知り合いの若い俳優がボクシングジムに通っている。色白で目はぱっちりの虫も殺さないような、美青年よりも美少年といったほうがいいような若者だ。いざというとき、恋人を守るために強くなりたいのだそうだ。その心根やよし。だけどそれなら恋人にボクシングを習わせたほうが早いんじゃないの? とのどまで出るが、それは言わない。
演技する上で大事なのは、危なっかしくやることである。失敗を覚悟で、どうなってしまうかわからないところへ自分を追い込んで行く。それが大事。失敗は正直怖いが、そのリスクを背負わない安全運転的演技などなんの価値もない。危険を避けるのではなく、安全を避けなければならない。実を言うと、演技には失敗も成功もない。失敗だって成立する。問題は、どんなことにこだわり、どれだけ自分を投げ出せたか、ということなのだ。
まずは自分を満足させること、そうすれば、読者がテレパシーの衝撃と意味の興奮をかんじないわけがない、同じ法則で動いている人間の心をもっているのだから」
声はコミュニケーションの鍵を握る重要なものだが、その能力は意外に注目されず、活用もされていない。われわれは通常、何を話し話されるかに重きを置き、どう話し話されるかには鈍感になっている。会話の主役は意味を伝える言葉であり、声は言葉を運ぶただの乗り物に過ぎないと思っている。つまり僕らは話し言葉から意味だけをぬきとり、声は無用の残骸として捨ててしまっている。ところが本当は、捨ててしまった声のなかに言葉以上の多くの情報が含まれているのだ、とこの本は強調する。こうした言葉重視の傾向は歳をとるとともにエスカレートするもののようだ。