興亡の世界史 イスラーム帝国のジハード (講談社学術文庫) [Kindle]

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  • 講談社
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  • ジハードに限らず、イスラーム教とイスラーム社会、イスラーム国家についての歴史の概要と現代につながるイスラーム教の思想的立ち位置を紹介するイスラーム思想史専門家による「興亡の世界史」シリーズの著作。

  • なかなかの良書。イスラムについて西洋的な視点(野蛮で好戦的というような)視点しかもっていなかったが、詳しく調べてあってイスラムに好意的。

    ただ現代イスラエルに対する記述は通常通り(公の報道通り)パレスチナ寄りの様な気がした。それでも反イスラエル的ではなかったので良しとする。

    下記にハイライトした個所をコピペ:

    109 個のハイライト | 22 個のメモ

    オレンジ色のハイライト | 位置: 72
    本書が扱うのは、西暦七~一〇世紀である。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 75
    いわゆる「剣のジハード」によって、正統カリフ時代(六三二~六六一年)からウマイヤ朝期(六六一~七五〇年)に広大な版図が生まれた。都市国家は帝国へと変容し始めた。そして、本格的なイスラーム帝国であるアッバース朝(七五〇~一二五八年)の時代となる。特に、一〇世紀半ばまでが黄金期である。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 216
    マッカは周囲を低い岩山に囲まれているが、要害というほどのものではない。イスラーム興隆以前から、カアバ聖殿があって、アラビア半島の中でも重きをなしていた。当時の多神教は、巨木、奇岩などの自然物や、北方のギリシアやナバタイなどから輸入された神々など、多種多様な偶像を神として崇拝するものであった。偶像はおのおのの部族の守護神であったが、体系的な神話をもっていたわけでも、中心となる神殿や神官組織があったわけでもない。しかし、そうは言っても、カアバ聖殿だけは特別な位置を占めていた。カアバ聖殿を訪れる聖なる四ヵ月には、部族間の争いも禁止されるなど、それなりに共通のルールも存在した。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 224
    カアバ聖殿は、誰がいつ頃建てたのであろうか。これについては、伝承しか存在しない。

    メモ以下、ハガルとイシュマエル、ならびにアブラハムの話し。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 234
    のちにイブラーヒームは、神の命によって、息子とともに泉のそばに石造の立方体を建てた。これが「神の館」としてのカアバ聖殿である。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 272
    この地域を最初に統一したのは、アッシリア帝国であろう。紀元前七世紀のアッシリアは、今日のイランの西部、イラクからエジプトに至る領域を支配した。それ以前には、新王国時代の古代エジプトが、アジア側に大きな勢力を伸ばしたものの、イラク、イランには達していない。紀元前六世紀に成立したアケメネス朝は、今日のパキスタンの西半分から、イラン、イラク、シリア、エジプト、またヨーロッパ側もいくらか支配して、中東全域をカバーする大帝国へと発展した。  この領域をほぼ継承したのがアレクサンドロス大王であった。さらに、地中海地域では、西地中海をも含めて、現在私たちが「帝国」と呼ぶものの祖型であるローマ帝国が成立した。東西分裂の後は、ビザンツ帝国が東地中海から西アジアにかけて、ササン朝ペルシアと覇を競っていた。イスラーム誕生前の五世紀後半から六世紀は、ビザンツ帝国とササン朝ペルシアが二大帝国であり、両者の間にあるイラクからシリアの地域は激しい覇権抗争の舞台であった。

    メモダニエル2章の帝国以後、ササン朝ペルシャ、そしてイスラム。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 291
    周知のようにキリスト教は、紀元直後にパレスチナの地で成立した後、次第にローマ帝国の支配下で広がった。多神教を奉じていた帝国はキリスト教を禁圧し、しばしば厳しい弾圧を加えたが、その教勢の広がりに耐えきれず、三一三年にコンスタンティヌス一世が寛容令を出した。さらに三八〇年には、その教勢を帝国支配のために利する方向に転換し、国教となした。「


    オレンジ色のハイライト | 位置: 441
    紅海沿岸のヒジャーズ地方には、半島中からの巡礼者を集め、商業の中心となる都市マッカがあった。そこにあるカアバ聖殿は、イブラーヒーム的な一神教の伝承と深く結びついていた。さらに、半島内の交易だけではなく、イエメンとシリアを結ぶキャラバン貿易がこの商業都市の発展を支えた。定説では、ビザンツ帝国とササン朝ペルシアの長年の抗争によって、ペルシア湾側の貿易ルートが衰え、紅海ルートが栄えたとされている。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 447
    第二章「信徒の共同体」では、イスラームはもっぱら弱者たちを惹きつける公正の教えとして布教されるだけで、容易にジハードの物語とならないからである。この時代は、後の軍事指導者としてのムハンマドを予想させるものは片鱗もない。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 451
    ムハンマドは商人の町マッカで新しい教えを説き始めるが、自部族はほとんどそれを受け入れず、迫害を繰り返す。ついに、ムハンマドは転機を求めて、マッカから北方の町ヤスリブに移住することになる。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 453
    その次に、第三章「ジハード元年」がやってくる。これは、ヤスリブ改めマディーナにおいて、イスラーム共同体を樹立し、政治的指導権を確立し、軍事的な意味での戦いを行う時期である。主要な三つの戦いと、それを通して「剣のジハード」が確立するさまを描くことにしたい。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 688
    イスラームといえば、「一夫多妻」がしばしば話題にされる。しかし、実際には、イスラームはそれ以前の無節操な状況を厳しく制限し、法の下に厳密な運用を求めようとした。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 769
    マッカでは、ムスリムたちは迫害される少数派であったから、腕力をふるって戦うことはなかったし、迫害に対して刃向かうこともなかった。しかし、「ジハード」という考えは、示されている。たとえば、「信仰のために奮闘努力する者は、自らのために努力しているのである」(蜘蛛章六節)の中で「奮闘努力する」と訳した部分には「ジハードする」と書かれているが、ここには戦闘の意味は全くない。これは、自分の心の中の悪と戦う、あるいは社会的な善行を行うことを指している。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 780
    ジハードを分類すれば、心の悪と戦う「内面のジハード」、社会的な善行を行い、公正の樹立のために努力する「社会的ジハード」、そして「剣のジハード」に区分することができる。私たちはジハードと聞くと、最後の剣のジハードを思い浮かべがちであるが、マッカ時代から継続的にあったジハードは、内面と社会のためのジハードで、剣を持って戦うことではなかった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 795
    この無明時代なるものは、当時の世界的な情勢から言えば、ビザンツ帝国とササン朝ペルシアの間の空白地帯の中にある。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,205
    ユダヤ教徒は「啓典の民」として、キリスト教徒とともに、宗教的な自治を享受することになる。これは、後にイスラーム帝国に宗教共存を可能ならしめる「帝国の原理」の一つとなっていく。それについては、後の章に譲ろう。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,733
    ムハンマドは神の預言者として、ビザンツ皇帝へも布教の使いを派遣したが、ビザンツ側で深刻に受けとめた形跡はない。付言すれば、ムハンマドはアブラハム以来の諸預言者の系譜を引く者として、ユダヤ教、キリスト教から受容されることを期待したであろうが、個々人の改宗者を別とすれば、権力者が素直に従うことはなかった。ほぼ唯一の例外は、ハバシュ(エチオピア)の国王であろう。当時のエチオピアはキリスト教国であったが、国王はマッカから避難してきたムスリムたちを保護し、ムハンマドに対しても好意的な評価をしていた。

