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感想・レビュー・書評
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人類はいずれ絶滅する。人は必ず死ぬ、というのと同じくらい誰もが知っている未来の事実だが、自分が死ぬことを連想できないのと同じくらい、普段は考えることができない事柄だと思う。しかし、自分の死を意識し、絶望した時にふと浮かぶ「どうせ人類もそう遠くないうちに絶滅するのだから」という考えが救いになることがある。
このタイトルを見た時、明らかに、自分に取って救いになる本だと思った。
だが、過度の期待はあっさり裏切られた。これは哲学書であって、聖書ではない。絶滅することを念頭にさまざまな苦しみを考える書だ。
個人的には、好んで読んでいて大学の卒論でもテーマに扱ったジョルジュ・バタイユが各所で引用されていたのが嬉しかった。やっぱり絶滅と言えばバタイユですよね。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
途中まではすごい興味をそそられながら読めていたけれど、後半は村上春樹作品論を読んでいるだけになってしまってうーん 村上春樹作品はいいぞ!って薦められただけの印象で終わってしまった 2023初読
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我々は、「絶滅」というワードに過剰に反応してしまう。1999年から2000年にかけて、ある種祝祭的に熱狂し、「絶滅危惧種」なる生物に微睡み、つい憧れににた感情をあらわにする。この著作はその「絶滅」への意識的なオマージュであり、文芸批評家「加藤典洋氏」の衣鉢を継ぐ村上春樹論を通して語られるあらかじめ失われた未来への展望書でもある。
「生への執着」から、執着してしまう人間の思考の癖から距離を取ってみたいというのが本書の主題である。と著者は言う。
人間は他の動物種にはみられない二つの特徴を有している。
①人を殺さない、つまり戦争を含めた暴力を振るわず、残酷さを減らし、その根絶を唱えること(平和主義)
②動物を殺さない、つまり生きるために他の動物を食べること(肉食)をやめようと決意すること(ヴィーガニズム)
この二つは人間の「暴力」についての歴史的反省の延長上から出てきたものです。
作者の企図はこれに、人間だけの固有性として
③人類は自らの種の絶滅を思考し、その準備ができること。これをを付け加えたことである。
①については、前世紀にアウシュビッツとヒロシマ、ナガサキを経験したにもかかわらず今またクリミア半島で暴力の大殺戮が行われている。コロナもあいまってこれは本当に世界は絶滅するのでは?と思わせる。
②については、私の住む人口十万にも満たない地方都市でさえ、ビーガンに限りなく近いオーガニックのレストランがオープンした。
③については、1972年に作られたローマクラブの「人間の視野」の図を途方もなく拡張した図の右上、50億年後と天の川銀河が交わる場所(★)をバタイユのいう「至高性」の経験が起こる地点(絶滅地点)として、その位置から我々の現在地を見、準備するということである。そのようなことが可能なのか?可能であるということの例証として古典落語や、「伊勢物語」在原業平の辞世の句.....を取り出してみせる。
『つひに行く 道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思わざりしを』
本居宣長の「物のあはれ」、モンテーニュの精神(さて、これで死んでしまっていたら)にも通じる。そして著者はこう結論付けている。
『僕たち人間は、この死の間際に「ああ、自分はもう逝くのか」と思考し、それを笑うだけでなく、自分たちの「種の絶滅」についてさえ思考できる(おそらく)唯一の生物種です。』と。
そして著者の論考は、「ツルツル=善」という規範がこの社会を席巻し「ツルツル教」が社会に蔓延しているとし、以下のように観想する。
【今や僕たちが目にする理想や目標は、一昔前の哲学や思想、文学を表現していた「言語」ではなく、その背景や横に配置される色とりどりのツルツルな「視覚像」であり、「映像」です。
人間はもはや自分自身の言葉と思考で未来を見据えているのではありません。(中略)「見えるもの」に席巻され、それにあらかじめ可能性を描かれてしまっているのです】さてこの素晴らしい著書を私の拙い文章で要約するのは、困難極まりない。以下に目次を展開します。
【目次】
手引きのようなもの━視野を途方もなく拡張する
1 絶滅へようこそ
2「まだ始まっていない」と「もう終わって
いる」の隙間を生きてみる
3 機械のやさしさ
4 食べられたい欲望
5 神はまだ必要なのだろうか
6 人間はツルツルになっていく
7 苦しめば報われるのか?
8 大人しい人間と裁きたい人間
9 暴力と寛容
10 風景なきiPhoneは空虚で、iPhoneなき風景
は盲目である
11 自己家畜化とどう向き合うか
12 歴史の終わりとは何だったのか?(過去か
らの終わり①)
13 村上春樹とピンボール・マシーン(過去か
らの終わり②)
終わりが始まるまでに――人間の行方
著者は、本書の構想のきっかけのひとつとして加藤典洋氏の『人類が永遠に続くのでないとしたら』(2014)をあげている。そこで加藤氏は、核廃棄物を10万年に渡って人間の管理下に置くというフィンランド政府の決定に驚いたという。
つまり加藤典洋でさえ、想像力の及ばない「絶滅」につきまとう人類の遥か彼方ににたゆたう思考の果てを描出したかったのではないか?と思われます。そして最後に用意したのが「村上春樹論」です。村上作品の主人公を「はぐれ官僚」との見立ては、すぐれて慧眼でした。
「1973年のピンボール」論考で展開された「鼠取り」=「アウシュビッツ」=「養鶏場」は出版から25年後の2005年にベルリンに建造された「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」とのアナロジーで語られ、鳥肌が立ちました。まさに預言の書と言っても過言ではないでしょう。この書物は膨大な量の資料が紹介されているが、この手の本は、脚注が後ろに纏めて揃えられていることが多いが、この本は脚注の説明がその都度見開きの左頁に(又は次頁の見開きの左頁)ありとても読みやすく編集されていた。引用者の名前を思い付くままに挙げる。
バタイユ、カント、リオタール、ニーチェ、フーコー、デリダ、グレーバー、コジェーブ、アニメ作品、ハリウッド映画、日本の現代文学の村田沙耶香、川上弘美等が正鵠を射て引用されていた。とくに今回、自分はデビッド・グレーバーに強く惹かれた。夭逝が悔やまれる。
また寛容(消極的寛容、抑圧的寛容、開放的寛容)に対しデリダの絶対的歓待を考察し、暴力を排除するための暴力として「反応的暴力」と「計画的暴力」の考察には瞠目させられた。
最後に著者の専門分野の『現象学』の創設者=エドムント・フッサールを引用した著者のこの本の後書きをブログから転用させていただきます。
必然的に普遍的な『逝くにまかせること/断念すること(Fahrenlassen)』というものがあるのではないか。それは『世界』を逝くにまかせることであり、人格としての自分自身を逝くにまかせることであり、したがって『自己意識』の終わり、一切の意識一般の終わりである。無意識としてなおも措定されている様相、つまり一切の沈殿した意識の終わりでもある。この逝くにまかせることは、世界的-人格的な『無』へと沈み込む」(Husserliana, XXXIV, S.473 ※フッサール全集からの引用)。
ここ数年のあいだに読んだ本のなかではベストワンでした。みなさん!一読を強くお薦めします。この本自体が絶滅危惧本にならないことを願っています。("⌒∇⌒")(笑う) -
社会の色んな問題が解決されて、人間が”ツルツル”になっていったら、人類なんて滅びていくんだろうなあと、力を抜いてやや俯瞰的に考えられた
同じようなテーマを火の鳥で数十年前に描いた手塚治虫の凄さも感じつつ、#読了
面白かった
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