「死」の一歩手前、二次元のその先、つまりはみっつめの物語。
序破急、三部作に三位一体(トリニティ)。
なんだったら、ほっぷすてっぷかーるいす。
「三」というのは安定の数字、三角形は安定の図形。
漫画にとっても三巻は一つの壁と存じます。
たぶんミステリ作家にとっての「十三巻」くらいには重要なのではないでしょうか?
そんなわけで、ひとつにはじまり、ふたつにつないで、みっつめ、新たなはじまりを演出する『ヒトミ先生の保健室』第三巻です。
今回は前後編からなるエピソードも収録しているほか、今後のキーとなる生徒も登場するなどかなり重要な巻となっています。
単話完結路線は保っているのでここから読み始めても安心設計なのですが。
それはそれと、作品全体の紹介については例のごとく一巻のレビューをご参照いただきましたら幸いです。
それでは各話をネタバレ込みで触れていくとします。
第十二話「多眼系女子:真中三美」
妙にエロティックでカオスな夢はやぶられて、真中家の朝の風景がやってくる、そんな幕開けです。
ヒトミ先生の妹御さん、いよいよ満を持しての登場です。読者が彼女とmeetsするためにも、確かに三巻の冒頭に持ってくるのが韻を踏んでいてBESTでしょう。
ところで『三つ目が通る』にしても『3×3 EYES』にしても額に「第三の目」が開く系の作品は漫画界に一定の地位を築いて久しいですね。
そんなわけで、一つ目の姉と三つ目の妹、ふたり足して割ればちょうどいいではありません。
前評判からすると、姉妹の格差云々でやきもきしていた読者もいらっしゃったと思うんですが、姉妹仲は極々良好でした。
私は、周囲から混じった多少の揶揄混じりの冷やかしを邪推していたに過ぎなかったんですね。
ハラハラ感をコントロールされたと思えば実に巧みです。それだけに安心しました。
時々カオスな話が混じっても、基本はハッピーエンド。そうでなくて多少ビターだとしてもゆっくり未来を歩いていこうというこの漫画の性質を再確認できました。
あと、先に挙げた作品の例えではありませんが、神秘学的にも大きな存在感を示す「三眼」は人格のスイッチをわかりやすくビジュアルで示すことができるという特色を有しています。
そんなわけで、この漫画においても「三眼」と「多重人格」は共存します。
ただし、三美さんの場合は記憶は共有しており、それぞれの表層意識の浮上はテンションの上げ下げに近い理解でいいそうです。
この辺の切り替えが実にシームレスかつ自然体です。
この手法は一キャラの印象を分割したり、テンポを損なってしまう恐れもあるのですが、コマ運びが巧みという事あって、人格移行に鮮やかな印象を伴います。
なにより互いが互いのギャップを引き立てて一個人としての完成度を高めてくれます。
加えて姉に対するスタンスの違いで、同じ人間の別側面が現れているとすんなり理解させてくれます。
ついでに断絶とか、決別とか、支配とかの「多重人格」系キャラに付きまとう連想をクリアしているように思えます。家庭も円満ですし、暗い影も全然ないんですよ。
抑制的な性格で完璧超人な基本人格「真中三美」の一側面として、甘えっ子で子供っぽい「みぃちゃん」と攻撃性が高く男性的な「天眼」、彼女らの「瞳」の描き方が三者三様なのも上手いですね、
盲目の武人と思えるデザインに強烈な眼光が額に座す「天眼」、みっつの眼を天真爛漫に見開いた「みぃちゃん」、母と姉に似ながらも落ち着きを宿す「三美」。
と、彼女らにまつわるエトセトラは続刊でまだまだ待っているようですね。ひとまず次の話に移りましょうか。
第十三話「平面系女子:宇水紙織」
「面白きこともなき世を面白く」。
いやはや、高杉晋作ですかー? いやー、私にとっては面白い世界なんて白紙の原稿と同義なんですけどねー。
そんなの面白くもなんともないじゃないですかぁー?