    メモエチオピアは使節を冷遇したり無視したりしなかったというだけ。信じたわけではないらしい。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,773
    この見方は、「イスラームが剣によって広まった」というヨーロッパに古くからある偏見を下敷きにしている。いわゆる「右手に剣、左手にコーラン」という図式である。  しかし、これは因果関係を取り違えている。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,777
    征服に進んだのは、信仰心に燃えるからではなかった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,791
    あまりにも農業生産力が低く、長期的な自立性はない。言いかえると、イスラームの小王国が半島内に成立して、ビザンツ帝国と共存する余地はなかったのである。新興のイスラーム国家が生き延びようとするならば、北方の諸部族を制圧せざるをえず、そうすることによってビザンツ帝国と衝突せざるをえなかった。国際的な力学から言えば、力の均衡で平和共存が成立する状況にはなっていなかった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,824
     ウマルは六三八年、降伏したギリシア正教会の大主教と会い、キリスト教徒たちに「庇護民」としての保護を約束した。また、それまでエルサレムに入ることを許されなかったユダヤ教徒も、同じように庇護民の地位を与えられた。これは、イスラームにおける諸宗教の共存をもっともよく示す事例となった。実際、イスラーム、キリスト教、ユダヤ教という三つのセム的一神教がエルサレムにいっしょに存在するようになったのは、この時からであった。

    ★ メモビザンチン帝国は、エルサレムへのユダヤ人立ち入りを禁じていた。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,842
    イラクを失った皇帝ヤズデギルド三世は、東方(イラン)に逃れ、軍を再結集して、反撃を試みた。しかし、六四二年にイラン西部のニハーワンドの戦いでイスラーム軍に敗北し、ここにササン朝はほぼ終焉した。皇帝はその後も各地を転々としたが、六五一年にメルヴで落命し、皇統も尽きた。

    メモササン朝ペルシャ滅亡の経緯。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,939
    富の分配は、必然的に大きな問題を生み出した。一つの問題は、イスラームへの奉仕が現世的な利害と直結するようになったことであった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 1,966
    ところが、第三代カリフ、ウスマーンの治世において、征服運動はいったん小休止した。このため、パイの分配に限界が生じた。そこで大きな不満が生じるようになった


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,077
    ここに正統カリフ時代が終焉し、ムアーウィヤがカリフに就任した。長い内戦に倦んでいた人々は、新しいカリフを承認した。後世の私たちは、彼のカリフ就任が彼個人に終わらず、ウマイヤ朝という王朝の始まりだったことを知っている。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,086
    版図の拡大は次のアッバース朝に引き継がれていく。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,148
    ムスリム軍の進撃は、トゥール・ポワティエの戦いまで続いた。フランス中西部まで達したイスラーム軍は、ポワティエの地で七三二年、フランク王国のシャルル・マルテルに敗北を喫した。これをもって、イスラーム軍の北進は停止した。  ヨーロッパの側では、シャルル・マルテルの勝利をきわめて大きな歴史的重要性を持つものと評価している。もしこの勝利がなければ、西ヨーロッパ全体がイスラーム化していた可能性があるという認識が、その背景にある。ただ、イスラーム側に西ヨーロッパを征服する意図があったかどうかは疑わしい。イギリスのイスラーム研究の泰斗ワットは、補給線が延びきっており、戦利品の魅力もなかったと分析している。

    メモこれは面白い。欧州はアラブにとって魅力がなかった。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,154
    ウマイヤ朝にとってみれば、アンダルスを掌中に収めたことは、実に幸運であったことが後に判明する。ウマイヤ朝は八世紀半ばに、東方から起こった革命運動によって打倒され、一族はことごとく殺害されたが、生き残った一人がはるか西方へ逃れ、アンダルスの地で王朝を再建するからである。後ウマイヤ朝と呼ばれる王朝は、コルドバを首都として三世紀近くにわたって繁栄した。バグダードが世界最大の都であった九~一〇世紀頃、西方のコルドバは、はるか東の長安に伍して、世界第三の大都市として夜も煌々と輝く街灯に照らされていたのであった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,180
    ウマイヤ朝は「イスラーム王朝」といっても住民のほとんどがムスリムではなかったことに着目する必要がある。アラビア半島では住民のほとんどがイスラームに改宗したとはいえ、征服されたシリア、エジプトはキリスト教の地であり、イラクからイランにかけてのササン朝の領域はゾロアスター教の地であった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,187
    したがって、ウマイヤ朝の安定には、他の宗教との融和の仕組みが必要であった。その仕組みを図式的に見れば、征服に際して「改宗か、税か、剣か」という三択を迫り、その対応に応じた処置がなされた。当然ながら、他の宗教に属する人々にとって改宗は第一の選択肢ではないし、ウマイヤ朝の側でも税収を好んだから、「税」が合意しやすい選択肢であった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,195
    その状況をさらに加速させたのは、ビザンツ帝国の宗教政策であった。ビザンツ帝国は、その領内で公式教義に反するキリスト教徒たちを激しく弾圧していたからである。イスラーム勃興直前の四~五世紀には、激しいキリスト教の教義論争が行われていた。その論争は、三二五年のニカエア公会議で三位一体説が公式教義となることで落ち着きを見せたが、さらに、イエス・キリストが神であるのか人であるのか、いずれの性質が強いのかをめぐる論争があった。そのため、四五一年のカルケドン公会議ではキリストの「二性一人格」(神性と人性が一人格の中にある)が確立されたが、誰もがこの教義に納得したわけではなく、シリアやエジプトでは「二性一人格」に反対する「単性説」が有力であった。シリアのヤコブ派教会、エジプトのコプト教会などが単性説に属する。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,203
    同じキリスト教と言っても、これらの教派は激しい弾圧にさらされていたから、イスラーム軍が現れたとき、ビザンツ支配の継続とイスラームの支配下に入るのとを天秤にかけるような状況があった。同じキリスト教の弾圧に疲れていたキリスト教住民は、イスラーム軍へ協力したり、局外中立を保ち、これがイスラーム軍に有利に働いた。さらに、ビザンツ帝国のシリア支配が一時回復された際に、ユダヤ教徒たちがササン朝への協力の咎で迫害されたことも、ユダヤ教徒たちがイスラーム軍に協力する原因となった。

