アフガニスタン史

  • 河出書房新社 (2002年10月1日発売)
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先史時代~1979年のソ連の侵略までが前田耕作氏の、1979年~2001年のNATO軍のカーブル入城までが山根聡氏の執筆となっている。情報量が薄いが、前田氏によるカンダハールやヘラートといった都市の略史は役に立つ可能性がある。

アフガニスタンの歴史の概説書。二部構成となっており、第一部(本書19-130頁)である先史時代~1979年のソ連軍の侵略までを中央アジアの考古美術研究家の前田耕作氏が、第二部(本書131-233頁)である1979年のソ連軍の侵略~2001年のタリバン政権崩壊までをウルドゥー文学研究者の山根聡氏が執筆している。240頁に満たない分量でアフガニスタンという複雑怪奇を極まる変遷を経た地域の歴史を描くにはやはり困難があるようであり、アフガニスタンについて体系的に知りたいのなら同時期に刊行されたマーティン・ユアンズの『アフガニスタンの歴史』(明石書店、2002年8月)を推薦するが、本書には前田氏によるカンダハール(66-76頁)やヘラート(107-110頁)といった都市の略史や、90年代のタリバン政権時代にパキスタンに滞在してアフガニスタンの情報を得ていた山根氏による、「アフガニスタンでなぜタリバンが支持されたのか」についての記述には興味深いものがあった。よって本書は、ある程度アフガニスタンについて知っている人が補足として読むべき書であろう。あとがきにて前田氏が「私たちはそれぞれにアフガニスタンへの想いをこめて歴史を書いた。というよりすでに書かれた書片を掻き集め、すでに報道された数々の言説の切片から選集し、推論の助けを借りて事実と思わしきことを記述した」(本書235頁より引用)と述べているが、恐らくアフガニスタンのような地域の歴史を書く際には、作品がこのような形になることは避けられないのだろう。

なお、アフガニスタン史を知る中で、建国以来支配民族となっていたパシュトゥン人の勇猛さに私は目を奪われていたが、本書で初めてその名を知ったアフガン青年同盟(赤シャツ隊とも)は、その創始者のアブドゥール・ガッファル・ハーンがパシュトゥン人の出身ながら、インドのガンディーに影響を受けた非暴力による社会改革を達成するという意図を持っていたとのことであり、特筆に値する(104-105頁)。マーティン・ユアンズその他の類書では記述されていなかったが、イスラームとヒンドゥーの結合を構想するなどその先駆性には改めて光が照てられるべきだと感じる。

1930年代には、アマヌッラー王の近代化=西欧化改革とその失敗という政治的状況に対して、アフガニスタンの今後をどのように考えるかについての民族派と改革派の対立が存在した。民族派はイスラームが尊重されていないことやモンゴル帝国の征服にアフガニスタンの後進性の原因を求め、改革派は日本に倣って近代化・工業化を進めるべきだという発想を持っていたとのことであるが、類書には明快に書かれていない部分なので、以下に引用する。

“ 民族派は、アフガニスタンの不統一に基づく「遅れ」は、イスラームの法と精神を遵守しなかったことに起因すると主張した。また民族派のある者たちは、「遅れ」は歴史的要因、すなわち一三~一四世紀の(←111頁112頁→)モンゴル軍の侵入という外側から押しつけられた要素に起因すると言い張った。「チンギス・ハーンの襲来があるまでは、アフガニスタンはイスラーム世界の輝ける星であった。文化の水準においても、文明の段階においても、イスラーム世界ではアフガニスタンに匹敵する国はなかった」というのである。モンゴル軍のもたらした荒廃のあと六〇〇年の間に、アフガン人の高邁で道徳的な気質が歪められてしまったというのが、民族派の言い分であった。
 改革派の人びとは、アフガニスタンの国家の再生、精神と文化のルネッサンスは、その近代化の進展にかかっているとした。つまり、科学とテクノロジーの教育と学習の絶えざる努力がなければ、アフガニスタンは真の独立に至ることはできないと主張したのである。進歩と発展はヨーロッパだけのものではない、アジアの日本の例に倣ってアフガニスタンは人力を結集し、天然資源を活用して工業化をなしとげなければならない、と人びとに説いた。近代化とイスラームは矛盾しない、知識を学び身につける能力こそ神の与え給うたものではないか、アフガニスタンの近代化が成功するか失敗に終わるか、新しい文明と伝統の調和的発展こそ鍵となる。改革なくして独立なし、独立なくして国はない。改革と独立は、家と灯、肉体と魂、植物と水の関係のように不可分である、そう彼らは主張した。
 こうした伝統派と改革派の双方の主張を調和的に取捨することが、ザーヒル王とハーシム・ハーン宰相の施策となった。例えばハーシム・ハーンは、教育について次のような考え方を表明している。近代化の確固たる基礎を王国に与えるのは、学校制度を国中に確立することであり、そのために「今年度(一九三七年)には、われわれは軍事予算のほぼ半額に等しい金額を公教育の整備に当てる。国の独立を将来見守らなければならない人たちを育て上げるためである。アマヌッラーが試みた超西洋的な都市を築くのではなく、アフガン人の考え方そのものを変えなければならないのだ。これまで、われわれは近代化の外形だけを見つづけてきた」。”(本書111-112頁より引用)

