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感想・レビュー・書評
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買って数年ぶりに手に取り、やっと読み終えた。伊藤、山県、西園寺という元老たちと近代日本。議会政治が未熟な当時の調整役。首相を決めたり、天皇に助言したり。西園寺が亡くなり元老がいなくなると、日本は破滅の道に。
元老にいいイメージがなかったが、少し見方が変わった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
大日本帝国憲法において、特に議会政治が確立するまでは、法律に定めのない「元老」も機能していたのだろう。
ただ、それは、天皇側が立憲君主として抑制的に機能するということを理解していることと、また、元老側も私利私欲を捨てて国家を第一に考える、という姿勢がないと成り立たなかった。
その意味で、真にこの仕組みが必要であり、機能していたのは明治までで、大正に入り原敬が政党政治を確立してからは、実質的に不要になり、昭和のころは陸軍に対する歯止めに過ぎなかったのだろう。
天皇主権、統帥権、議会政治とある意味では制度不全にある仕組みの中にあって、実を重視してきた柔軟性が先人の賢さだったのかもしれない。
西園寺が昭和に入ってから元老を増やさなかった理由も、成熟した議会政治の下では元老は不要になる、との理念があり、私利とは無縁であったことを示しているといえる。
以下抜粋
・伊藤が欧州での憲法調査で学んできた憲法は、君主機関説であった。それは国家に主権があり、君主も行政府や議会と同様に、あるいは形式的には最も重要な機関とするもので、君主専制を否定する考え方であった。
・日本の近代化が成功した大きな要因の一つは、彼らの中に共通の目標とモラルがあったことである。それは、維新の過程で死んでいった先輩・友人たちの志を受け継いで、日本の独立を守り、発展させなければならぬ、ということだった。また、私的な利益のために権力を使い、蓄財はしてはならぬ、という節度もあった。
・原敬は元来植民地獲得・勢力圏の拡大よりも、安定した秩序の下で自由な貿易を通して日本が発展することを理想としていたので、第一次大戦後の変化を全く悲観していなかった。
・元老という大日本帝国憲法にない慣例的制度は、自然にできたのではなく、新しい状況に対し、天皇が調停者としての君主機関説的天皇であり続けるべきだと考える伊藤博文と明治天皇らの医師によって、形成され修正されていったことである。 -
元老という視座を設置して維新以降の政体を描かれたことで読者としては通史として理解を深めることができた。この視座の設け方は本当アイデアの勝利!
ただ、著者が丁寧に元老を元勲と区別し定義し、誰が元老であり誰が元老ではないかと得々と語るが、そこに意義はあまり感じない。あくまでもこの視座で描いた通史としての価値が自分にとってこの本の最大の評価ポイント。
著者においては伊藤、西園寺の評価が高い。
ただ、寡頭政の中心であった西園寺は年齢、陸軍がどうであろうがその結果責任は負うべきであり、死後の日本の破局について罪がないと言い切れるのか??
少なくとも山県においては陸軍は抑えることが出来ていた(西園寺より)。また、寡頭政を選択した以上、後継問題は間違いなく指導者の責任であり、それが出来なかった(もっとも不幸な事故も多々あったが)ことの罪はもっと重いはずだ(西園寺の年齢と病気にはいつも甘い論調)。
寡頭政と民主制、漸進的と急進的。単純に二元論化すれば間違いなく前者を選択した維新以後の指導者。歴史にifがない以上後者を選んだ場合の結果は不明。ただ、どの論調も明治初期の成功と昭和初期の失敗とい論調になりがちなのが気になる。政党の腐敗も自浄作用がやがて働くという観点はなかったのか?その余裕は時代的になくこの指導者達が示した道が「正」とするのは思考停止ではないのか??