やっぱ、世の中はほどほどに面「黒く」なっきゃあねー☆
以上、本編の引用ではありません。
私が勝手に創作しましたが、本編の裏側で宇水さんはこんなこと言ってそうだなーって、わたくし勝手に思ってたりします。
そんなわけで体を自由自在にぺらっぺらに出来るようになった宇水さん、それと二巻九話から登場した暗影系女子「日蔭彩魅」が今回のキーキャラになります。
縮尺の違うふたりが同じ画面に同居する一巻三話に続き、漫画という媒体における空間づくりの可能性を見せてもらった回でもあります。
実写の中のカートゥーンといいますか、違う次元の住人が混在することで見えてくるものがあります。
ヒトミ先生は今回も相談に乗ってくれて、その辺の補完の説明をしてくれます。自己言及的ですが、それがいい。
ところで断言しておきます。
宇水さんはある意味でこの作品における最重要キャラの一人です。
彼女がメインを張る、そうでなくても舞台装置を提供する回は実験的だったり、単話完結の恩恵を活かして他の話につながらなかったり、逆に今後の展開の示唆を与えたりします。
それもこれも彼女が「メタ視点(上位視点)」を提供してくれるからだったりします。
メタ・フィクションとは本来、単独で確立しているはずの「創作」世界に、上位次元=読者や作者などの観測者の視点が加わること。
登場人物自ら「虚構の存在」であることを自覚することで、「こちら側」に語り掛けるなどの干渉手段を得たりもします。
まぁ、その辺。百聞は一見に如かず。
今後もその手の話はあるので、メタ・フィクションのやさしい入門として見ても良いかもしれません。
漫画のコマ割りの枠線をキャラが突き破ったり武器にしたりってのはギャグマンガではよくあることですが、青春群像劇としての側面も強いこの作品では不意打ちの意味も相当に大きかったですね。
メタ・フィクションは作者にとって自己言及的で内輪向けとそしられる一方で、我が子とも言えるキャラクターたちと歪な形であれ向き合えるところがあります。
創作者にとってある種の「夢」である一方、現実の野暮さに目を向けさせるところもあるので、確実に好みは分かれる手法のひとつです。
話の前提に用いるならともかく、長編の「大オチ」に使えば興ざめもここに極まれり、即死級のギミックと化す「夢オチ」に近隣するということもありますし。
ただ、劇中で触れられているように「妄想」を軸にサイコ、ホラー、サスペンスの文脈で用いられるのもアリですね。
正直言うと、2Dモードに入った宇水さんの眼はこの世ではないものを見ているような空ろにも見えるので、私としましては相当怖いです。
軽佻浮薄な宇水さんの言動だからこそ、その中に重たく恐ろしいものが乗っかかってくるような感覚を覚えます。
で、偏屈で内省的な日蔭さんがその狂気に当てられてしまって己の心の闇に染まってしまうのも納得できます。
カラーが色鮮やかな分、白と黒の対比をより一層明瞭に見せるのかもしれません。黒の中に色が見えました。
けれど、日蔭さんの苦悩をページを挟んで覆す宇水さんに納得させられたのも確かなんですよね。
性格も趣味も正反対で、反発するからこそ自分にはないものをより一層理解できて時には歩み寄ることもできる、理想的な「百合」がここにあると思いました。
「百合」というジャンルの定義も分かれるとしても、女性間の恋愛に留まらず、価値観などの衝突などから生まれる魂と感情の交流も含まれると思いますから。
物語の中の「百合」を愛する日蔭さんが、自分自身もそれに似た物語をやって見る気になったと考えれば、創作と現実のいいとこ取りみたいで、その欲張りさが好きです。
時に創作論を語る上で、メタ視点は避けることができず、同時に愛でられる対象なのかもしれませんね。
「だからって、真っ黒に塗りつぶした原稿なんて見れたものじゃないわ。
私は白と黒、どちらも揃ってはじめて面「白い」と思うのだから。……なんてね?」
第十四話
そんなわけで凶数であり吉数でもある「十三」の後はちょっとご飯休み的にヒトミ先生のお弁当回です。
