「考現学」とは考古学に対するものだとすると、ほんとうは”考今学”とするべきとは、本書にも書かれている。でも著者としては、そんなのどっちでもいいという。
自分はひょっとすると、ご自分の苗字が「今」だから避けたのではないか?と、真面目に感じた。たとえば師匠の柳田国男との”別れ”のエピソードなどを読むと、今和次郎という人は、そんなことも感じさせる人だ。
本書を読む前は、銀座などの都会人の生態を観察する程度しか知らなかったが、その視線は驚くほど多岐にわたっていることを今さらながら知り得た。井の頭公園の考現学は実に驚く……。
そして観察の苦労話も切々……。たとえばいくら”古き良き時代”としても、プライバシーへの配慮は十分なされねばならない。”ヘンなのがうろうろしている”と警戒心を持たれれば、観察どころじゃなくなるのは、今と同じなのだ。
対象物の中に「カケ茶碗多数」があるが、何十種類もの欠けた茶碗の図も載っていて、正直はじめは呆れたが、しかしふと思った。これってそれこそ考古学じゃないのか、と。アルバイトの人たちが土中から、刷毛で丁寧にかけた食器類などを掘り出している図が頭をよぎったのだ。
著者は「考現学は、時間的には考古学と対立」と述べているが、無意識に(あるいは意識的か?)考古学へのオマージュもあったかもしれない……、と想像してみた。
読書状況:読み終わった
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カテゴリ:
文化・芸術
- 感想投稿日 : 2023年8月2日
- 読了日 : 2023年8月2日
- 本棚登録日 : 2022年5月18日
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