古典と日本人~「古典的公共圏」の栄光と没落~ (光文社新書) [Kindle]

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感想・レビュー・書評

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  • 著者の主張には全面的に賛成である。古典の背景がない人間の言葉は浅はかで重みがない。

  • 2023/5/28

  • 文学博士による、日本の古典について述べた本。極めて学術的な内容で、論理的に日本の古典の評価をし、四大古典として『古今和歌集』『伊勢物語』『源氏物語』『和漢朗詠集』を挙げている。著者が言いたいことは、「古典が何の役に立つのか、と言われれば、実利的には何の役にも立たないが、自己を豊かにし、過去と繋がる自己を作っていくことだけは間違いない。こうして、古典・古典語をもった国・地域に生まれ育ったという宿命を甘受し体得することによって、古典はアイデンティティーとなるのである」に尽きる。古典を学習することの意義を理解した。

    「メジャーの面々は大学入学後、古典なるものと接することは一般教養科目で古典を選ばない限りほぼなく、自分と無関係な存在として別段意識もせず人生の大半を過ごしたはずであり、仮に現在の彼らに古典教育は必要かと改めて尋ねたら、高校時代の古文・漢文の授業を思い出して、渋面を作りながら、いらないと即答するに違いなかろう。ましてや一般社会に生き、日々の生活に汲々としている圧倒的多数の人たちにとって、古典など別の世界の訳のわからないものとして見向きもされないに違いない」p15
    「儒学・漢学を自己の知的エートスとしていた井上毅が文部大臣としては断固古文・漢文廃止論を表明したのである。近代=西欧ととらえていた当時にあって、古典の文章は、およそ「西欧的論理」=近代的論理に乗らない旧時代の代物であって、こんなものにかかずらっていると、日本は永遠に欧米列強から取り残されて、植民地になってしまうといった、それなりに切実な危機感があったからだと思われる」p17
    「(三島由紀夫)現代語訳を読むだけでは、古文原文のもつ感性・感覚・リズム、そして、現代文とは異なる文章の組み立てられ方が理解できないのである」p21
    「古典の多様性や古典への愛を説いても、最初からそうしたことに関心がない人間にとっては何のことか分からないのである。こうしたすれ違いの根底には、近代における学問の辿った極度の細分化があるように思われる。それは同じ古典研究者同士でも、少し専門分野が異なると、てんで議論にならないというか、双方不可知の世界となっていることがままあるのだ」p22
    「古典知をもつことは、常に、現代を相対化しうる視点をもつことを可能にするのである」p32
    「イスラーム文化圏では、小学校を終えた子供たちの多くは、そのままコーラン学校(マドラサ)に行き、古老の指導を仰ぎながら『クルアーン』を古典アラビア語で詠唱し、可能ならば全巻暗記・暗唱するまで学習する。これをインドネシアからモロッコまでやっているのである。現地語とは全く異なる古典アラビア語(=フスハ)で暗記することにより、彼らは、イスラーム圏では、古典アラビア語で対話・交流することが可能となるのである」p45
    「古典候補の書物に対する注釈・注釈書をもってはじめてその書物は権威を身につけ、正しく古典となるということである。それを逆に言えば、注釈のない書物は、いくら人々がもてはやそうが、代々に亘って読み継がれようが、近代学問の祖となっていようが、古典たりえないのである」p70
    「紀貫之とは、最高官位は従五位上木工権頭という典型的なしがない中級官人であり、貴族社会の末端にいた人物であった。正二位権中納言に上った藤原定家とは同じ歌人であっても、全く異なる立ち位置にいたことを改めて認識していただきたい。紀貫之を含めて10世紀初頭の歌人とはせいぜいこの程度の身分だったのである」p76
    「(日本の特性)摂関・院政と同様に、一旦できあがってしまうと、以後、権威となり、反復継続されていくのが日本の伝統なのである」p103
    「人間とは、ある文献を写す際に、目移りで行を間違えたり、字を間違えたり、書き落としたりすることを普通にしてしまうそそっかしい動物である。だが、そういう類ではなく、前近代では、場合によっては書写者が勝手に書き換えたり、省略したり、増補したりする作為的な超写本行為ともいうべき行動をとってしまう動物でもあった。そのような作為的書き換えが写本にはかなりの頻度で見られるのである」p107
    「こうしてみると『古今集』『伊勢物語』『源氏物語』という日本を代表する古典三書はいずれも定家が本文校訂したものであることが分かるだろう。やや穿った見方をすれば、定家が本文校訂すれば、その書物は古典になるのかと思いたくもなる」p111
    「定家が主張したように、歌ことばを三代集(『古今集』『後撰集』『拾遺集』)・『伊勢物語』・『源氏物語』に絞り込んだことで、和歌を詠むとは、先行する和歌の表現を少しだけ変える行為ということになった」p118
    「(和歌人口が飛躍的に増加した理由)最低限『古今集』を完全に暗記し、題詠和歌の基本である『堀河百首』題などを用いて繰り返し題詠を学習すれば、誰でも和歌が詠めるようになるからである」p118
    「ルール共同体を構築していくというのが近代的な「市民的公共圏」であるのに対して、前近代的な「代表具現的公共圏」とは、公共圏を具現するにはそれにふさわしい行動・服装・言葉といった礼儀作法が要求され、それが可能な人間(貴族・騎士・僧侶)のみが公共圏への参加が認されていた。言い換えれば、貴族的行動様式が実現される時空間であったのである」p126
    「蒙古襲来以後は、第三の襲来に備えて、西日本、とりわけ九州の防備が急がれた。その結果、幕府の本来の領域である東国のみならず、全国的規模の行政に関わらざるをえなくなり、これが訴訟の大幅な増加を招くことになり、幕府の行政能力を超える事態となって、幕府の根幹を弱らせるに至った」p141
    「京都中を焼き尽くしたと言われる応仁の乱は、破壊の限りを尽くしたが、他方、それが起爆剤となり、古典復興に繋がったのである」p174
    「戦国大名には今川義元のように、少年時、五山で修業し、漢詩・和歌他公家並みの教養を備えていた大名もいたけれども、足利将軍などに比べると、全般的に教養レベルは低下した面は否めない」p176
    「細川幽斎こそこの時期の最大の文人」p177
    「近世・江戸期とは、実は和歌・古典学、さらに中世以来の連歌、連歌の発展形態である俳諧がすこぶる盛んだったというのは、歴史的な事実である」p188
    「井伊直弼の茶・国学・和歌、島津久光の歴史・古典・和歌というように、両人ともに近代期の最期を締めくくるにふさわしい文人大名だったという紛れもない事実である」p192
    「島津久光は、井伊直弼と並ぶ、幕末を代表する学識豊かな教養人、文人大名なのであった」p192
    「古典的教養の深さとその人物の性格のよしあしは、全く関係がないことをここで強調しておきたい」p193
    「(教養のあるワル)教養と人格とは原則関係がないということである。但し、教養を身に着けておくと、自分の正体や本音を隠すのには役立つこともあるだろう。また、皆と和歌や連歌を詠んでいたら、参加者との対立状況を緩和させることができるという美点もあるだろう。これは礼儀・言葉遣いにも通じる教養の力である。なんと言っても、相手から敬意をもたれる時点で相手に対して交渉が有利に運べるではないか」p194
    「武士とは『平家物語』に記されているように、戦場でよき敵と出会い、戦って勝つもよし、負けるもよし、戦場で死ぬことが最高の死に方と考え願う人たちのことなのである。関ヶ原で島左近は、壮絶な戦士を遂げたとのことだが、それ故に、伝説化し、近世武士の憧れの対象となったのである。(次の憧れは、おそらく赤穂浪士)」p198
    「(松平定信)大量の古典を何度も写し、さらに、サロンを開催する、いわば、大名文化圏の中心であり、この時代の古典的文化圏の頂点に立っていたのが定信という文人大名だったのである」p227
    「アメリカ合衆国は、建国からして既に近代であったという点で特異な実験国家である。イギリスなどから入植者たちがもともと住んでいた先住民を排除し、アフリカから売られてきた黒人を奴隷として使って疑似近代ヨーロッパ社会を作っていったからである」p237
    「小説家・詩人といった文学者で成績がよかったのは、森鴎外・夏目漱石・芥川龍之介くらいではなかっただろうか」p246
    「なぜ成績不良者が文学者になるのか。むろん、それ以外の選択肢がなかったからであろう。文学者とは、高学歴者で成績の悪かった人たちが唯一社会的地位を得る手段だったのである。文学者以外では、新聞記者といったジャーナリスト、あるいは、でもしか教師くらいしか、彼らには残されていなかったのだ」p247
    「(和歌の繁栄)和歌は実情を詠まないから、言ってみれば、嘘の気分あるいはコスプレ気分だから和歌は輝いていたと言ってよい。そんな和歌は虚偽だと批判されるかもしれないが、実情にはない、型の中での遊びの精神、伝統を踏まえた工夫の態度がここにはある。それでも、ヘンテコな腰折れ和歌を詠むと自分が関係する人々から一生笑われてしまうので、詠者たちは各自それなりに必死に訓練して歌会に臨んでいたのである。和歌とは知とセンスを競うゲームであり、かつ、社交であったからである」p252
    「『源氏物語』のみ栄えて古典滅ぶということである」p278
    「言葉を通して過去と繋がる。もう過去から逃げ出せないではないか。冗談を言っているのではない。それは強固なアイデンティティーともなり、古典・古典語をもつ国・地域に生まれ育った人間特有の態度を作り上げるのである」p289
    「古典が何の役に立つのか、と言われれば、実利的には何の役にも立たないが、自己を豊かにし、過去と繋がる自己を作っていくことだけは間違いない。こうして、古典・古典語をもった国・地域に生まれ育ったという宿命を甘受し体得することによって、古典はアイデンティティーとなるのである」p292