また、先述の通り、第二部では、1990年代のタリバン統治時代に、パキスタンに滞在していた山根聡氏が、「なぜタリバンが人々から支持されているのか」について述べた箇所が存在する。1994年11月に、20人ほどのイスラームを学ぶ学生たち(タリバン)による山賊退治をきっかけに始まったタリバン運動は、隣国パキスタンの支援もあって急速にその勢力を拡大したが(168-174頁)、誕生したばかりのタリバンがどう見られていたのかについての証言が非常に興味深いので引用する。

“ パキスタン政府同様、パキスタンやアフガニスタンの貿易商も、通商路安定の期待をタリバンに託した。一九九五年春に筆者が訪れたクエッタ(引用者註:パキスタン領バローチスターン州の州都。アフガニスタンとの国境付近の街)では、商店主がタリバンの所属するマドラサへ寄付金を出す姿が見られた。タリバンをどう思うか、と訊ねると、商店主達は一様に支持すると答えた。彼らは、中央アジアとの交易において、山賊が障害だったため、タリバンによる通商路安定を歓迎した。
 商店主はクエッタ市内のマドラサへの寄付の領収書を見せてくれた。額面は一〇〇〇ルピーから一万ルピーまでさまざまだった。彼らはタリバンの行動は善行で、その支援は当然だと答えた。
 タリバンの結成と台頭は、内戦や治安悪化への憂慮という、タリバンの内面の動きと、政治的・経済的な利害を目論んだ周辺からの外的な支援が重なったことでなしえたものだった。そこには綿密な計画はなく、むしろ場当たり的に勢力を拡大していった様子が窺える。
 だが筆者にはこの場当たり的な無計画性が、タリバンの「無欲な純粋さ」を裏づけるように思われた。商店主たちや貿易商たちは昨日まで近所のマドラサにいた学生たちの質素な生活を知っており、彼らによる治安回復を信頼し、賛同したのだ。この無計画性はタリバン政権樹立後、実務経験のなさと、復興事業の不行き届きといった面でタリバンの欠点として顕在化するが、少なくとも治安回復という点で多くの支持を得たことは間違いなかった。
 またこの寄付が、マドラサに対して行われたという点が、タリバンにとっては好都合だったと思われる。タリバン支持者の中には、クエッタ市内の商店主や貿易商のみならず、密輸業者や、麻薬を販売する者もあったと言われるが、タリバンとの関係は明らかになっていない。それは密輸業者達が、(←184頁185頁→)直接タリバンに資金援助したのではなく、一旦マドラサに寄付した可能性も排除できないのだ。マドラサとしては、寄付金の出所を尋ねる必要性はない。また寄付する側も通商路を維持してくれさえすれば、見返りを要求する必要もない。両者の利害は一致するのである。こうしてタリバンは地域の安定によって住民たちの精神的支持を得ると共に、通商路の確保によって商人たちの財政的支持を受け、勢力を拡大していった。”(本書184-185頁より引用)

