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感想・レビュー・書評
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ふつうに育ってくれれば良いと親は言う、しかしそのふつうは例えば住むところによっても大きく違う。例えば通勤時間、家賃、教育環境などで住む所を選ぶと階層が似た人たちが集まって来てそこには町の文化が立ち上がる。例えばこの街では中2から塾に通うのがふつうと言ったように。それぞれの家庭や地域や学校での教育格差はどうやら小学校に入る前には現れ、ずっと持続しているのが日本の社会だ。日本が特殊と言うことでもなくOECDの報告書からは、どこの国も「生まれ」によって学歴達成格差のある緩やかな身分社会であり、学歴によって社会経済的便益が異なる学歴社会なのだ。少なくとも国際比較が可能なデータでは、日本の15歳の能力は高い。しかし格差という見方をすると平均的だ。教育界で礼賛されることが多いフィンランドを含めどのような社会であっても格差を埋めることは難しい。教育業背だけではなく、税の再配分を含めてどれだけ平等主義的にしても、SESによって15歳時点の学力格差が明確に存在するのだ。
日本では親の学歴と世帯収入は大きく重なり、本書では親の学歴を大卒0、1、2人の3階層に分けて格差の実態をこれでもかと並べている。この元になるのがSES、社会経済的地位という考え方だ。世帯収入だけでなく、経済的、文化的、社会的要素を統合した地位を意味する。似通ったSESの階層では親の子供に対する働きかけ方が似てくる。そして格差は小学校入学前にすでにあらわれ、そのまま維持され、高校では偏差値によって固定化されている。
SES階層の違いによって様々な行動で違いが見られる。親子の大学進学希望率、私立校への進学、1日あたりの学習時間、メディア消費時間、蔵書数、学校活動への参加、親から子への関与の度合い、習いごとの数や塾に通う時期などなど、明確な相関関係が見られるのだ。全国共通の教育指導要領と義務教育は格差を縮める方向に働くが例えば夏休みにはその差が開く。継続して学習する環境があるかどうかと言って良いのかもしれないがどちらも普通の生活を送っている。
私たちにとってはごく当たり前の高校ランキング制度は世界的にかなり特殊だ。義務教育段階で「生まれ」による学力格差を埋めないままの「能力」選別は、SESによる分離(隔離)を制度として行なっていることになるのだ。高校受験に失敗しても大学受験で敗者復活する者もいるが、その生まれは高階層出身者に大きく偏っていた。そして低ランクの高校教師は達成感の無さのためか生徒に期待していない。生徒は諦められている。
これまでの様々な改革と言われるものはこういった現実を見ないものだった。例えばよく言われる大学無償化をしたところでSESごとの元々の格差は埋まらない。経済力だけが大学進学の格差の理由ではないからだ。学校群制度は高校による能力選別の解消を目指したものだったが高学力、高SESの生徒は私学に流れた。結果として同じ学内にロールモデルがあれば高ランクの大学を目指していたかも知れない生徒から機会を奪うことになってしまう。
基本的には「平等」に軸を置いて「公平」をめざす介入か、個人の「自由」による「優秀さ・効率」の追求かという価値の相克に話が戻る。1つの価値軸を重視することは誰かの血が流れることを意味し、同じ扱いでは結果が出ず、選抜という現実があり、データによる現状把握をすると「自己責任」の名の下に格差が拡大する姿があらわになる。
ではどうするか、まずは現状をデータで把握すること、そして教職課程に教育格差のカリキュラムを入れること。少しでもましな対策を取るためには改革の効果を測定しないとできない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
特集「コロナ禍が露呈させた『教育格差』その実態と解決への提案」多喜弘文×松岡亮二××荻上チキ×南部広美▼2023年6月29日(木)放送
https://www.tbsradio.jp/articles/71735/ -
奇をてらわずに基本データから丁寧に解説。
良書! -
P62 近隣の「教育意識」は重要な教育「環境」