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著者プロフィール

1954年生まれ。1979年、早稲田大学教育学部国文科卒。1987年、同大学大学院文学研究科日本文学専攻博士課程を単位取得退学退学。東京女学館短期大学教授、東京家政学院大学人文学部教授を経て、現在、明星大学人文学部日本文化学科教授。専門は古典学。
著書に、『今昔物語集の世界構想』(笠間書院、1999年)、『記憶の帝国 「終わった時代」の古典論』(右文書院、2004年)、『古典的思考』(笠間書院、2011年)、『古典論考 日本という視座』(新典社、2014年)、『アイロニカルな共感 近代・古典・ナショナリズム』(ひつじ書房、2015年)、『保田與重郎 近代・古典・日本』(勉誠出版、2016年)など。
編著に、『〈新しい作品論〉へ、〈新しい教材論〉へ 古典編』(共編、右文書院、2003年)、『中世の学芸と古典注釈 中世文学と隣接諸学5』(編著、竹林舎、2011年)、『アジア遊学 もう一つの古典知 前近代日本の知の可能性』(編著、勉誠出版、2012年)、『高校生からの古典読本』(岡崎真紀子、千本英史、土方洋一共編著、平凡社ライブラリー、2012年)、『幕末明治 移行期の思想と文化』(青山英正、上原麻有子共編著、勉誠出版、2016年)などがある。

「2018年 『なぜ古典を勉強するのか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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