦の言ったことが正しくて、それ以外は全て偽物だ」
     と考えがちだ。
     しかし宗教に正しさや間違いはなく、大切なのは人の助けになることだ。』

    と書かれていた。

    これはその通りだと思う。
    つい「元祖」や「本家」をありがたがってしまうが、大切なのはそこではない。
    人の役に立てば、それでいいのだ。
    どちらが正しいかを決めることこそ、不毛な争いであろう。

    「独善的な宗教は、社会に不幸を撒き散らす」

    素晴らしい一言だと思う。
    この言葉を胸に刻みたい。

  • 般若心経を唱えると気持ちがよい。不思議である。

    なんで唱えるようになったのか。わからない。

    なんとなく般若心経を唱えるようになった。インターネットで画像検索をして、ダウンロードをした。スマホでいつでも見られる。音楽のサブスクリプションサービスでは、般若心経を唱える音源がある。曹洞宗のものを流す。画像を見ながら、一緒に唱える。これがいい。

    数年前から、瞑想をするようになった。毎朝している。それに加えて、夜、風呂上りに、顔面パックをするようになって、20分の時間がある。そのときに、なにか瞑想をしようと思って、般若心経を唱えるようになった。

    倍音声明というものも、10年前からやっていたのであるが、それは母音を唱える。般若心経は意味のある言葉を唱える。こちらのほうが「効いている」ように感じる。

    意味も分からず唱えていても、気持ちがよいのだが、そのうち一か月ほどたって、意味を知ってみたいという気になった。そこで本書に行き当たったのである。

    般若心経の歴史、延いては仏教の歴史を知ることができてよかった。

    般若心経は7世紀、シルクロードの時代、唐の僧である玄奘が漢訳したものである。

    般若心経は、数ある般若経のなかの重要な部分だけを取り出したものである。

    そしてその「般若経」というのは、「大乗仏教」の経典である。この大乗仏教というのは、釈迦の入滅後5百年ほどあと、紀元前後に勃発した、「釈迦の仏教」とは、異質な仏教である。

    釈迦の教えは上座部仏教と大乗仏教にわかれる。上座部仏教は、スリランカやタイで普及する。大乗仏教は、北のルートで普及する。中国が、仏教を取り入れる時、上座部と大乗の両方があったが、後者の方を取り入れることを選んだ。この大乗仏教が、シルクロードを通って、百済、そして、日本にたどり着くことになる。

    「般若心経」は日本でもっとも知られている経典であるが、世界の仏教の歴史を鑑みると、それが特殊な位置にあることがわかる。そのことを知れるのがおもしろかった。

    それから、般若心経の内容を解説していくのであるが、そのことによって、仏教の基礎知識を知れる構造になっていて、よかった。というのも、般若心経は、上座部仏教の教えに対して、「否」と言うことによって、成立しているからである。その「否」と言う対象が、そこに書かれているのである。その対象というのが、原始仏教の基本的な教えである。

    五蘊、十二処(六根・六境)、十八界。十二支縁起、四諦、八正道。

    これらが網羅的に取り上げられ、これらがすべて「無」と言われる。

    おもしろい。これは本書の解説というより、般若心経そのもののおもしろさである。

    釈迦が言ったことを、全部否定している。だから、般若心経の教えは、釈迦の教えとは違う。そのように著者は強調する。けれども、単に、違う教えなのではなく、それをすべていちいち取り上げて否定している、というのが、おもしろい。それは、もう、ある意味、仏陀の教えの強調なのではないだろうか。

    実際、この般若心経のおかげで、仏教の基本的な教えを網羅的に学ぶことができる。便利である。

    五蘊は、「われわれ人間はどのようなものからできていて、どのようなありかたをしているか」というのを、五つの要素に分けて把握したのものである。五蘊はつまり、①色、②受、③想、④行、⑤識である。「色」はわれわれをなしている外側の要素すべて。「受」は外からの刺激を感じ取る感受の働き。「想」はものごとを様々に組み立てて考える構想作用。「行」は何かをしたいと考える意思の働きや、その他の心的作用。「識」は心のあらゆる作用のベースとなる認識する働きである。

    「五蘊がすべて空であると観た。そして一切の苦しみや厄いを越えたのである。シャーリプトラよ。」

    意味がわかると、かなり奇抜であることがわかる。奇抜というか、大胆である。「五蘊」があると仏陀は言っていた。それを「空」だと言う。これを知って唱えると、すごく、感じ入るものがある。その感じというのは、五蘊というのが、無い、ということではなくて、五蘊を感じながら、無い、というような感じである。川の流れを観ていて、それは「川」ではないと否定されることによって、その川そのものの流れを感じることができる。そのような感じ入りかたをする。