教育意識の近隣間格差は、文部科学省が学習指導要領や財政的支援によって公立小中学校を標準化し、日本全国どこでも同じ教育を提供しようとしても、どんな近隣にあるかで、その中身が変わってしまうことを意味する。
大卒割合の高い地域の公立学校であれば、こどもたちは将来大学にしんがくすることを前提に学校の勉強に取り組むだろうし、親は大学進学につながる教育を学校に期待する。そのような地域の親は同じく大卒である教師と進学準備教育という共通目的のために協働することができる。
~よって、同じ公立学校であっても、近隣の大卒割合によって異なる運営がなされることになる。
~これはコミニィティから引き出せる資源に格差があることを意味する。住民の大半が「とりあえず高校にさえいってくれれば」という意識である場合、その自治体の長や議員は選挙権を持つ住民の高齢化のなかで、結果がすぐに出ない教育に多額の予算を振り分けるだろうか。
⇒日本の縮図とも言えるね。 -
「教育格差は存在する」と認めている立場からのスタートだと、1~5章はただただ事実の確認が続くだけで同じことの繰り返しにしか見えないのだが、そもそもバラバラのデータから教育格差の存在を示すバラバラの指標を探すような方法しかないために、主要なデータはひと通り出すということなのだと思う。
点が少ないせいかグラフにもならず数字が並んだだけの表が延々と続くのは超見づらいのだけど…まあ、熟読するというよりは、どんなデータでなにを代替したかを出典とともに見る、というかんじで、6章まではほぼ論文だ。
7章は楽しく読んだ。分析可能なデータが欲しいという嘆きと教員はこの実態を認識すべしという真っ当な訴えで終わるのだが、完全に解消し得ない問題を前に、自分が比較的優位な立場にいることについての葛藤を丸出しにしていて、とても共感した。
で、「実際のところ…」とか言い出すので、お、村上春樹か?と思っていたら、あとがきでぞんぶんに村上春樹の言葉を出していて、笑顔になってしまった。7章とあとがきの文体、とても好きなので、(著者の他のお仕事は全く知らないのだが)論文以外の文章もどんどん書いていただきたいと思った。
■意図的養育と放任的養育(p87)(←意図的のほうが大人に支配される傾向があるのかなと思っていたら放任の方が権威に従う制約傾向があるのかというのが意外。言葉の印象か?)
■経済資本(p81)…親学歴で代替
■文化資本(p113)…家庭の蔵書数で代替
- 客体化された文化資本←蔵書数
- 制度化された文化資本←親学歴と相関
- 身体化された文化資本←文化的な習慣
■社会関係資本(p132)…親の学校参加頻度(←職場環境によりそう) -
日本で社会経済的地位(SES)に由来する格差が脈々と受け継がれてきたことを豊富なデータに基づいて示した労作。本書で示された事実は今までも誰もが薄々感じていたことだと思うが、こうしてデータによって示された意義は大きいし、現実として重たさを増す。日本では分析可能なデータが蓄積されてこなかったという指摘(第7章)には頷かされた。
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教育機会の格差は、生まれ(階層・地域・学歴)による。
小学校入学までにすでに格差がある。要素のひとつに親の文化資本がある。
・客体化された文化資本 ex)本の数
・制度化された文化資本 ex)学歴
・身体化された文化資本 ex)言語、知識、教養
親の文化資本、近隣の大卒比率、意図的な教育への介入、学校外の教育サービス利用の度合い等により、格差は拡がる。
箱やカリキュラムを標準化しても、実際にどのような教育実践が行われるかという「中身」は、地域の社会経済的文脈と、どういった親の子が通うかに左右される。
これからの教育の大方針をどうするか
・「平等」に軸をおいて「公平」を目指す介入か
・個人の「自由」による「優秀さ・効率」の追求か
生まれによる格差と労働市場との連動を認識しないと、表面的な「自由な選択肢」「個別化・多様化」が格差を拡げる可能性がある。
雑なメモだけど、データをもとに自分の肌感覚を検証したり、そもそもの構造を捉えることは大切。これからの教育の在り方を考える一面として、非常に考えさせられた。 -
すべての社会に格差は存在し、「生まれ」の差がそのまま次のライフステージに持ち込まれていることは明らかに分かった。この事実をどう捉えるのか考えなくてはいけない。