    メモユダヤ教徒とキリスト教徒がイスラムに協力した理由。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,210
    このようにウマイヤ朝は、数多くのキリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒を住民として抱えることになった。庇護制度は、イスラーム国家を認め納税する見返りとして、信仰の自由と宗教共同体の自治を認めるものであった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,217
    ウマイヤ朝は、征服地に住む非アラブ人がイスラームに改宗しても、アラブ人ムスリムと同等の権利を認めなかったため、現地住民の改宗もそれほど進まなかった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,221
    このようなアラブ人の優位性、それを前提とした支配体制のゆえに、かつてのイスラーム史の権威ヴェルハウゼンは、ウマイヤ朝を「アラブ帝国」と呼んだ。日本におけるイスラーム史研究の先駆者・嶋田襄平氏もこれを踏襲している。次に登場するアッバース朝こそが「イスラーム帝国」の名に値するとの考え方である。これは、両王朝の違いを表す方式としては有効であり、わかりやすい。ウマイヤ朝はイスラーム王朝とはいえ、アラブ人を優位に置き、内実を見るとアラブ民族の王朝であるかのような側面も持っている。しかし、人口的にマイノリティのアラブ人ムスリムの支配が可能だったのは、宗教共存の仕組みも含めて、イスラーム的統治制度を整備しつつあったからと見ることもできる。少なくとも、イスラーム帝国の形成期として評価することが可能であろう。  いずれにしても、アラビア半島からあふれ出て征服地に移住したアラブ人ムスリムたちは、おおむね職業的に軍人であり支配層を形成した。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,311
    ウマイヤ朝は満一世紀を待たずに、崩壊する。六六一年にムアーウィヤがダマスカスを首都としてから、七五〇年にアッバース朝に打倒されるまでの九〇年間、一四代のカリフがその地位に就いた。  世界史の水準から言って、九〇年は決して長いものではない。続くアッバース朝は、最後はイラクだけの地方王朝に成り下がっていたにしても、名目的にはイスラーム世界全体の宗主権を持つ王統として五世紀もの間命脈を保ったし、また、スルターン制の王朝として東西に覇を唱えたオスマン帝国は、一三世紀末の創建から二〇世紀初めまで六世紀の長きにわたった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,396
    ウマイヤ朝時代に、他の宗教からイスラームに改宗した者たちに「マワーリー」という地位を与えたのは、いわば「二級ムスリム」を作り出したことになる。これは単にアイデンティティの問題ではなかった。  税法上も不利な扱いがされた。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,401
    つまり信仰上はイスラーム、税法上は庇護されたマイノリティー宗教の扱いを受けたことになる。革命運動が生じたのも、当然というべきであろう


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,402
    アッバース朝の時代には、宗教だけが法に関する識別指標となり、イスラーム共同体には一体のイスラーム法が適用されるようになった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,414
    ウマイヤ朝末期からアッバース朝初期にかけても、大征服の運動は続いていた。しかし、西進する征服運動は、ウマイヤ朝期にイベリア半島に入ってアンダルスを制圧し、ほぼその限界に達した。ポワティエの戦いでフランク王国に敗れて、イスラーム世界の西端は定まったのである。これに対して、東進の運動はまだまだ続いていた。


    ピンク色のハイライト | 位置: 2,418
    初代カリフ、サッファーフの短い治世の間にも、中央アジアでタラス河畔の戦いが行われた。これは、高仙芝の率いる唐軍との会戦であったが、勝利したイスラーム軍が捕虜にした兵士の中に製紙法を知る者がおり、紙の製法がイスラーム世界に伝えられたという。これによって、イスラーム世界で膨大な写本が作られ、近代以前の最大の書物文化が生み出されることになった。


    黄色のハイライト | 位置: 2,532
    ちなみに、当時は相続のルールは一定していなかった。正統カリフ時代からウマイヤ朝、アッバース朝と続くイスラーム帝国は、クライシュ族出身者が統治権を握ってきた。クライシュ族はイスラームの登場まで王権を握ったことはなかったし、また、長子相続の原則があったわけでもない。部族的な指導者が有能である必要があり、単なる血統だけで指導権を相続することは、集団全体の利益にかなうものではなかった。  実際、正統カリフ時代には係累の相続は一つもなかったし、ウマイヤ朝でも全一四代のうち父子相続は四回、アッバース朝を見ても、一〇世紀が終わるまでの二五代のカリフで父子相続は七回にすぎない。あとは、兄弟間、おじから甥というような相続がなされている。甥からおじ、という事例もある。相続制度が安定していないことは、それをめぐって権力闘争が生じることを意味している。


    黄色のハイライト | 位置: 2,685
    そのため、イスラームは商業を勧め、正当な利益を擁護する。アッラーの恵みとして、利得は認められ、むしろ、大いに稼いで大いに費やすことが奨励される。聖典クルアーンは、冒頭の部分で、篤信者を讃え、彼らは「不可視界を信じ、礼拝を確立し」と述べた後で、「われ(アッラー)が彼らに与えた恵みを使う者たち」(雌牛章三節)と付け加えている。信仰・礼拝とならんで、財を用いることが奨励されるのは、いかにもイスラーム的な特徴であろう。


    黄色のハイライト | 位置: 2,696
    ムハンマドの没後、反乱が起きると、後継者となったアブー・バクルは「リッダ戦争」を遂行し、さらに二大帝国との不可避の戦いにも突き進んだ。新生のイスラーム社会が生き延び、自己確立するためにも、政治と軍事が優先する時代となった。軍事の成功は大征服を生み、イスラーム世界は自己確立を遂げた。

    メモ安定させるための融和と許容策か?