    とはいえそのような流れということ、止まらないということ、これを仏陀は「諸行無常」と説いた。だが、般若心経は、それさえも否定する。「不生不滅、不垢不浄、不増不減」。ここで著者は、大乗仏教が、諸行無常を否定して、それよりも深遠な教えを解こうとした、と説明している。けれども、この説明の仕方は、あやしい、と私は考える。深遠な教えを説こうとしているのではなく、ただ否定している、とだけしか言えないからである。深遠な教えというものは、空なのだ、と言っているからである。ここらへんで、厳密な論理的な説明を、著者はするつもりがない。なので、これは仏教の歴史の物語として、読んでおく、というつもりで読んだ方がいいだろう、と私は思った。他の著作で、大乗仏教が、ウパニシャッド哲学の梵我一如と同じ教えになった、と言うことを、著者は語るが(『集中講義大乗仏教』にて)、これも「空」や「無」の論理について、厳密ではない理解であろう、と私はひっかかった。

    五蘊の次に「十二処」が出て来る。これは、世界の構成を、感覚器官とその対象で整理して把握したものである。六根という感覚器官と、その対象である六境からなる。六根はすなわち①眼②耳③鼻④舌⑤身⑥意。六境は①色②声③香④味⑤触⑥法。

    そして十八界。これは十二処における、六根という感覚器官によって、六境に触れた時、六識という認識が生じる。この新しい六識を十二処に足して、十八界である。

    これら十二処も十八界も、ひとつひとつ丁寧に「無」だと般若心経では言われていく。

    つづいて十二支縁起。これは人の心に苦しみが起こるメカニズムを説明したものである。①無明②行③識④名色⑤六処⑥触⑦受⑧愛⑨取⑩有⑪生⑫老死。①無明が人間の煩悩の内で最大もので、⑫老死が人間の苦悩の中で最大のものである。無明が連鎖して、苦悩が最大化していく。そのため、無明を滅して、その連鎖を止めよう、と仏陀は教えたのである


    その「無明」も「老死」もないと般若心経は説く。

    さいごに「四諦」。苦集滅道。①苦諦は、この世はひたすら苦であるという真理。②集諦は、苦の原因は煩悩であるという真理。③滅諦は、煩悩を消滅させれば苦が消えるという真理。 ④道諦は、煩悩の消滅を実現させるための八つの道(八正道)。

    これらも否定される。

    つづいて、それゆえに、菩薩さまは、「般若心経」を唱えることによって、心に妨げもなく、恐怖もなく、倒錯した夢想も無くなって、涅槃に入った、と「般若心経」では説かれている、ということらしい。ここは、私自身は、般若心経を唱えるときに、もっとも好きなところである。ここを唱えると、「本当」に、「心の妨げ」と、「恐怖」と、「夢想」が無くなるのである。

    これについて、著者は、仏教本来では、煩悩を消滅させるために、「自分を変えること」が大切である。自分の心のありようを変えることが大切である。だから、般若心経を唱えることで煩悩が消えると考えるのは、「ウルトラC」だと、書いている。けれども、ここで私はあまり意味がわからなかった。般若心経を唱えているときに、善行も悪行も行うことのない、自分がフラットな状態になり、業が絶たれるのであれば、仏陀の教えと矛盾しないと私は思った。

    さて、まとめとしては、この著作では、詳しく仏教の教えが説明されていて、それらを学ぶのに非常に役に立った。仏教の歴史について、学ぶこともできた。特に、初期の仏教と、大乗仏教、その違いについて、明確な線引きがされることが、とても勉強になった。

    とはいえ、その「空」の理解については、疑問がのこるところがあった。しかし、「空」の理解については、著者の関心の領域ではないのであろう。それは私の自身の興味の領域なのである。そちらはこれからの私の課題としたい。

    すなわち、般若心経の「空」とは、いったいどのようなことであるか。それは単なる仏陀の教えの否定であったのか。それは、ウパニシャッド哲学の梵我一如と同じ思想なのか。それを超える可能性を持つものなのか。これらについては、これから私が別の著作などで学んでいきたいと思っている。

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著者プロフィール

1956年福井県生まれ。花園大学文学部仏教学科教授。京都大学工学部工業化学科および文学部哲学科仏教学専攻卒業。同大学大学院文学研究科博士課程満期退学。カリフォルニア大学バークレー校留学をへて現職。専門は仏教哲学、古代インド仏教学、仏教史。著書に『宗教の本性』(NHK出版新書、2021)、『「NHK100分de名著」ブックス ブッダ 真理のことば』(NHK出版、2012)、『科学するブッダ』(角川ソフィア文庫、2013)ほか多数。訳書に鈴木大拙著『大乗仏教概論』(岩波文庫、2016)などがある。

「2021年 『エッセンシャル仏教 教理・歴史・多様化』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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