『トラ・トラ・トラ!』その謎のすべて 黒澤明VS.ハリウッド (文春文庫 た 76-1)

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  • 文藝春秋 (2010年3月10日発売)
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映画『パール・ハーバー』を観ていたとき、日本軍の爆撃シーンに、観たことがあるな、と思わせるシーンがあった。それからしばらくして『トラ・トラ・トラ!』を見直して、やっぱりと思った。全くのフィクションではないから、事実に基づいた部分の演出はよく似たものになるのかもしれない。その『パール・ハーバー』が散々な悪評を得たものだから、逆に株が上がったのが同じ真珠湾攻撃を描いた1970年の日米合作映画『トラ・トラ・トラ!』である。

その『トラ・トラ・トラ!』だが、制作発表時には日本側の監督はあの黒澤明だった。それが、実際に上映された時点では、舛田利雄・深作欣二に替わっていた。そればかりではない。キャストにも大幅に変更があった。海軍軍人出身者の素人で固めた山本五十六をはじめとする連合艦隊総司令部も、プロの俳優陣に交代している。この交代劇の裏にいったい何があったのだろうか。その舞台裏の葛藤を、新しく発見された資料を駆使して、関係者が語る37年ぶりの真実とは。

一番の原因は、日本側の脚本・監督を引き受けた黒澤明の東映・太秦撮影所で行われる撮影が、いっこうにはかどらなかったことにある。ここで、疑問を感じた向きもあろう。なぜ東宝ではないのか、と。実は、その前年、黒澤は東宝を離れ、独立プロを興していた。その経緯もあり東宝で撮るわけにはいかなかった。おまけに同じ頃、東宝では『日本のいちばん長い日』の成功を受けて8.15をシリーズ化しようとしており、第二作『連合艦隊』を企画中であった。

黒澤はどこで撮るのも同じと考えていたらしいが、気心の知れた砧の黒澤組ではない。東映京都には太秦の気風というものがあった。完璧主義で知られる黒澤のやり方は組合意識の強いスタッフとの間に軋轢を生む。それに輪をかけたのが、素人俳優の演技であった。いくら相貌が似ていたとしてもプロの俳優に混じって満足のいく演技ができるわけがない。自分が決めたキャスティングである。引っ込みのつかない黒澤は激昂し、奇矯ともとれる行動を取るようになる。

アメリカ側の指揮を執っていたのがダリル・F・ザナック監督と『史上最大の作戦』を制作したエルモ・ウィリアムズ。映画化権を取ったダリルに黒澤を推薦したのがエルモであった。エルモは、ダリルと黒澤の間に立って、様々な障碍を乗り越えていく。映画制作の仕事というものがいかに大変なものか。この本を読んでいちばん伝わってくるのは、このエルモの私心を廃した働きぶりかもしれない。しかし、黒澤はそのエルモによって解雇を通知されてしまうのである。理由は「四週間の休暇治療が必要」という医師の診断であった。

黒澤に頼まれ、日本語の脚本を英文に翻訳する仕事をしていた筆者は、多くの場面に同席し、この間の事情に詳しい。事実上黒澤側に位置する筆者の目から見ても、当時の黒澤の取った行動は奇妙なものが多い。旗艦長門の長官公室の壁を一度撮影しているにもかかわらず塗り直しを命じる「壁塗り直し事件」を筆頭に、神棚事件、屏風事件と、異常なこだわりを見せる命令が次々と下され現場は混乱を極めている。

撮影クルーとの間を取り持つ人材の不足、総監督という肩書きに固執する黒澤に対して、あくまでも日本側監督であるという認識のエルモたちフォックス側、と契約にまつわる黒澤プロの代理人への不信も相俟って、食い違いが食い違いを生み、二進も三進もいかなくなっていたというのが真実のところ。黒澤は一睡もできず深酒の臭いを漂わせて撮影所入りを続けていたという。

芸術家肌の黒澤は撮影に入ると登場人物が乗り移るのだと常々語っていた。この頃の黒澤の背中には山本五十六が貼りつき、アメリカ側と戦っていたと思われるふしがある。勝てるはずもないが、負けるわけにはいかない絶望的な戦いである。黒澤が脚本を書き、撮ろうとしていた映画『虎・虎・虎』は、黒澤自身の言葉を借りれば「誤解の積み重ねによる、能力とエネルギーの浪費の記録」であり、運命的な「悲劇」である。黒澤がハリウッドとの戦いに敗れた映画『トラ・トラ・トラ!』監督降板の顛末こそ、まさにその言葉通りであった。

ついに撮られることのなかった黒澤の『虎・虎・虎』の中では、山本五十六は剽軽なところもある魅力的な人物として描かれるはずだったとか。黒澤の作品では『椿三十郎』がいちばん好きな者としては、いかにも司令長官然とした山村聡の山本でなく、人間的な山本が観てみたかった。黒澤得意の絵コンテや、当時の脚本が随所に引用され、幻の映画を立体的に再構成しようという試みも見える。黒澤ファンならずとも、映画好きには一読をお薦めしたい力作である。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 映画
感想投稿日 : 2013年3月8日
読了日 : 2006年6月17日
本棚登録日 : 2013年3月8日

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