    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,748
    アッバース朝カリフ、マアムーンが「ミフナ」と呼ばれる審問を設けた時であった。イスラームの歴史には、西洋に見られるような異端審問は、制度的にもほとんど存在しない。その最大の理由は、宗教的権威を独占する聖職者と教会や公会議がないことに由来する。

    メモマアムーンは賢者を集めた。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,755
    マアムーンが押しつけようとした宗教思想はギリシア哲学の影響を受けたものであった。まず、マアムーンがヘレニズムの文物を組織的に導入したことを理解する必要がある。古典的なギリシア文化が、哲学、医学、幾何学、天文学など、多くの科学、思想が流入した。なお、ギリシア文化だからと言って、ビザンツ帝国の側から来たとは限らない。ビザンツ帝国が禁圧したヘレニズム文化が、ペルシアで生き延び、イスラーム帝国にもたらされた場合もある。

    メモ注意!教会のギリシャ化は訂正するべし。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,760
    マアムーンは、優れた学者を集め、ギリシア語やシリア語からの翻訳を奨励した。現代風に言えば、先端科学研究プロジェクトの実施のようであった。翻訳を通じた文化の伝播という点では、アッバース朝時代の翻訳運動は、人類史における二大翻訳運動の一つであり、仏典の漢訳とならぶ規模と質を持っている。この翻訳運動は、後のイスラーム科学の発展に多大な寄与をしたし、イスラーム世界でもきわめて高く評価されている。マアムーンの「功」であろう。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,779
    とすれば、聖典はこの世にある被造物であるという結論になる。ムウタズィラ学派は、これなら矛盾は生じないと考えた。カリフ・マアムーンもこの説に納得したわけである。

    ★ メモマアムーンはイスラム学者の抵抗を受けた。

    黄色のハイライト | 位置: 2,809
    ミフナはおよそ一六年続いたが、ムタワッキルの代になって廃止された。ムタワッキルが廃止に踏み切ったのは、政策として無意味となっていたからであろう。これ以上、王朝の正当性を崩すのは得策ではなかった。結果として、国家と社会の戦いにおいて、社会が勝利することになった。このことによって、イスラームの護持者がウラマーであることがほぼ確立したと言える。ミフナのような制度が再び施行されることはなかった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,830
    八世紀半ばからおよそ二世紀におよぶアッバース朝の繁栄期は、新しい国際的な貿易ネットワークを発展させるものとなった。それによって、東は中国、西は地中海に至る広大な地域が、交易と文化交流のネットワークによって結ばれることになった。さらに、イスラームの広がりによって、北アフリカからサハラ沙漠を南下する貿易ネットワークも発展したから、ほぼ「旧大陸」のすべてがこのネットワークによって結ばれた。  やや大げさな言い方をすれば、地球上の諸地域が国際的に結ばれることで「世界」が成立するとすれば、その最初の形態はアッバース朝期に形成された世界貿易ネットワークによるものであった。その後の発展は、次の段階がモンゴルがユーラシア大陸のほとんどを面的に統合することで成就し、さらに、近代に至り西洋列強の制覇によって新大陸をも含む「世界」が成立することになる。そのような「世界」の発展は、まずイスラーム帝国によって最初に大きく促進された。


    黄色のハイライト | 位置: 2,839
    八~一〇世紀において、イスラーム帝国が国際的なネットワークを発展させたことを実証的に示したのは、家島彦一氏の『イスラム世界の成立と国際商業──国際商業ネットワークの変動を中心に』(岩波書店、一九九一年)であった。その内容は、学術的に見て欧米の研究にはるかに先行する優れたものとなっている。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,844
    アッバース朝は、ササン朝ペルシアの交易圏であったインド洋の海域と、ビザンツ帝国の交易圏であった地中海の海域を統合した。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,851
    三大陸の接点という見方は「陸域」の視点によるが、西アジアはインド洋と地中海という異なる海域の結節点でもある。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,854
    確かに、西アジアを「文明の十字路」として見る場合、陸と海の両方の視点が必要であろう。  二つの海域をつなぐのは、ペルシア湾を軸とするネットワークと紅海を軸とするネットワークであり、ウマイヤ朝からアッバース朝前期において、この二つを軸として二つの海域が統合され、大きな国際交易ネットワークが発展することになったのである。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,860
    アッバース朝によって創建された「平安の都」バグダードが、第五代カリフ、ハールーンや第七代カリフ、マアムーンの時代に繁栄をきわめたことは、すでに述べた。その繁栄の基礎は、このような国際交易ネットワークの中心となったことにあった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,884
    イスラーム以外の宗教を奉じる人々、ユダヤ教徒、キリスト教徒、ゾロアスター教徒も、マイノリティー宗教を包摂する仕組みによって、才能を発揮する場を得た。彼らは、特に商人として大いに活躍した。また、君主たちに仕えたユダヤ教徒やキリスト教徒の医師や官僚もたくさんいた。さらに言えば、シーア派の諸分派の人々も、自分たちの宗派ネットワークを利用して、商人として栄えることができた。イスラーム国家は一般に、他宗教に寛容であるのに比べると、イスラーム内部の分派に厳しい側面を持っているが、経済活動に関する限りこれはあてはまらなかった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,893
    モスクでは金曜日ごとに集団礼拝が捧げられるが、その前に沐浴することは「預言者の慣行」として尊ばれた。バグダードの最盛期である第五代カリフ、ハールーンから第七代カリフ、マアムーンの時代(七八六~八三三年)には、モスクが三〇万、浴場が六万軒もあったという。浴場それぞれに従業員(風呂たき、水汲み、ゴミ収集、監視)が五人だとすると、それだけでも三〇万人に達する。この最盛期の人口は、一五〇万人から二〇〇万人と推定されている。この人口は、ビザンツ帝国の都コンスタンチノープルよりも、唐の長安よりも多く、当時世界最大の都市であった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,902
    バグダードの人口が一五〇万人を数えた頃は、イラクの他の都市、たとえば大征服の初期に建てられたバスラ、クーファ、あるいはウマイヤ朝が建てたワースィトなども、一〇万人単位の人口を擁していたと思われる。イラクからペルシア湾のあたりの都市人口が四、五百万人、農村地帯を含めると一〇〇〇万人を超える人口があったとも推定されている。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,906
    これらの人口の食糧をまかないえたのは、不足する小麦をエジプト、シリア、イランなどから輸入する交易ネットワークにも拠っていたが、基本はティグリス川・ユーフラテス川流域地帯での農業生産力がこの頃の技術革新で高まったためであった。その中には、灌漑技術もあり、また、新種の農作物の導入もあった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,911
    ため、イスラーム圏から植物とそのアラビア語名がヨーロッパに入り、後に日本に伝わったものも多い。私たちが「舶来」のものだと思っているが、実はイスラーム帝国が世界に広めた植物をあげるならば、柑橘類のレモン、オレンジや、バナナ、サフランなど枚挙にいとまがない。現在では、マンゴーなども新しい果物として日本に定着しているが、これもインドから当時のイスラーム帝国を通じて西進した。さらに、私たちはご飯を洋食に付けるときは「ライス」と呼ぶが、ライスも語源はアラビア語の「ルッズ」であり、熱帯産のこの植物とその名称もイスラーム世界を経由してヨーロッパに伝わった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,919
    第七代カリフ、マアムーンは、科学や哲学の文献のアラビア語訳を大量に進めさせた。これらの諸科学を吸収し、さらに独自に発展したイスラーム科学が成立することになった。国際的な交易ネットワークは文化交流も推進し、知識と科学も流通し、バグダードや他の都市が科学の中心となった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,922
    数学もバグダードで発展した。今日残されているもっとも古い代数学の書は、八二〇年頃にフワーリズミーが著したもので、そこには二次方程式の解法も記されている。時代的には、アッバース朝第一〇代カリフ、ムタワッキルの頃である。ちなみに、フワーリズミーの名は、現代にも「アルゴリズム」という語になって伝わっている。イスラーム科学が数学に大きく貢献したことは意外と知られていないが、今日でも算用数字を「アラビア数字」と呼ぶことの中にその影響を見ることができる。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,928
    アラビア語が、宗教、法、行政の共通語のみならず、科学の共通語となったことは、国際的なネットワークにとって大きな意味を持った。帝国が衰えてからも、アラビア語の地位は低下しなかったからである。


