声の在りか

著者 :
  • KADOKAWA (2021年5月24日発売)
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『自分の言葉を持ちたい。消えてしまったかもしれない自分の言葉を取り戻したい』。

あなたは、普段の生活で自分の意見をどの程度発しているでしょうか?人は集団の中で生きていくために言葉を用いるようになりました。そして、その言葉を用いて様々なコミュニティの中で暮らしています。学校で、職場で、そして家庭で、と、私たちは複数のコミュニティに属する中で、自らの立ち位置というものを知らず知らずのうちに意識していくようになります。ある一つの議題があったとして、その議題の結果をまとめるためには議論が必須となります。しかし、特にこの国では議論の場で激しく言い合うことを避ける風潮があります。事前の根回しによって、結果を前提に形だけの議論の場を持つ、なんとも空虚な話だとも思います。また、そんなコミュニティの中では声の大きな存在が必ず現れ、場を支配していくのも世の常です。そんな中では下手に意見することは、自身の存在を消されてしまうそんな危険だって付きまといます。なかなかに人の世を生きることも大変です。

さて、ここに小学生の男の子を育てる一人の女性を描いた作品があります。そんな女性は『言葉を慎重に選りわけているうちに、喉がふさがったようにな』ったと感じています。言葉を『飲みこみ続けているうちに引っこんでしまって、とっさに出てこな』くなったと感じています。そしてそんな女性は『わたしの声』が『もう消えてしまったのかもしれない』とさえ思い至ります。

この作品はそんな女性が『自分の言葉を持ちたい』と思う瞬間を見る物語。そんな『消えてしまったかもしれない自分の言葉を取り戻したい』と強く思う物語。そして、それは『それでも自分の言葉を持ちたい』と顔を上げる一人の女性の成長を垣間見る物語です。

『駅前の鐘音(かなと)ビルの二階に「アフタースクール鐘」という看板が掲げられてい』るのに気づいたのは主人公の坂口希和(さかぐち きわ)。『鐘音ビルの一階は小児科』で、『去年長男に院長職を譲った医師』の『オーセンセ(大先生)』と次男が看板の設置に立ち会っていたのを聞いた希和。『鐘音家の次男、なにをはじめるつもりだろうね』と噂される次男の要(かなめ)には、『良くない噂』が流れていました。そんな要の姉である『理枝ちゃんとは同級生』で、小学校時代『毎日一緒に帰っていた』時に『おねーえちゃん』と呼びかけながら、そんな要が現れたことを思い出します。『今はたしか離島だか人里離れた山村』で、医者をしているという理枝のことを思いながら『いちごを洗う』希和。『瓶の中にいちごと氷砂糖を交互に入れて』シロップを作り、写真を『SNSに投稿』します。そして、作っている時より『自分の投稿を眺めている時のほうがいわゆる「ていねいな暮らし」をしているという実感がわく』と感じる希和。『自分の「暮らし」に、概ね満足している。概ねは』という希和。そんな希和は、『「アフタースクール鐘」の正体』が、『民間学童』であることを『参観日の教室』の保護者の話で知りました。『参観日が苦手だ』と感じる希和。『地声が小さい』、『絵もへたくそ』、『スポーツ全般苦手』と息子の晴基のことを思い『自分の子どもが活躍する機会などないとわかっている場に、どうして行きたいと思えるだろう』と感じています。そして、参観のあとの『保護者懇談会』では、『正面に岡野さんが座』り、『八木さんと福岡さんは従者のよう』に両隣に座りました。『ボスママ』と位置づけられている岡野。かつて『子ども英語教室に誘われ』たものの『ぎょっとするほど高い』月謝入会金を知って『うちは無理です』と返した一言。それから挨拶もしてくれなくなった今。『あちら側とこちら側』を意識してしまう希和は、乗り気でもなかった晴基を無理に通わせれば『あっち側に行けたんだろうか』とも思います。そんな彼女たちがSNSで『アフタースクール鐘』のことを『お金目的の人に子ども預けるって、やっぱどうなのって思っちゃう』とやりとりしているのを仕事の休憩時間に読む希和。そんな希和は、『口コミサイトに書きこまれたレビューに、誹謗中傷などが交じっていないかチェックする』パートをしています。真面目にその内容を読んで心を痛める希和は、一方でスマホばかり見て会話のない夫のことを思います。また、息子の晴基ともきちんと話せなくなっている今を思う希和は、『わたしの声』のことを思います。そんな声が『飲みこみ続けているうちに引っこんでしまって』、『もう消えてしまったのかもしれない』とも思う希和。そんな希和が、『アフタースクール鐘』で働くことになり、『自分の声を取り戻したい』という日々を歩んでいく物語が描かれていきます。