こうして「世直しのために決起した無欲な学生」(本書170頁より引用)として、とバザールの商人や貿易商の支持を集め、パキスタンからの支援を受けたタリバンは急速に勢力を拡大して政権を樹立し、パシュトゥン人の農村部の習慣(パシュトゥンワリ、パシュトゥンワライ)に著しく酷似したイスラーム法解釈によって女性の外出制限などを含むイスラーム化政策を打ち出していったのは周知の通りである(パシュトゥンワライについては本書188-189頁に記述がある)。

そのようにしてアフガニスタン全土の9割を支配したタリバンも、統治の実務経験の不足からか内政、外交での失敗を繰り返した。山根氏はタリバン政府が外務省に国連局、NGO局、通訳局、出版・情報局の四部局を設置して外交に当たったことを、部局構成からして外光の実務経験者が欠けていたと論じているが(本書200頁)、本書を読む限りでは女性の外出禁止等の政策やアルカイダのビンランディンをかくまったこと、バーミヤンの大佛を破壊したことなどの、タリバン時代の諸政策もこの統治経験の少なさということにまとめられそうに思えた。9.11同時多発テロの一年前に当たる2000年にはタリバン内部で穏健派と強硬派の対立が進行していたとの指摘も見逃せない。タリバンは決して一枚岩の強力なイデオロギーでまとめあげられた集団ではなかったのだ。


“ 国連による制裁の中、タリバン内部では上層部に対する不満から亀裂が生じていた。二〇〇〇年一月、カブールに隣接するパクティア、パクティカ、ホスト、ガルデズ各州に居住するパシュトゥン人部族長が、タリバンに搾取された土地の返還を求め、戦闘も辞さないと宣言した。またタリバン内で、ビン・ラディン引渡しや国外退去処分を考えるグループと、これに反対するグループが対立した。後者は、タリバンが政治的駆け引きに走らず、結成当時に掲げたイスラーム体制確立を進めるべきとの主張を繰り返し、内戦や和平調停に進展が見られないことから上層部への批判を始めていた。”(本書207頁より引用)

“ タリバンの強硬な態度について、制裁を科す国連への対抗措置と報じられたが、実は大仏破壊の背景には、偶像崇拝を否定するという宗教感情だけでなく、前述したタリバンの内紛が関係していた。
 タリバン指導部への批判を繰り返し、ビン・ラディン引渡しを拒否する内部「強硬派」は、引渡しで国際的承認を得ようとする「穏健派」と対立し、二月二日には武力衝突まで起こしていた。この衝突に勝っ(←209頁210頁→)た強硬派は一二日にカブール博物館の仏像破壊に乗り出した。その上ヤカラングを巡る攻防戦が展開されており、タリバン指導部は軍事上中央山岳地帯制圧を誇示する目的と、組織上「強硬派」牽制のために大仏破壊の決定を下したのだった。”(本書209-210頁より引用)

あのバーミヤンの大佛破壊も、実のところタリバン内部の主導権争いの結果だったということらしい。

その後、2001年の9.11同時多発テロ後にアフガニスタンに侵攻したアメリカ合衆国主導の西側諸国の軍隊によってタリバン体制は崩壊し、親西側のカルザイ暫定政権が樹立され、暫定政権に支援を行う目的で開催された2002年1月21日の東京会議の記述を以て本書の叙述は終わっている。しかし、我々は2021年8月15日にタリバンのカーブルに入城し、親西側政権が崩壊したことをテレビで見たばかりである。

20年しか持たなかった親西側政権の何が失敗だったのかは今後の研究に任せるとして、我々は当面、「タリバンのアフガニスタン」の存在を、頭のどこかで考えて生きなければならない。2002年に刊行された本書中で、山根氏が提言したことを改めて引用することで本稿を閉じることにする。今度はこの提言が生かされることを願って。

“ タリバンの存在は、異なる価値観の存在を認め、これを理解することで対話を進め、無用な衝突を避けなければならないという教訓をあらためて知らしめた。時を経て衝突の規模は確実に大きくなり、いまや兵器は人類全体を滅ぼすものとなっている。我々はその意味でも、タリバンを単なる過去の存在として葬ってはならない。”(本書230頁より引用)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2021年9月18日
読了日 : 2021年9月11日
本棚登録日 : 2021年9月11日

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