科学報道の真相: ジャーナリズムとマスメディア共同体 (ちくま新書1231)

著者 :
  • 筑摩書房 (2017年1月5日発売)
2.94
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感想 : 8
3


① Natureの正当性
② 「有力な仮説」にすぎない
という問題点をふんわりとしか理解せず、その絶大な
③ 話題性

④ 余裕のない研究機関
⑤ 余裕のないメディア
が乗っかってぶち上げてみたらただの
⑥ 余裕のない研究者
でした…というあらまし
リケジョは対等な言葉ではないし見世物にしている感は当時ほんとうに不快だった。そこまででもやらなきゃいけない理研のプレッシャーもすごかったのだろうけど
科学雑誌はその絶大な権威を自覚してマジで責任もって査読しないといけない editorの権限がどんなものなのかよくわからない(不透明)けど…
それができないならPubpeerみたいなのでオープンにした方が良いのでは 記者にそこまで精査することを求めるのは酷だよ


情報がなければ報道のしようもないのだから会見数と記事数の相関はしょうがないのでは
吉田調書報道についてはよくしらなかったからかなり衝撃だったのだけど 吉田所長の言いようをみると「マニュアル」というもの一般への不信というか、シビアアクシデントには臨機応変に対応してこその腕であるみたいなそういうのがあるようにみえる
これについては 映画「ハドソン川の奇跡」のことを考えながら読んだけどまあここに書いてある限りでは吉田所長は現場の専門家としての責任をもった最善の判断をしたとは言えなかったように思うな(わたしは著者の意見に流されやすい)


人為・自然原因説ともに証明は難しいんだけど地球温暖化についてはそのメリットとデメリットをはかりにかけてデメリットが多いということに(少なくともIPCC的には)なっていて、それに基づいて温暖化対策をするというならある程度の正当性はあるんだからどっちが原因とかガリガリやらなくてもいいとおもう
問題はそのメリットとデメリットの評価方法でそれを公正に伝えて議論をさせてほしいのだけどそういうの見たことないな そこを説明してちょうだいよ


記者コミュニティは科学者コミュニティと本来は似ないものなはずなのに似てしまっている(内向的)なことが問題なのではという議論をしたけど
特ダネ・特落ちとかいうのは流行に乗りながら新規性を重視するでかい研究とも似ているので確かに似ていることそのものが問題という気がする


客観報道というのは手順の客観性のことを指しており客観的事実のみを伝えることを意味しない ということが大きな気付きだった
事実に考察を加えた時点でそれは主観的なものであるしそれを避けようとするならメディアの意味はないしプレスリリースだけで十分だもんな
現代は一般人でも会見の中継やプレスリリースなど一次情報にいくらでもアクセスできるんだから、メディアは社の方針に基づいて誠実に議論した結果なら結果的に偏向報道と言われても自由に公正な報道をすればいいじゃないというのがわたしの考えですね


固い科学観についてですけど まずこれを崩さなきゃだよねというのはいままでも無限に考えてきているので置いておいて、
避けようもなくふんわりしたデータから「ここまで言える!」と確信する(しているように見える)科学者たちの中では、これだけの不確実性をもった結果である・より根本的な原因によってその結果が覆されるかもしれないし完全な真理というものはない・しかし今のところのベストである という前提認識が当然にある、というのは知られていないところだよなとおもった
つまり、科学者が確信していないことを人々が確信してしまうという問題以前に、データからは確信的にいえないようなことを確信と"みなせる"という科学者のイデオロギーというかユビキタス専門知的なものがあるということはあまり知られていないように思う

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 教養
感想投稿日 : 2017年5月15日
読了日 : 2017年5月15日
本棚登録日 : 2017年5月15日

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