「カドブンノベル」に2020年1月から12月に6回に渡って連載された作品をまとめたこの作品。章題に〈いちご〉〈メロンソーダ〉〈マーブルチョコレート〉〈ウエハース〉〈トマトとりんご〉〈薄荷(はっか)〉というように身近な食べ物・飲み物の名前がつけられていて、それぞれの章の中でそれらが記憶として残るような印象的な場面に登場するのが共通しています。これらの章題の食べ物・飲み物は決して特別なものではありません。しかし、私たちが生きている中で同様にそんな一見どうでもよいようなものがキーになって、ある場面のことを思い出すようなことがあると思います。これらはこの作品中でそんな役割を果たしていきます。例えば『メロンソーダ』です。ある場面で『アフタースクール』を飛び出したゆきの。そんなゆきのを追いかけた希和は、路地奥で彼女を見つけます。落ち着かせようと『好きなジュースとか、ある?』と訊くと『メロンソーダ』と答えたゆきの。自販機で買って、ゆきのとともにそれを飲む希和は『快適とは言えないビルの隙間で飲むメロンソーダは、ふしぎなくらいおいしかった』と感じます。『おいしいね』と語る希和に少しづつ自らの境遇を語りだしたゆきのは、『メロンソーダ、ありがとう』と言ってその場を立ち去りました。そんな時のことを思い出す希和は、『ビルの隙間でメロンソーダを飲んだあの日』とその記憶に『メロンソーダ』を絡めて思い出します。これこそが味覚に訴える食べ物・飲み物が想い出にその記憶の起点として組み込まれた瞬間です。恐らく希和は、この先も『メロンソーダ』を飲む度にゆきののことを思い出すはずです。この作品は希和の悶々とした感情に包まれるある意味鬱屈とした作品でもありますが、対照的に微笑ましくなるようなこんな食べ物・飲み物を印象的な場面と共に描くことでその沈鬱さを少しでも和らげる効果があるように思いました。

また、この作品が執筆されている期間には新型コロナウイルスの流行に伴う学校閉鎖がなされた時期が重なります。この作品では『学校が突然休校になってもすべての親がそれに合わせて仕事を休めるわけではない』という親の戸惑い、『テレビをつけると不安になるような情報しか流れてこない』というリアルなあの時代の情景が物語の中に極めて自然に織り込まれています。そんな描写のことを『十分な説明もないまま、いきなり学校生活が断ち切られる理不尽さを経験し、これも小説に残さねばと思いました』と語る寺地はるなさん。子育て中の一人のお母さんとして、そんな状況をリアルに体験されたその気持ち、戸惑いが絶妙に物語の中に表現されていることで、後の世にも、あの時にこの国で起こっていたことの記憶がリアルに感じられる貴重な作品になっているように感じました。