さりげなく真中家の「弟」も顔を見せずに初登場しますが、本題は完璧超人な妹「三美」がお弁当作り、家庭の食卓を支えていることを教えてくれることでしょうか。
お弁当を挟んで神永先生と女子トーク、途中からアシスタントの樹くんによるニュートラルなツッコミも入って、今日も保健室は平和です。
ところで「目玉焼き」にまつわるボケはこの漫画が『ヒトミ先生の保健室』であることを否が応にも思い出させてくれるナイスな着「眼」だと思います。
お料理は駄「目」駄「目」だとしても理想的なリアクションを返してくれましたヒトミ先生のあのコマはおそらく一生忘れられないと思います。
第十五話&第十六話
「死/四」の一歩手前、それは「三」。
今回は「不死身系女子」の富士見さんの転機について、つまりは本人の臨死体験を回想する形で、ついでに劇場版仕立てに演出してお送りします。
初の前後編でお送りするそんなエピソードでもありますね。
思いっきり洋画風の味付けなタイトル演出を見ると、作者の鮭夫先生は「ゾンビ映画」がお好きという事がわかりますね。
一巻一話は「ヒトミ先生」にインパクトを持ってくる必要があったとして、二話にしてゾンビっ娘を出してきた時点からもわかります。
時に「ゾンビ」というのは、生ける屍という事もあって基本「陰」の存在なわけですが、同時にお祭り騒ぎ、乱痴気騒ぎな「躁」のイメージが強い存在でもあるわけです。
けれども。
普段あっけらかんとしていて何も考えていないように見える富士見さんが、達観したり、物思いに耽ったりの抑え目の顔を多く見せ、普段と違うからか魅力的に思えるのはなんとも不思議。
ここからは同じ人の中の多面性に踏み込んだ話も増えてくることも確かで、今回は富士見さんの印象が大きく動いた人も多いはず。
生きとし生けるものすべて「死」からは逃れることはできない。けれど、それは「今」じゃないと、富士見さんの心奥深く刻まれたメッセージは確かに重く、でも同時に不安を吹っ飛ばすように軽快でした。
「生」と「死」の狭間にて、可愛い孫娘を死の淵から救おうとハリウッドヒーロー顔負けのドンパチな大活躍するおじいちゃんが本当にワイルドでカッコいいのです。
メリハリの利いた黒と白が骨太でがっちりした輪郭の強さを強調し、何もない荒野を彷徨う亡者たちを粉砕していく光景が本当に頼もしい。
死後の世界が実在するのかしないのか、脳が見せた幻か、魂に刻まれた像だったのか。
その辺がぼかされているのがまた余韻としていいんですよ。
第十七話
三巻の最後はここまでの話の後日談だったり、こぼれ話のショートストーリー三本立てです。
いつの出来事か明示されているので本作は短編の集合体と言っても、時間軸はしっかり生きていることがわかっていいかもしれません。
もっとも、その辺をたいして気に留めなくても読んでいけるのがこの漫画のいいところなのですが。
設楽さんとそのカレとの初々しいいちゃラブ、留居さんまさかの極限露出(犠牲者:埴生くん)、いくつになっても多々良先生の前では子どもっぽいヒトミ先生のじれったいなあちょいとラブ。
全体的に甘いです。胸焼けがするほど甘くて好きです。
以上、各話に関してはこんな感じでしょうか。
ヒトミ先生の家族模様と多々良先生との恋の行方を軸に据えつつ、色々な悩みと個性のテーマを持った生徒たちに関わっていく路線はここまで数を重ねることで確立したように思います。
よって今後は多少変則的なエピソードを描いても問題はなく思えますね。
単話完結方式でどこからでも入れる奥行きを持ちながら、なんとなくのつながりも意識でき、巻ごとのまとまりを見出すこともできる。
「読み方」を模索できる時点で面白いですよ、この作品。各エピソードも驚くほどアタリ揃いですし。
さて、次は四巻ですね。
起承転結で畳むより、序破急を繰り返して続けていくのが性に合っている漫画なのかもしれませんが、そうやって一々定義するのも野暮かもしれません。
きっとわかり切ったことは一つだけ、前提を翻す思わぬ話とワクワクの展開が控えていることだけ、なのでしょうから。