ウィトゲンシュタイン本人も述べているようにこの本は読み物として完成されたものではなく、一種のアルバムのようなもの、断片的な思索が緩いまとまりと緩い連続をもって編まれている。
このアルバムのコンセプトは過去の哲学的系譜とそれに連なる自著『論理哲学論考』との決別だ。
プラトンから始まり西洋を貫いてきた言語と対象と意味の癒着関係を解きほぐすことを試みている。
そのために彼が用いるのは「言語ゲーム」という概念ツールだ。
対象に対してある意味を関連付けて言葉の定義を行っていくような旧来の言語観の代わりに、
「言語ゲーム」は、言語をチェスやサッカー、NintendoSwitchなどなど、それらすべてをひっくるめて「ゲーム」と呼び得るのを可能にするような言語使用の実践的範例(パラダイム)として提示する。
本著の中でウィトゲンシュタイン自ら「言語ゲーム」という言葉を何度も使用していくことによって、この言葉の機能と範例を示そうと試みている。まさに繰り返しゲームに挑むことによって少しずつそのゲームのルールを理解し、習熟していくように、言語も実践を通して意味を成していくのだと示しているかのようだ。
言語の重心を実践的公共空間に見る言語ゲームの観点からすると、命題が世界を記述する可能性やある概念の正当性を問題にするといった、実践から乖離した言語使用を行う哲学の営み自体も、哲学者たちのコミュニティ間でのみ実践される一つの言語ゲームに過ぎないことになる。
それゆえ日常的な言語使用や別領域の学問に対して持っていた基礎づける学としての哲学の自負は砕かれることになる。
普遍的な知、知識の基礎としての哲学、それに伴う概念、命題、言語は他領域と同じ平面に位置する一つの言語ゲーム的領野に過ぎないことになるのだから。
またウィトゲンシュタインは哲学が扱う私的言語の問題、特に「痛み」に関する私的な感覚と公共的な言語との疎通問題に関して言及を行っている。
「痛み」というこの感覚を全く独自の私的なものとして捉えると、私が認めることができるのはまさしく私のこの「痛み」でしかなく、他者のその「痛み」に対して確証を得ることができない。こうなると同じ「痛み」という言葉が私と他者との間で絶対的に隔たっているため、言語は私的なものとならざるを得ない。つまり他者の主観を感覚できないため、私たちはめいめい自分なりの感覚に基づいた互い違いの言語使用しか行えないことになる。
こんな哲学的問題をウィトゲンシュタインは
ある対象(「痛み」)と、その意味(今感じているこの感覚)とが一致しているかどうかの正当性を問題にすること自体がナンセンスであると考える。
そのナンセンス性を示すため彼は「箱の中のカブトムシ」という有名な思考実験を提示している。
あるコミュニティの中で皆、自分だけが自分の抱える箱の中の「カブトムシ」を見ることでき、他人の箱の中身を見ることはできない。各々は自分の箱の中身を見ることによってのみ、「カブトムシ」の何たるかを知るのだ。さらにその「カブトムシ」はそれぞれ全く形が異なっているかもしれないし、形が変化し続ける何かかもしれない。それゆえ彼らのコミュニティの中で用いられる「カブトムシ」という言葉は実質、意味ある指示を行うことができないように思われる。
実際、それぞれが語る「カブトムシ」があまりも食い違ったものであるなら、それは意味をなさず、語りえないだろう。しかし彼らのコミュニティの中で語られる「カブトムシ」がうまく機能するなら公共的に有意味なものとなり、語りえるだろう。
こう考えると対象と意味の整合性にこだわり続けることが的を外したものとなってくる。ある言語ゲームにおいて「カブトムシ」が有効に機能するかどうかが問題であって、その「カブトムシ」が私にとってどのようであるかは、日常的な言語使用においてさほど問題とはならない。気にかけるのは言語を実践的使用から切り離し、言語そのものを問題にしたり、「カブトムシ」という概念を抽象的に思索しようとする哲学者だけだというわけだ。
著者は、このように時にユーモラスな思考実験を行ったり、日常的な具体例を題材にとったりして、言語ゲームを実践していく。言語ゲームは範例を示してくことこそが重要だからだ。その遂行が体系的な思想を拒み、本著にアルバム的な言語使用を要請しているゆえんなのだろう。