    黄色のハイライト | 位置: 2,930
    申し訳ありませんが、この形式のコンテンツは表示できません。

    メモアラビア語起源の言葉の表。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,950
    ウマイヤ朝時代でも次第に住民の改宗が行われたが、彼らは「二級ムスリム」扱いに不満を持った。それが、アッバース朝時代になって解消されると、住民のイスラーム化がいっそう進み、一〇世紀頃には大半がムスリムとなっていた。改宗した人々を「同胞」として統合することによって、統治は安定することができた。その一方で、自治を守るマイノリティー宗教は、もはや人口的には脅威となることがなく、彼らを「庇護される民」として安全を保障する仕組みが、共存を可能にするものとなった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 2,960
    多くの地方王朝が、アッバース朝が衰えた後でもカリフの宗主権を認めたのは、彼らが、カリフが象徴するイスラーム的システムに依存していたからと考えられる。このシステムは、法を提供し、司法を担う法学者を提供するのみならず、人々が法に服すべき原理を提供し、統治者の正当性を提供するものであった。それがゆえに、実権を失った後も、アッバース朝は一三世紀半ばにモンゴル軍に滅ぼされるまで命脈を保ったのであり、その過程を通じて、ウンマの意識が各地に浸透し、イスラーム世界が東西に広がる基盤を作った。この原理は、アッバース朝が滅んでも、イスラーム的な価値として多くの地域で維持され続けることになった。


    黄色のハイライト | 位置: 2,973
    かつて、イスラーム史の通説では、イスラームの大征服と共に、被征服地の住民が大挙改宗したと考えられていた。要するに、ウマイヤ朝時代に住民のイスラーム化が進んだという見方である。この通説は、古くからヨーロッパで持たれていた「イスラームは剣の力で広まった」という俗説に近い面を持っている。その説によれば、大量改宗の理由は、庇護される民が支払う人頭税(ジズヤ)を逃れるためであった、と説明されていた。  しかし、その後の研究の進展によって、事実としてそのような速度では大量改宗がなかったことがはっきりしてきた。イランの場合、住民の大半が改宗するまで、三世紀ほどかかったと考えられる。改宗の速度は、地域によって異なるようで、一様ではない。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,021
    イラクはササン朝ペルシアの中心地であったから、そこではペルシア人の改宗者も多くいた。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,049
    広大な版図を支配し、イスラーム世界を実質的に成立させたアッバース朝も、一〇世紀半ば以降、次第に内部で分解し始めた。さらに、外側からもさまざまな危機が生じた。その最大のものは、ファーティマ朝の挑戦であった。九六九年にエジプトを征服したファーティマ朝が、いよいよイスラーム世界の心臓部であるバグダードをうかがう形勢を見せ始めたからである。 「ファーティマ」はあらためて述べるまでもなく、

    メモファーティマ朝はシーア派。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,134
    〇三一年になって、アッバース朝は一息ついたかもしれない。アンダルスで、八世紀半ばから続いた後ウマイヤ朝が滅び、小国乱立の時代を迎えたからである。遠い西方の後ウマイヤ朝は、軍事的にはバグダードにとって脅威ではなかったものの、正当性という点では同じスンナ派による挑戦であったから、その終焉はアッバース朝にとっては幸いなことであった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,141
    シリアから派遣された宰相サラーフッディーンが実権を握って、最後のカリフの死をもって王朝に終止符を打ったのは、一一七一年のことであった。サラーフッディーン自身は、自らの王朝(アイユーブ朝)を始めた。  彼はスンナ派に属していたから、ここにそれまで最強であったシーア派の王朝が滅びたことになる。