そんな作品で寺地さんが一番表現されたかったこと、それが主人公の希和が強く望むようになる『自分の言葉を持ちたい。消えてしまったかもしれない自分の声を取り戻したい』という力強い思いの先に続く希和の成長を見る物語です。この作品の主人公・希和は、決して特別な境遇にある人物ではありません。小学生の男の子を育てる一人の母親、そしてサラリーマンの妻として子育てに、パートに、そして日々の生活に追われながら毎日を生きています。これはどこにだってある光景です。そんな普通の毎日を描く中に寺地さんが象徴的に登場させたのが今や老若男女誰もが日々利用するSNSでした。希和は『いちごシロップ』『枇杷のゼリー』『あんずのジャム』などを作るとすぐに写真を投稿し、すぐさま『いいね』がつく、そんな日々を『なんとささやかで、いたいけな人生の楽しみかただろう』と感じています。一方で、岡野たちがSNSで繰り広げる『たっぷりと毒を含ん』だ投稿に心を乱します。そして、『岡野さんたちがつくった「四年生の保護者」のためのLINE』を見て、そこで『誰かがしょっちゅう問題提起をし、それに賛同するような返信やスタンプが並ぶ』という状況に辟易するようになっていきます。そんな希和は『自分もまたここに「わかります」とか「同感です」とか、そんな言葉を連ねる役割を求められているのだろうか』とも感じます。一方で、晴基とのことを話そうにも『生返事』ばかり、『手元に置いたスマートフォンの画面から一ミリもずれない』という夫との間の意思疎通にも疑問を感じる希和。そして、晴基にも『言いたいことはたくさんあるのに、今言うべきことと言うべきではないかもしれない言葉を慎重に選りわけているうちに、喉がふさがったようになる』というように、身近な人たちとのコミュニケーションのあり方に疑問を感じていきます。私たち人間は他者とのコミュニケーションを取る中で会話を非常に重視します。その一方で日々忙しい私たちはそのための時間が十分に取りづらい状況にあるようにも思います。また、相手を慮りすぎるが故に、本来言いたいことを言えないということも多いとも思います。さらにこの国には”空気を読む”という独特な感覚もあり、なかなかに生きづらい世の中を生きざるを得ない状況もあるように思います。”声の大きい人”の意見があたかも正論のように扱われ、下手に意見を言うことがマイナスに見られる、そんな今の世の中。この作品では、そんな誰もが感じる生きづらさを、希和の心の声を拾いながら丁寧に描き出していきます。

『たったひとことで状況を一変させるような、魔法みたいな強い言葉は、きっとこの世にはない。それでも自分の言葉を持ちたい』。

そんな風に思い至る希和。しかし、そんな思いを現実のものとして生きていくにはある意味での強さと覚悟が求められることに変わりはありません。『きっとこの物語が終わったあとも、希和は小さな練習を繰り返しながら自分の声を発するようになっていくのだと思います』と語る寺地さん。私たちが生きて行く中で生きづらさを解消する特効薬はありません。しかし、苦悩の末に行き着いた希和の感情を思う時、その結末にふっと爽やかな風が吹き抜けるのを感じました。

『自分の意見が定まっていなければ、声を上げることはできません。そして、自分の判断基準となる物差しがなければ、意見を持つことはできません』と、おっしゃる寺地さん。私たちは誰もが複数のコミュニティに属して毎日を生きています。人は千差万別です。満場一致でことが進む方がおかしいとも言えます。そんな見かけ上の満場一致の裏には自分の感情に蓋をした多くの人たちの姿があるはずです。“みんなと仲良くしましょう”と、私たちは大人でさえできないような高いハードルを子供たちに押し付けているようなところもあります。この作品では、『アフタースクール鐘』で千差万別の感情を持つ子供たちに接する中で、一つの気づきを得ていく希和の姿を見ることができました。

『ただそこにいるということに意味がある。ならばその意味を、他人に委ねまい』という力強いその想い。そんな中で『孤立を厭わず、むしろ自由だと感じるようになっ』ていく希和の成長を垣間見るこの作品。「声の在りか」という書名に込められた寺地さんの強い想いを感じた、そんな作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 寺地はるなさん
感想投稿日 : 2021年12月6日
読了日 : 2021年9月19日
本棚登録日 : 2021年12月6日

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