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感想・レビュー・書評
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非定型発達と自覚する筆者が、自分の経験、障害者施設での観察と経験等を通し、社会の中で普通に生きているようで実は無自覚に自分を殺していないか、社会とうまくいけない自分をしっかり観て(筆者はこの字を使う)、言葉にならない自分の内面の声を聞き、自分を殺さず自分を認め自分を生きることを提案している本・・・なのだろうか。実は最後まで、つかめないままで終わってしまった。人とうまくやっていけない子どもに対して、どう接してあげたらいいのだろう。その子どもは、自分を否定することなく自分なり社会との折り合いの地点を、どう見つけてくのだろうかという、私がもやもやと抱えている問題に対して、筆者は書いているのだと思うのだけど。障害者施設での筆者の観察、そこから見える健常者とされる側の褒めるとか支援するとかその中にある優生思想の発見(?)、そして障害者とされる人の、拒否をしてもそこに善悪のジャッジがない感覚に気づく場面はよかった。映画「癒しの家」の解説もとてもよかった。何か社会の中でうまくいけてない感があったり、人に理解してもらえない苦しみを持つ人(でもこれ、多かれ少なかれみんな持ってるよなあ)に、救いというより別の何かがある本。誰か解説してほしい。というわけにもいかないので、筆者の別の本も読んでみましょう。
#尹雄大,#非定型発達、詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
感情の表現と説明は違う
自分を公正に扱うこと
社会外生命体 適応できなくて当然
いいものを持っているけど何の役に立つかはわからない
それぞれのタイムラインを生きる
共感は自分を相手に投影しているに過ぎない、共感できる部分はわかる、できない部分はわからない、と簡単に済ませてしまえるのは相手の話を自分の話として聞いているからで、自分を投影していることに気付くことさえできていない、相手のわからなさ故にしりぞけることが公正さに欠けるのは、傾聴や共感が足りていないからではない、(ここまではわかる)、感情を介さずに言わんとすることへ注目するのだ(わからない、坂口恭平の言う自分の声を聞くみたいなことだろうか?というか今もなおわかるわからないと言っているな、でもこれは説明だからわかるとかわからないとか言ってもいいんだと思う)
困難さからくる飢餓感を受け止められるわけにはいかない、自分が変化する可能性が失われるので寄り添われるわけにはいかない人がいる
感情を介さずに聞くってどういうことなんだろう
他者との共感は共感できなさに手を伸ばすためにあり、自分も知らない自分と出会うためにある、確かに他者との関わりで得られるおおきな喜びのひとつに、自分のことが少しずつ明らかになることがある、自分が求めている物事に共通するのは何なのか、核を探るような作業
・相手の話していることを自分の語りのきっかけにしない
・共感への注力は理解への道のりではない
・何事も当然だと思わないようにする
傷ついたことは本当だが それをバネに強固な信念を作り上げて 所謂逆境に打ち克つ というストーリーを作り上げてしまったら ちゃんと傷ついていない
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社会が現実ではない人
はたらく、とは止まっていた物が動き出すこと、存在しているだけでみなはたらいている
知らぬ間に内面化されている優生思想 生産的に生きることで優しさを手放しているとしたら?生産的であろうとする気持ちの根源が優生思想だったら?
平和と争いは両立する 湧き上がる不穏さは自然現象のようだと思った