    メモアッバース朝からアイユーブ朝に。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,168
    ファーティマ朝の滅亡はアッバース朝にとってよいニュースではあったものの、その脅威が去ったからと言って、弱体化していたアッバース朝そのものが復活したわけではない。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,186
    モンゴル軍の襲来はまずは、イスラーム帝国にとって最悪の一撃となった。  一二五八年、イラクに襲来したモンゴル軍はチンギス・ハンの孫フラグが率いていた。第三七代カリフ、ムスタアスィムは降伏したが、赦されず処刑された。都の住民も多くが虐殺されたが、実数はわからない。推計は、一〇万人程度から一〇〇万人まで幅がある。宮殿や大モスクなどの主要な建物も多くが破壊された。  この時、大図書館ほか、数多くあった公共の図書館も燃え落ち、貴重な史料が失われている。ティグリス川に投げ込まれた書物のインクで、川の水が黒く染まったという


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,196
    一時は世界最大の都市であったバグダードは、モンゴル軍による破壊から二度と立ち直ることができなかった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,200
    バグダードの陥落は、イスラーム帝国の一つの時代の終焉を示すものであった。とはいえ、すでに政治的な実質をほとんど失っていたアッバース朝が、カリフ位の力によって一三世紀半ばまで生き延びたことは、驚異的と言うべきかもしれない。アブー・バクルによって始められたカリフ制は、ウマイヤ朝、アッバース朝と六世紀以上も続いた。


    黄色のハイライト | 位置: 3,203
    カリフ位のその後について、簡単に述べておこう。バグダード陥落の際に、最後のカリフは殺害されたが、一族の一人が落ちのび、カイロに向かった。当時はすでに、新興のマムルーク朝時代となっていたが、この王朝もスンナ派であり、アッバース家の末裔を手厚くもてなした。これ以降、アッバース朝カリフは、マムルーク朝に庇護された貴族のようなものとなった。マムルーク朝のスルターンにとってみれば、ウンマの代表者たるカリフによって君主としての正当性を保障されることができ、非常に便利な存在であった。


    黄色のハイライト | 位置: 3,211
    この亡命貴族のようなカリフは、オスマン朝のセリム一世が一五一七年にエジプトを征服し、マムルーク朝を滅ぼしたときに、その命脈が尽きた。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,217
    しかし、一九世紀にはいって西洋に対して劣勢が明らかとなると、イスラーム世界の広範な支持を集める必要に迫られ、オスマン朝のスルターン(オスマン語ではスルタン)が同時にカリフであるという主張がされるようになった。それによれば、エジプトを征服した際に、セリム一世が最後のアッバース朝カリフから、その位を譲られたのだという。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,240
    バグダードを陥落させたフラグはイル・ハーン朝(一二五六~一三三六頃)を開いた。二代にわたる君主が仏教徒で、親キリスト教を外交路線としたのに対して、第三代目になって、住民を慰撫するためにイスラームに改宗した。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,245
    イスラーム諸王朝が各地に林立する状態を、イスラーム帝国の多極化と呼ぶこともできる。


    メモ | 位置: 3,259
    おもなイスラム帝国図。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,285
    一二世紀にはスーフィー教団が確立され、それ以降はイスラーム世界の各地に教団が広がり、主要な教団の系譜が知られるようになる。彼らは「内面のジハード」を「大ジハード」と呼び、「剣のジハード」を「小ジハード」とする原則を確立し、広めた。  より重要なものが内面の悪と戦うジハードであり、それこそが「偉大なジハード(大ジハード)」とされたのである。スーフィー教団は、イスラームの交易ネットワークに沿って、東西南北に広がった。内面のジハードを重視する思想も、彼らの布教活動とともに広がった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,294
    アッバース朝が衰退した時代、さらにモンゴル軍によって壊滅させられて以降の状況である。この時代には、イスラーム諸王朝が各地に割拠し、イスラーム世界は多極化した。首都も単一ではなかった。総体として見れば、カイロが事実上の中心として機能していたが、版図の広さを見れば、一つの王朝が単独でイスラーム世界を体現するような時代では全くなかった。  にもかかわらず、これらの諸王朝の版図は「イスラーム世界」としての緩やかなつながりを持っていた。その中を、ムスリムも非ムスリムも自由に、しかも相当程度に安全に移動することができた。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,306
    このような状態を、イスラームを軸とする平和として「パクス・イスラミカ」と呼びたい。その様子を旅の生涯によって体現してみせたのが、一四世紀のイブン・バットゥータであった。彼は「イスラームのマルコ・ポーロ」などとも言われる。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,321
    さて、家島氏は、この時代にはイスラーム世界の交易ネットワークに一三~一四世紀を中心に成立した「パクス・モンゴリカ(モンゴルの平和)」が合わさって、伝統的なアジア交易ネットワークが展開されていた、としている。パクス・モンゴリカは他巻に譲るとして、ここでは「パクス・イスラミカ」が継続していた証左として、『大旅行記』を見たい。そこには、イブン・バットゥータが遍歴した三大陸のイスラーム世界の姿がよく映し出されている。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,330
    彼の旅程は、現代の国で言えば五〇ヵ国以上に及ぶが、その足跡を実際にたどった家島氏が出会った困難さを見ると、イブン・バットゥータの方がやすやすと国を越えていたようにさえ見える。一四世紀前半のイスラーム世界は、まさに多極化の時代になっていた。西から、マリーン朝(モロッコ、一二六九~一四六五)、ハフス朝(チュニジア、一二二八~一五七四)、マムルーク朝(エジプト、一二五〇~一五一七)、イル・ハーン朝(イラク、イラン、一二五六~一三三六頃)、ラスール朝(イエメン、一二二九~一四五四)、ハルジー朝、トゥグルク朝(インド、デリー・スルタン朝の一部、一二九〇~一三二〇、一三二〇~一四一三)などに分かれていた。しかし、この多極化の状況は、彼の旅にとって全く障害ではなかったのである。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,338
    ここでは興味深い彼の大旅行を追うゆとりはないが、特筆すべきことは、彼が旅先で裁判官を務めたこともあった事実であろう。インドでは、トゥグルク朝治下の首都デリーで、八年にわたって裁判官を務めた。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,354
    とまれ、たとえモルディブがイスラーム化の前線であったにせよ、西の果てからやってきたベルベル系の旅人が、インドやモルディブで裁判官を務めることができる、という事実そのものが、「イスラーム世界」がこの地にまで広がっていたことを如実に示している。それは、イスラーム帝国のもっとも重要な遺産であった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,362
    オスマン朝は一二九九年に小王朝として成立し、やがて一四五三年にはコンスタンチノープル(後のイスタンブル)を征服して、ビザンツ帝国の後継者となった。そして、その半世紀ほど後には、シリア、エジプト、二聖都のあるヒジャーズ地方などを版図に収め、名実ともにイスラーム世界の盟主となった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,366
    イスラーム帝国として「剣のジハード」の宣言権を持っていたオスマン朝が、最後にジハード令を発したのは、第一次世界大戦であった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,424
    しかし、このような散発的な抵抗では、強大な敵軍に対抗することはできない。特に、近代の西洋列強は、これまでイスラーム王朝が経験したことのない強力な近代的軍隊を持っていた。彼らが組織的にイスラーム世界の植民地化に乗り出した以上、未曾有の危機がやってきた──そのことを一九世紀に悟った人物がいる。ジャマールッディーン・アフガーニー(一八三七/八~一八九七)である。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,445
    もっとも、連帯を主張するだけではなく、彼はオスマン朝やイランの王朝(ガージャール朝)の専制をも批判した。現実を直視して、有効なレジスタンスを築くことのできない王朝は、イスラーム世界を防衛する責任を果たしていないし、その能力を欠いている、というのが彼の認識であった。したがって、彼は連帯だけではなく、改革をも主張した。


