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感想・レビュー・書評
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清少納言の娘の小馬命婦(こまのみょうぶ)は彰子に仕えたのか。紫式部の後輩か…たぶん小馬命婦が仕えはじめる前に、紫式部は引退していただろうけど。
1012年ころに紫式部は引退して、1014年ころに亡くなったとされる。残された紫式部の娘賢子は、1017年の18歳のころに彰子のもとに出仕する。
清少納言の娘の小馬命婦が生まれたのは、定子の死後だろうから、小馬命婦が彰子に出仕しはじめたころは、賢子も大ベテランになっているか、もしくは引退していたかも。
「古語の「うつくし」は、小さなものや幼いもののかわいらしさを表す言葉。今の「美しい」に近い意味になるのは平安時代の終わりごろからとされています。」p.17
平安貴族の住んでいた寝殿造りという屋敷は、柱ばかりで壁がほとんどないけれど、この構造で地震に耐えることができたの?
紫式部は、紫式部日記で彰子に仕える人はその地位にふさわしい優秀さや振る舞いが必要なのに、自分の同僚である彰子の女房たちには能力も心構えも欠けていると嘆いていた。
清少納言は対照的に、すばらしい定子のもとには優秀な女房たちが揃っていると枕草子でアピールしている。
枕草子は定子が亡くなって、清少納言が宮仕えをやめてからも書きつづけられたという話だったけれど、どこの段がいつごろ書かれたのかが気になる。
当時は妻が夫の着る衣装を選んで着付けをしていて、身分や場所にあったセンスのいい衣装を着ているかが夫の評判に関わることだというのが当時の常識だった。
清少納言が藤原宣孝(ふじわらののぶたか)を笑いものにする段を書いたのは、藤原宣孝の妻だった紫式部を笑いものにして、夫の衣装も適切に揃えられない紫式部の仕える彰子は、定子には及ばないほどお粗末だと主張したかったんじゃないのか?詳細をみるコメント0件をすべて表示