    青色のハイライト | 位置: 3,448
    一九世紀末のオスマン朝は、自国の危機を克服する方法の一つとして、カリフ位を称揚し、イスラーム世界から広く支持を集める路線を取った。これも官製とはいえ、汎イスラーム主義である。そのためもあって、汎イスラーム主義の唱道者アフガーニーをイスタンブルに招いた。しかし、彼の急進的な改革思想は、あまりに危険と思われたのであろう。活躍の場はあたえられず、一八九七年客死。毒殺説もある。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,459
     一九世紀から二〇世紀にかけての西洋の世界制覇、イスラーム世界の制圧は、単に軍事的な侵略と植民地化だけによるものではなかった。軍事的には近代的な軍隊によって荒々しい面を見せる一方、思想、科学、知識の面では、啓蒙主義や自由思想などによって、イスラーム世界を圧迫していた。そこでは、「西洋は進歩的で、イスラーム世界は後進的」「平和と愛のキリスト教、野蛮で好戦的なイスラーム」といった図式が描かれていた。  列強の侵略にイスラーム側が軍事的なレジスタンスを組織すると、進歩思想の立場から「後進的で好戦的」という批判が浴びせられるという図式である(現代的に言えば、「二重基準」という表現がわかりやすいかもしれない)。

    メモこれをそのまま引用できそう。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,473
    停滞しているイスラーム社会の悪弊を一掃し、ムスリムが生まれ変わって新時代を乗り切るようにするためには、イスラームの原点に戻ることが必要とされた。アフガーニーは、本来の純粋なイスラームに戻ることが、解決の道と主張した。

    メモ純粋なイスラムから離れたと主張。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,477
    それまでの長い時代に、さまざまな不要な解釈や立場が付着した。それを墨守しようとするような伝統派が、イスラーム世界を停滞させている、と彼は断じた。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,528
     イスラーム世界の基盤になっているのが「ウンマ」であることは、本書でも再三にわたって触れた。ムハンマド時代に部族主義を克服する新しい同胞の紐帯が生まれ、それに基づく共同体が「ウンマ」と呼ばれた。そのウンマは、最初はマディーナという小さな都市の領域の中にあった。しかし、イスラーム帝国が成立する過程で、ウンマは多民族・多言語・多人種のイスラーム共同体として、広大な地域に広がるものとなった。それを実現したのがアッバース朝であった。

    メモシオニズムはウンマの崩壊を招く?

    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,544
    要するにウンマは、ムスリムが少しでも存在し、自分たちがウンマに帰属していると思っている限り、信仰の共同体として何らかの実在を持っていると考えられる。したがって、オスマン朝の滅亡とともに消滅したのは、ウンマの統治機構であって、ウンマそのものではないことになる。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,548
    ここに、クルアーンには登場しない、もう一つの用語がある。「ダール・アル゠イスラーム」である。「ダール」は、ふつう「館」「家」を意味する。そこで、「イスラームの館」「イスラームの家」と訳されることが多い。この場合の「館」「家」は比喩的な用法であり、現代でも「ヨーロッパ共通の家」というような語法をする時の「家」に相当する。要するに、小さな国を超えた、イスラームの大きな領域を指す。ウマイヤ朝の版図はイスラームの館であった。アッバース朝の版図はイスラームの館であった。その後、アッバース朝の版図は複数の国家に分裂した。さらに、その外側にもイスラーム王朝が成立するようになった。  しかし、イブン・バットゥータの旅が証明しているように、多極化の時代でも、それらの総体が「イスラームの館」としての共通性を持っていた。いわば、王朝は多数あっても、イスラームの教え、イスラーム法という共通要素が広がっているのが、イスラームの館である。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,561
    イスラーム法の支配は、ムスリムの統治者を前提とする。住民の多くがムスリムであるかどうかは、必ずしも必要条件ではない。実際、ウマイヤ朝は住民の多数が非ムスリム(キリスト教徒やゾロアスター教徒)であった。


    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,597
    イスラーム的な観点から見ると、かつてのイスラーム世界の構成地域が植民地支配を脱したことは、一面では望ましいが、その反面、それらの独立国はイスラームの旗を降ろしてしまっていた。

    メモイスラム自体がグローバリズムで、ナショナリズムの対局であるようだ。

    青色のハイライト | 位置: 3,599
    たとえば、一九五五年にバンドゥンで開かれたアジア・アフリカ会議は、独立を遂げつつあったアジア、アフリカの国々が新しい時代を宣言するものであった。その立役者として、エジプトのナセル大統領、インドネシアのスカルノ大統領、ユーゴスラビアのチトー大統領などが脚光を浴びた。しかし、エジプトでは世俗的なアラブ民族主義が推進され、イスラームを掲げるムスリム同胞団は弾圧されていた。インドネシアでもナショナリズムが推進され、イスラーム国家を求めるマシュミ党は抑圧されていた。ユーゴスラビアは連邦制の社会主義国であり、ボスニア・ヘルツェゴビナなどのムスリムたちは「ムスリム人」という民族カテゴリーとして位置づけられていた。  当時でもわずかな例外として、サウディアラビア、モロッコなどのイスラーム的な王朝は存在したが、全体的な潮流の中では力を持っていなかった。むしろ、ナショナリズムが進展する中で、保守的な王国は守勢にまわっていた。

    メモその例。

    オレンジ色のハイライト | 位置: 3,620
    二〇世紀半ばまでは大方の予想では、イスラームも、キリスト教がかつて経験したように、宗教が政治・社会に大きな影響力を持つ状態から、単なる個人の宗教、内面の救済としてのみ意味を持つような宗教に転換するのではないかと考えられていた。その後のイスラーム復興を見てみれば、その予想が外れたことははっきりしている。


    黄色のハイライト | 位置: 3,632
    パレスチナ問題

    メモ取り扱うべき?祈る。

    黄色のハイライト | 位置: 3,677
    一九四八年にイスラエルが誕生したため、アラブ諸国では急進的なアラブ民族主義が席巻することになった。いよいよイスラームの影は薄くなった。この時代を見ると、かつてイスラーム世界の中核地帯であり、いくつものイスラーム王朝が栄えた中東ですら、「宗教の時代は終わり、民族主義の時代となった」との印象が強い。


    黄色のハイライト | 位置: 3,713
    戦争の結果は、アラブ側の総合的勝利であった。戦場では、前半戦をエジプトが圧倒的に優位に展開したが、イスラエル側も後半は必死の反撃を加え、軍事的に言えば一勝一敗と言える状態となった。しかし、アラブ産油国が、劇的な石油禁輸政策を取った。それは、「アラブの大義を理解しない非友好国には、石油を供給しない」というものであった。これによって、世界経済は第一次石油ショックに見舞われ、多くの国が親アラブ政策を採用せざるをえなくなった。これは政治的な大勝利であった。戦場における勝敗も引き分けと言うにとどまらない。「イスラエル不敗の神話」が打破されたからである。

    メモ親アラブ的見方。なるほどだが、やはりイスラエル勝利。

    黄色のハイライト | 位置: 3,726
    六七年戦争の後の展開で、忘れてはならないのが、一九六九年の第一回イスラーム首脳会議である。六七年戦争で、東エルサレムが占領されたことは、世界中のムスリムたちに衝撃を与えた。その上、六九年にはアクサー・モスク放火事件が起こり、ムスリムたちを震撼させた。そこで、サウディアラビアとモロッコという二つのイスラーム色の強い王国が、イスラーム首脳会議の開催を呼びかけた。


    黄色のハイライト | 位置: 3,733
     もし、オスマン帝国の終焉とともに、伝統的なイスラーム世界が瓦解したのだとすると、この首脳会議は新しい現代イスラーム世界の再生を象徴するものであった。この時、首脳たちは、「汎アラブ主義」「アジア・アフリカ連帯」などのスローガンではなく、イスラームを紐帯として一堂に会した。今日、「イスラーム国」とは何かという場合、もっともわかりやすい定義は「OICの加盟国」である。とすれば、この時に集まった二六ヵ国・地域の首脳たちは、国際社会の中に「イスラーム諸国」があることを示し、それを通じて「イスラーム世界」を再び目に見えるものにしたと言える。


    黄色のハイライト | 位置: 3,931
    どの宗教の家族法でも、同宗教内の婚姻を推奨するから、ムスリムはムスリム同士、キリスト教徒はキリスト教徒同士で家庭を作り、子どもをもうけるのが通常となる。親が子どもにつけるファーストネームは、ほとんどの場合、宗教的な含意を持っている。アラビア語で言えば、ムハンマドはイスラーム、ウマルはスンナ派、アブドゥルフサインはシーア派、ブトルスはキリスト教徒と、ほぼ決まっている。つまり、名前が個々人のアイデンティティ形成に大きな役割を果たす仕組みとなっている。


    青色のハイライト | 位置: 4,303
    いわゆる「イスラーム国」の実態がイスラームから乖離しているという問題がある。この分派は他宗教への攻撃、イスラーム内部での宗派紛争に邁進している。「ジハード」や「カリフ」などの語を乱用しているために誤解を呼びがちであるが、その実態は元々イスラームとは関係のない過激分子によるイスラームの乗っ取りに近い。

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著者プロフィール

京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授。専門は、イスラーム学、中東地域研究、比較政治学、国際関係学、比較文明学。
 1953年生まれ。北海道夕張市出身。1983年エジプト国立アズハル大学イスラーム学部卒業。1984年国際大学大学院国際関係学研究科助手、1985年国際大学中東研究所主任研究員・主幹、1990年英国ケンブリッジ大学中東研究センター客員研究員、1997年国際大学大学院国際関係学研究科教授などを経て、1998年から現職。2006年より同研究科附属イスラーム地域研究センター長併任。京都大学・法学博士。1986年流沙海西奨学会賞、1994年サントリー学芸賞、2002年毎日出版文化賞、2005年大同生命地域研究奨励賞を受賞。2005〜2011年日本学術会議会員。
 思想史においては7世紀から現代に至るアラビア語で書かれた史資料を用いた研究をおこない、現代に関してはアラブ諸国とアラブ域内政治を中心に中東を研究し、さらに近年は広域的なイスラーム世界論を展開してきた。また、日本からの発信として「イスラーム地域研究」を歴史研究・原典研究と現代的な地域研究を架橋する新領域として確立することをめざしている。
【主な著書】
『現代中東とイスラーム政治』(単著、昭和堂)、『イスラームとは何か─その宗教・社会・文化』(単著、講談社現代新書)、『ムハンマド─イスラームの源流をたずねて』(単著、山川出版社)、『「クルアーン」─語りかけるイスラーム』(単著、岩波書店)、『イスラーム帝国のジハード』(単著、講談社)、『現代イスラーム世界論』(単著、名古屋大学出版会)、『イスラームに何がおきているのか─現代世界とイスラーム復興』(編著、平凡社)、『現代イスラーム思想と政治運動』(共編著、東京大学出版会)、『イスラーム銀行─金融と国際経済』(共著、山川出版社)、『岩波イスラーム辞典』(共編、岩波書店)、『ワードマップ イスラーム─社会生活・思想・歴史』(共編、新曜社)、『京大式 アラビア語実践マニュアル』(共著、京都大学イスラーム地域研究センター)、Intellectuals in the Modern Islamic World: Transmission, Transformation, Communication(共編著、Routledge)、Al−Manar 1898−1935 (監修、京都大学COEプロジェクト、アラビア語『マナール』誌・CD−ROM復刻版)他。

「2011年 『イスラーム 文明と国家の形成』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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